Words on
the way of Zen
Reflections on practice, tradition, and the everyday path of Zen.
歳月は無常なり
太陽は留まることを知らず、大地は静止することがない。時は日の出没とともに移ろい、大地の巡りとともに消え去っていく。そこに仏は説かれた——「一切万法は刹那に生滅し、移ろい転じ、まさに無常である」と。修行する者は、時が永久不変だという迷いには、決して陥ってはならない。
読む禅師の瓢箪
ある日、若い僧が師のもとを訪れた。
読むかつて混乱などあったであろうか
行脚の僧が、旅の途中、老婆が守る小さな草庵の前に足を止め、声をかけた。
読む彼岸に至りては筏を捨てよ、未だ至らざる者は舟を要す
[唐]潙山正円禅師
読む禅詩を味わう:これすなわち仏、別に求むるなし——この時においてのみ、繋縛を忘る
【唐】潙山警詮禅師
読む禅の実践 | 三昧と般若の均衡(其二)
問:「御判断によれば、悟後修行の門において、三昧と般若の均衡という意味に二種類がある。一には自性の三昧・般若、二には随相の三昧・般若である。自性門では次のように説く。その働きは法爾自然、本来寂静にして知なり。元来無作にして一切の境を絶し、対するものなければ、何ぞわざわざ掃うに労せん。一念の執着も生ぜず、忘縁の力を借りる必要なし。これを頓門、自性を離れざる者、三昧と般若の均衡あるものと判断する。随相門では次のように説く。理に従って散乱を収め、法を観じて空を観じ、沈掉を等し...
読む禅偈を味わう——恒河の砂のごとく多きも、ひとりとして悟りを得ず——その失はことばの道を求むるにあり
洞山良价禅師(唐)
読む虚雲老和尚:行住坐臥は道と離れず
道を修することは、田に稲を作るようなものだ。種を播けば芽が出て苗になり、その苗を植え替えて稲を育て、稲を収穫して穀とし、穀を炊いて飯にする。仏性は種のようなものだ。一切衆生の本来の自性は仏と変わらず、自心がすなわち仏である─これが仏性と名づけられる所以である。この種は、苗・稲・穀・飯からは遠いように見えるかもしれないが、決して飯になり得ないほど遠いものと思ってはならない。
読む禅詩鑑賞 — 道を学ぶには、まず貧を学ばねばならない
唐代の禅師 龍牙居遁
読む禅詩を味わう — 心すでに塵なきに何ぞ洗わん?身病なければ何ぞ医を求めん?
溈山至真禅師【唐代】
読む禅の瞑想|因果に対する深い信心
禅の瞑想は、道を志す者の正しい修行であり、直入の道である。しかし、それを口にすることはたやすい。清らかな一念を保ち、絶えず自らを顧みて内なる光を輝かせ、どの瞬間も明晰で澄み切った覚知を失わなければよいのだ。行住坐臥のふるまいにおいては、ただ事の成り行きに任せておけばよい。動揺や妄念が募りすぎたときは、公案に取り組むことで悟りの道が開き、生死の根本を断ち切り、自由解脱の境地に至ることができる。
読む禅詩:心が樹の如くであれば、道にかなう
— 唐代、龍牙居遁禅師
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