禅の実践 | 三昧と般若の均衡(其二)
問:「御判断によれば、悟後修行の門において、三昧と般若の均衡という意味に二種類がある。一には自性の三昧・般若、二には随相の三昧・般若である。自性門では次のように説く。その働きは法爾自然、本来寂静にして知なり。元来無作にして一切の境を絶し、対するものなければ、何ぞわざわざ掃うに労せん。一念の執着も生ぜず、忘縁の力を借りる必要なし。これを頓門、自性を離れざる者、三昧と般若の均衡あるものと判断する。随相門では次のように説く。理に従って散乱を収め、法を観じて空を観じ、沈掉を等し...
問:「御判断によれば、悟後修行の門において、三昧と般若の均衡という意味に二種類がある。一には自性の三昧・般若、二には随相の三昧・般若である。自性門では次のように説く。その働きは法爾自然、本来寂静にして知なり。元来無作にして一切の境を絶し、対するものなければ、何ぞわざわざ掃うに労せん。一念の執着も生ぜず、忘縁の力を借りる必要なし。これを頓門、自性を離れざる者、三昧と般若の均衡あるものと判断する。随相門では次のように説く。理に従って散乱を収め、法を観じて空を観じ、沈掉を等しく調えて無為に入る。これを漸門、劣機の修行するところと判断する。この二門の三昧と般若について、なお疑いが残る。もし一人の者が両方を実践するというなら、先ず自性門に依って三昧と般若をともに修し、後に随相門の対治の働きを用いるのか。それとも先ず随相門に依って沈掉を等しく調え、後に自性門に入るのか。もし先ず自性の三昧・般若に依るならば、その働きは法爾自然、寂静にして知なれば、さらに対治の働きを要せず、何ぞまた随相の三昧・般若をも取り上げる必要があろうか。白玉に銘を刻んでその徳を失うがごとし。もし先ず随相の三昧・般若を用いて対治を成じ、後に自性門に入るとすれば、これは明らかに漸門の劣機が悟前に実践する漸修である。どうして先悟後修して無功用力を用いる頓門の修行者と言えようか。もし同時であって前後がないとすれば、頓漸二門の三昧・般若は異なるものである。どうして同時に並修できようか。かくして頓門の修行者は自性門に依り無功用に働き、漸門の劣機は随相門に進み対治に労する。頓漸二門の根機は明らかに異なり、その優劣は歴然たり。ならばなぜ先悟後修の門において、両方を説くのか。どうかこれを融通して、一切の疑いを断ぜしめられたい。」
答:「汝の説明はすでに明らかである。それなのに自ら疑いを生じ、言葉によって理解を立てては、また転じて混乱を生ずる。意を得れば、言葉を忘るべし。これ以上追究するには及ばない。もし各門を実践するところによって判断するならば、自性の三昧・般若を修するは、これ頓門である。無功用力を用い、定慧双寂にして同時に動き、自ら己が性を修し、自ら仏となる。随相門の三昧・般若を修するは、これ悟前、劣機の漸門である。対治の働きを用い、一念ごとに妄惑を断じ、寂静をもって道とする。頓漸二門の実践はそれぞれ異なり、混同することはできない。
"とはいえ、悟後の修行の門にあって、隨相門の対治修行を広く説く場合、それは漸修者の行いをそのまま当てはまるものではない。方便を借りて、道を一時の宿り所とするのである。なぜか。この頓門のなかにも上根の者も下根の者もおり、一律にその歩みを測ることはできないからだ。煩悩が薄く、身心が軽安で、善から善を離れ、悪から悪を離れ、八風に動かされず、三受の寂静に安住している者は、自性の三昧・般若を頼りに、天然のままに両者を修め、作為を加えず、動き静まり常に禅であり、自然の理を究めるのである。なぜ隨相門の対治の意味を借りる必要があろうか。病がなければ薬を求めることはないのだから。
たとえすでに頓悟を開いていたとしても、もし煩悩が厚く、習気が深く重く、境に接するたびに貪著の念が次々と生じ、縁に遇うたびに心が対立し、昏沈・掉挙に惑わされて常住の知性が覆い隠されてしまうような場合は、隨相の三昧・般若を借りて、対治の修行を忘れず、昏沈と掉挙を均等に調えて無為の境地に入るのが適切である。対治の修行を借りると言っても、それはあくまで一時的に習気を調伏するためのもので、そもそも頓悟を開いている以上、心の本性が本来清浄で煩悩が本来空であることを知っているため、漸門の下根が行うような汚染修行に陥ることはない。なぜか。悟る前に修行をする場合は、どれだけ精進を忘れずに行っても、一つ一つの念が修行に縛られ、一歩進むたびに疑いが生じ、ついには無礙の境地に至ることはできないからだ。まるで胸に物が詰まったようなもので、常に落ち着かない思いがつのるばかりだ。日々月々と積み重ねて対治の功が熟せば、身心の客塵が軽安になるようなものだ。たとえ再び軽安の状態になっても、疑いの根はまだ断たれておらず、草を押さえつける石のごとく、生死の境にあってまだ安らぐことができない。だから『悟る前の修行は真の修行ではない』と言われるのである。
すでに悟者の地に至った者は、対治の方便があったとしても、一念一念に疑いがなく、汚染に陥ることもない。日々が重なれば、自然に悟りの境地に合致する。その妙なる本性は、もともと自然に寂静で自知のものであり、念念に諸の境に触れても、心心常に一切の煩悩を断じ、自性を離れることはなく、三昧と般若が均しく保たれ、最高の菩提を究めるのである。これは上根の者が悟る前に行う修行と何ら変わらない。このように、隨相の三昧・般若は本来は漸根の者が修めるものではあるが、悟者の地に至って修める場合は、「鉄に触れて金とする」と称えるべきである。もしこの理を理解するならば、三昧と般若の二門に前後の次第があるなどと、疑う必要があろうか。"
「願わくは道を修めるすべての人、この言葉を玩味し、疑念を起こすことなく、また自ら退転することのないように。もし大丈夫の志をもち、無上の菩提を求めるならば、このほかに何があろうか。言葉に捉われず、直下にその意を徹し、一々己に帰して本源に順え。そうすれば無師の智はおのずから眼前にあらわれ、本性の道理が明瞭となって曇りなく、他人の悟りに頼ることなく智身を成就する。この妙旨は、もとより万人の手の届かぬことではないが、過去世において般若の慧種と大乗の根機を培っていなければ、一念の正信を起こすことはできない。まして信じないばかりか誹謗し、かえって無間地獄を招くような者は、世にその例が少なくない。たとえ信じ受け入れなくとも、ひとたび耳を過ぎれば、しばらくのあいだも因縁となり、その功徳は測り知れない。『唯心訣』にいう、「聞いてなお信ぜずとも、なお仏種の因となり、学んでなお成ぜずとも、なお人天の福徳の資となり、仏となる正因を失わず」。ましてや聞いて信じ、学んで成じ、忘れずに受持する者があれば、その功徳をどうして測り知ることができようか。
「かえりみれば、過去の輪廻の因業において、何千劫ものあいだ闇にしたがい、無間地獄に堕ちてあらゆる苦痛を受けたことか——その後もなお幾劫があったことか。仏道を求めながら善知識にめぐり会わず、長い劫のあいだ沈淪し、暗冥として自覚なく、あらゆる悪業を造ってきた。時に思いいたれば、長嘆息せずにはおれない。どうしてふたたび怠りの心を起こし、かつての災難を繰り返すことがあろうか。そもそも誰のおかげでこのたび人身を得、一切有情のなかでも最もすぐれた身となり、真修の道を失わずにすんだのであろうか。まことに盲亀の浮木にめぐりあうがごとく、あるいは芥子が針の穴に入るがごとし——この得難き幸いを、どうして言いつくすことができよう。もし今ここで退転し、懈怠をおこし、つねに後の世に期待をかけ、一瞬にして命を失い、ふたたび悪趣に堕ちてあらゆる辛苦を受ける時、その時になって一語の法を聞き、信じ、理解し、受持して苦を脱したいと願っても、どうしてふたたび得ることができよう。臨終にいたって後悔しても、なんの益にもならない。願わくは道を修めるすべての人、懈怠を起こさず、貪欲と愛着に執することなく、あたかも己の頭を救うがごとく、己を忘れず精進せよ。無常は迅速にして、身は朝露のごとく、命は落日のごとし。今日こそ生きていても、明日は保ちがたい。よくよく用心せよ、よくよく用心せよ。
「また、世間の有為の善に頼ってさえ、三悪道の苦輪を脱れ、人天のなかでことさら殊勝な果を得て、種々の安楽を享受することができる。ましてやこの最上・甚深の法門において、刹那ほどのあいだ信心を起こすだけで、その功徳は譬えをもってしてもその万分の一すら語りつくせない。経にいう、「もし三千大千世界に充満する七宝をもつ人が、それをもってその世界の一切衆生を供養し、満足するまで施し、またその世界のすべての衆生を教化して四果を得させたとしても、その功徳は量りがたいとはいえ、須臾のあいだ正しくこの法を観ずる功徳には及ばない」。このゆえに、我がこの法門は最も尊く最も貴いことを知るべきである。ほかの功徳に譬えようとしても、到底およぶところではない。それゆえ経にいう、「一念の清浄心は菩提の因地にして、恒河の沙数の七宝塔を建立するに勝れる。宝塔はついに塵に帰すとも、一念の清浄心は正覚を成ず」。願わくは道を修めるすべての人、この言葉を深く玩味し、よくよく用心せよ。もしこの身をこの生において度脱しなければ、いずれの生においてこの身を度脱するのか。今修めずば、万劫ののちにも過つことになろう。今しばらくは修し難きを強いて修めれば、次第に難ならず、行はおのずから進展するであろう。」
ああ!現代の人よ、飢えているのに王の盛宴に出会っても食べ方を知らず、病んでいるのに医王に会っても薬の飲み方を知らない。「どうしたらよいのか」と問わぬならば、私もまた示すものはない!
さらに、世の因縁のわざには形があり、その効き目は確かめられる。人は一つのものを得れば、そのまれなることに驚く。だが私のこの心宗には観察すべき形もなく、見うる相もない。言説の路は断たれ、心の働きは熄(け)している。だから天魔・外道もこれを謗る隙がない。帝釈天・梵天・諸天もその称嘆を尽くすことができず、まして浅識の凡夫がかすかにでもその理を窺うことができようか。
哀れかな!井の蛙が大海の広大さをどうして知れよう。野狐がどうして獅子吼を行ぜられよう。
ここに知る:末法の世にこの法門を聞き、希有の思いを起こし、信じ、解し、奉持する人は、無量劫の昔より聖者に仕え、一切の善根を植え、般若の正因を深く培い、最勝の種性を具しているのである。それゆえ金剛経には「これらの偈頌から信心を起こすことのできる人は、すでに無量の諸仏の御前に一切の善根を植えた方であると知れ」と説き、また「これは大乗に趣く者のために説かれ、最上乗に趣く者のために説かれる」とも説かれている。
どうか求道の方々、卑下や弱気の心を起こすなかれ。勇猛精進の心を起こさねばならない。過去劫の善因は知りがたい。もしこの最勝の法を信ぜず、進んで下劣の法に安んじ、難しいとか障碍があるなどと思って今修めなければ、過去世に善根があっても、それを今断ち切るならば、かえってますます深く難処に陥り、いよいよ遠く離れていく。いま宝庫に到達したのに、空手で帰ることはできぬ。一たび失われた人身は一万劫の後にも得がたい――くれぐれも用心せよ!宝所を知りながら求めず、長く己が貧を怨む智者があろうか。宝を得んと欲する者は、皮袋を下ろせ!