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You Must Learn to Grasp the Underlying Principles Within Concrete Matters, or You Will Only End Up with Pointless, Fruitless Asceticism

根本的に、祭壇に供えられる品々はすべて象徴的な役割を果たしており、目に見える形の背後には必ず根本的な理が宿っている。

根本的に、祭壇に供えられる品々はすべて象徴的な役割を果たしており、目に見える形の背後には必ず根本的な理が宿っている。

次に、目に見える具体的な形から根本的な理を顕すことを示す古典的な公案(公共の事例)をご紹介しよう。かつて孔子が弟子の子貢と公務の途中で旅をしていた折、蒲県を通りかかった。そこにはもう一人の弟子の子路が、県令として赴任していたのだった。当時、県令は県の長で、現代の県知事に相当する役職だった。

孔子の教育理念では、当時学問の第一の目的は朝廷に仕えることだったため、弟子たちに官途を志すよう奨励していた。儒教の古典に伝わる格言にある通り、「学を修めた者は官に就くべし」という教えが、彼の教育理念の根幹をなしていた。だからこそ、ある弟子が「いかにして野菜を育て、畑を耕すべきか」と尋ねた際、孔子は大いに不満を示し、「学者が農作業に携わるのは本分を踏み外すもの。なすべきことではない」と戒めた。学者の最大の志は、国政に参画して民を治めることにある。だから弟子に官職に就く機会が訪れるたび、孔子は必ずその道を勧めたのだった。

子路はついに蒲県の県令に任命されると、全身全霊を込めて職務に打ち込み、地域の民のために善政を敷くべく懸命に政務に励んだ。

子路が赴任してしばらく経ったある日、孔子が子貢と共に蒲県の近くを通ることがあった。孔子は「子路の様子を見に、立ち寄ってはどうか」と提案した。県の郊外に到着すると、農村の道は整然と整備され、両脇の排水溝も深く掘り下げられ、手を抜いた跡がまったく見えないことに気づいた。孔子は満足げに頷き、言った。「子路はこの地で謙虚に恭しく振る舞い、民や部下たちの真心の忠誠を得ているようだ。」

次に県の中心部に到着すると、家々は質素に建てられ、ぜいたくな装飾や彫刻が一切施されていないのを目にした。「子路はこの地を質素倹約の精神で治めており、民の手本となっている」と孔子は言った。役所に到着すると、役人たちはそれぞれ定められた持ち場で職務に励み、通りかかった人々誰彼かまわず温かく丁寧に挨拶しているのが目に入った。孔子は言った。「子路は政務に非常に勤勉で、民を深く思いやっている。すべての公務に懸命に取り組み、民に対する接し口も非常に温和で優しい。」

これを聞いて子貢は不審に思って尋ねた。「先生、あなたは子路に直接会うことなくこの地にいらっしゃったのに、すでに彼が三つの美徳を備えていることをご存じだったとは、どういうことでしょうか?」

孔子は答えた。「子貢、きみは形と理の関係をまだ理解していないようだな。道がこれほど整然と保たれ、排水溝がこれほど深く掘り下げられているのを見よ。これは子路が部下を謙虚に恭しく扱い、真心の忠誠を得ているからこそ、誰一人として職務を怠る者がないのだ。街を見れば、すべての家が整然と質素に建てられている。これは子路が自ら手本となって質素倹約の生活を送っているからこそ、民も自然と飾り気のない質素な暮らしを送るようになったのだ。これはまさに、形ある具体から根本的な理を顕す典型例ではないか!

第三に、役所では役人たちがそれぞれ定められた持ち場に就いている。これは子路が並々ならぬ勤勉さで政務に臨んでいる証拠だ。毎日早くから出役し、手本となって民のために政に専念し、民の暮らしを常に案じているからこそ、部下たちもそれぞれの持ち場で職務をしっかりと全うしているのだ。つまり、この目に見える具体的な細部から、彼の人格と治政の在り方における三つの核心的な原理を読み取ることができるのだ。」

これが、真の洞察力ある者が修行者の家の祭壇に足を踏み入れた瞬間、周囲を見渡すだけでその人が修めている法門を即座に見極めることができる理由だ。祭壇の主たる本尊を見れば、彼がどのような実践を行っているか正確に理解できる。もとより浄土宗を修める者は、西方極楽浄土の三聖を祭壇に安置するべきなのは言うまでもない。

私の師である興長老は、熱心な浄土の実践者であり、何度も重要な点を強調されていた。「仏弟子たちよ、必ず本師を祭壇に安置せよ。本師である釈迦牟尼仏を安置するのを怠る者が多いが、それは誤りだ。我々浄土門を修める者にとって、主たる本尊は無論阿弥陀仏であるが、浄土の法は釈迦牟尼仏が我々に説き伝えてくださったものだ。我々はその根源を忘れてはならない。本師釈迦牟尼仏の像を阿弥陀仏よりやや低い位置に安置するのは構わないが、本師をまったく安置しない浄土実践者は教えに背く行為である。」

これが、修行者の祭壇を見るだけで、第一にその人が究極的に帰依する対象、すなわち霊的実践の核心が何であるかが明確にわかる理由だ。第二に、祭壇の配置を見るだけで、その人が日々の実践を欠かさず続けているかどうかも判断できる。日々実践が積み重ねられる本堂や家庭の祭壇は、めったに使われないものとは明らかに異なり、荘厳な気に満ちている。つまり、祭壇の外側の様子を見るだけで、その人の内なる霊的願い、真の実践の道筋を容易に見抜くことができるのだ。

孔子が子路の人となりを知るのに直接会う必要がなかったのと同様に、子路が治める県の様子を見るだけで、即座に彼がどのような人物であるかが理解できたのと同じだ。これが蕅益大師が何度もこの点を強調された理由だ。祭壇に供えられた品々の一つ一つは、その背後に宿る根本的な理を踏まえて理解されねばならない。もしそうしなければ、実践は無意味で成果のない苦行に終わる。このような無意味で成果のない苦行的な実践は、心の内を顧みて自心の中に法を実現するのでなく、心の外側に法を求めるだけの虚しい行為に過ぎない。