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禅の瞑想|因果に対する深い信心

禅の瞑想は、道を志す者の正しい修行であり、直入の道である。しかし、それを口にすることはたやすい。清らかな一念を保ち、絶えず自らを顧みて内なる光を輝かせ、どの瞬間も明晰で澄み切った覚知を失わなければよいのだ。行住坐臥のふるまいにおいては、ただ事の成り行きに任せておけばよい。動揺や妄念が募りすぎたときは、公案に取り組むことで悟りの道が開き、生死の根本を断ち切り、自由解脱の境地に至ることができる。

禅の瞑想は、道を志す者の正しい修行であり、直入の道である。しかし、それを口にすることはたやすい。清らかな一念を保ち、絶えず自らを顧みて内なる光を輝かせ、どの瞬間も明晰で澄み切った覚知を失わなければよいのだ。行住坐臥のふるまいにおいては、ただ事の成り行きに任せておけばよい。動揺や妄念が募りすぎたときは、公案に取り組むことで悟りの道が開き、生死の根本を断ち切り、自由解脱の境地に至ることができる。

しかし無始以来、私たちは三界のなかで生死を限りなく繰り返し、休むことなく流転してきた。たとえ信心と誓願を土台に修行していても、煩悩、習気、業障、さまざまな障害に直面せずにはいられない。それらに対治する助行がなければ、念が起きたとたんに気づき、気づいたとたんに消え、やがては条件をすべて忘れ去り、一つに溶け合った全体に安住するという理想を語ることはできる。しかし業障が現れたときは、たちまちそれに流されてしまう。時は流れ、年月が空しく過ぎ去り、悪縁に容易に屈し、道を究めることは難しく、一生が無駄に終わることもある。なんと惜しいことか。

たとえ禅の修行を口にし、身心が本気でそれを志し、修養のため多くの時間を公案の参究に費やし、悟りを求めようとも、修行の努力という点から見れば、悟りが得られても得られなくても功徳はある。しかし本性を観て仏となるという究極の目的から見れば、その一生は無駄に過ぎたことになる。なぜこうしたことが度々起こるのか。多くの禅修行者が道を半ばで途絶えさせるのは、本修行を支える助行を疎かにするからだ。そこで、理解と行動の両面において、修行者がどのような態度で臨むべきか考えてみたい。

(1) 業と無我に対する信念

あらゆる仏は、二つの真理——勝義諦(勝義的な真理)と世俗諦(世間的な真理)——に沿って教えを説かれる。ここでいう「諦」とは、真実であり、決して虚偽ではないことを意味する。経典が伝えるところでは、世俗諦は世間のあらゆる現象が仮の相に過ぎず、因縁が和合することで生じるものだということを示し、勝義諦は最上の意味においては一切が空であるということを示している。

世俗的なレベルにおいては、因縁から生じるものはすべて業によってもたらされる——すなわち個人が単独で造った業と、他者と共に造った共通の業とである。修行者は因果の必然性を固く信じなければならない。善い因と善い業には必ず善い果と善い報いが伴い、悪い因と悪い業には必ず悪い果と悪い報いが伴う。因あれば果あり、果あれば因あり。『因果経』にはこう説かれている。「過去の因を知りたければ、現在の果を見よ。未来の果を知りたければ、現在の因を見よ」と。『涅槃経』にはこう説かれている。「善悪の報いは、影が形体に随うが如く必ず付きまとう。三世(過去・現在・未来)の因果は断たれることがない。もし今生を無駄に過ごせば、後で悔やむ暇はない」と。『優婆塞戒経』にはこう説かれている。「善男子よ、もしこのような業の道理を悟らなければ、無数の劫にわたって生死を輪廻し続けることになる。たとえ非想非非想の天に生まれ、八万劫もの長寿を全うしたとしても、福徳が尽きれば三悪趣に堕ちる。仏は善男子に仰せになった。『いかなる絵画も、心の及ぶところではない。心が煩悩を描き、煩悩が業を描き、業が身を描くのだ』と」。

これらの教えは、私たちの身体、私たちが依り所とする世界、あらゆるものが自らが造った業の果実であり、自らが受け取るものであり、因果の道理は明らかだということを示している。そのため如来は、『根本説一切有部律雑事』をはじめとする律蔵のなかでこう説かれている。「たとえ数十万劫の時が経とうとも、自分が造った業は消え去ることはない。縁が熟したときは、その果は自らが受け取るのである」と。もし因果の道理を揺るぎない信念とするならば、いかなる境遇にあっても身を正しく心を正しく保ち、他人を害して私利を図ることがなく、身・口・意、すなわち行い・言葉・心の思いつきにおいて、悪を離れ善を行い、意図を清らかに保つように心がける。そうすれば、違縁、業障、真の道へのあらゆる障害は次第に減少し、やがては消え去ることもある。

『阿毘達磨集論』にはこう説かれている。「業は世界を荘厳し、衆生をさまざまな世界へと導く。だからこそ業を観察し、世間からの解脱を求めよ」と。あらゆることが業の果報によって定まるという、深く揺るぎない信心を保つには、この信念を実際に身・口・意の行いに移すことが何よりも重要だ。何をするにあたっても因果の法則に背くことがなければ、功徳は自ずと生じ、禅の道は滞りなく前進する。因果に対する確固たる信念があれば、やがて自然に達磨大師が説かれた境地に至る――「悪を見て厭離せず、善を見て趨向せず」。これが禅宗のいうところの因果観である。