この内なる理想と目的を養う
天台大師智顗が説かれた「法のためには命を惜しまない」という教えの深みは、実際に実践してみなければ、到底十分に理解できるものではありません。それでも実践の道を真摯に歩み始めたなら、心に浮かぶ迷いの念に対処しつつ、清らかな功徳の土台を築き上げていかなければなりません。この功徳は、無始より以来私たちが囚われてきた、際限のない生死の流れに真正面から逆らうものです。たとえるなら、輪廻の流れを遡って泳ぐようなものなのです。
天台大師智顗が説かれた「法のためには命を惜しまない」という教えの深みは、実際に実践してみなければ、到底十分に理解できるものではありません。それでも実践の道を真摯に歩み始めたなら、心に浮かぶ迷いの念に対処しつつ、清らかな功徳の土台を築き上げていかなければなりません。この功徳は、無始より以来私たちが囚われてきた、際限のない生死の流れに真正面から逆らうものです。たとえるなら、輪廻の流れを遡って泳ぐようなものなのです。
この道を歩む過程で、あなたを試す無数の苦難が立ちはだかります。自身の煩悩が歩みを阻み、過去に積んだ業が行く手を遮り、さらには今あなたが依って立つこの肉体でさえ、障害となることがあるのです。この苦しみの三つの根本原因——迷い(無明)、業、そしてその果報——は、三つの障害として姿を現します。すなわち煩悩の障り、業の障り、業報の障りです。無始より過去から因縁が続く債者たちが、古い怨みによって霊界に縛られたまま行く手を阻むほか、魔王マーラも立ちはだかります。後ほど、魔の活動を見分ける方法をお伝えする際に、あなたもこうした障害がいかに多く生じうるか、身をもって知ることになるでしょう。
このように積み重なった障害をすべて乗り越えられるのは、ただ一つの不動の決意だけです。すなわち、聖道を証し、あまねく諸有情を救済せんと希求する菩提心です。この決意は激しく、しかも揺るぎなく燃え盛り、ためらうことなく命を投げ出すほどに強いものです。無上菩提の成就を唯一の使命とし、こう誓うのです。「もしも仏が説かれた一切の教えを悟りきらぬかぎり、決して引き返さない!」
天台大師智顗は、この道の核心的な難関は退転の危険にあると説かれています。実践を志す人は多いものの、最後まで歩み通せる者は少ないのです。道を離れて心が折れてしまうことが、あまりにも容易だからです。また、浄土に生まれんと誓う人も多いのですが、臨終の際に正しい念を堅く保てる者は、ほとんどいません。その違いは、道を歩み始めた当初に菩提心——覚りを求める心——を起こしたかどうかに尽きるのです。
天台大師智顗の伝記をひも解いてみましょう。22歳で具足戒を受け、慧思禅師に師事し、8年間学ばれました。その8年間、大師は『法華経』の三昧を修め、速転陀羅尼を証得されました。30歳のとき、慧思禅師の許を辞し、瓦官寺に居を構え、そこから8年間、『法華経』はじめ、『法華経玄義』『次第禅門』『般若波羅蜜経』などを講じながら教えを説かれました。この8年間は、たいへん吉祥に満ちた時期で、朝廷の役人から一般の在家の信徒まで、誰もが大師を深く信頼して寄り随いました。
38歳のとき、大師は世に広がる仏法の姿は表層的な隆盛に過ぎず、その本質は徐々に失われつつあると思い至りました。そこで、当時得ていた名声、財富、地位をすべて捨て、荒野に隠居されました。当時の天台山はまだ手つかずの荒れ地でしたので、大師は少数の弟子たちと共にそこへ向かい、実践を続けられたのです。その献身的な実践は実を結び、大師は天台宗の教義と禅定の核心的枠組みを打ち立てられました。これによって天台宗の教学はより完璧なものとなり、末代にまで受け継がれる基盤が築かれたのです。
その道を選び取るときに天台大師が起こされた決意は、まさに並外れたものでした。
例えば、私が出会った多くの在家・出家の実践者の例を見てみましょう。私たちが初めて三宝に帰依したときは、持てる功徳はほとんどなく、三界を漂い、帰依のよりどころすら見えない状態でした。生死の輪廻に囚われ、無明の渦巻く迷いの中をさすらい、尽きることのない苦しみを味わっていました。そして三宝に帰依し、仏の教えを学び、日常において仏法の真理を実践するようになったのです。その結果、業障を滅し、善を積み、無数の功徳が心に根を下ろすこととなりました。しかし、ほんの小さな福が訪れた途端に、道を引き返してしまう人もいるのです。解脱の大楽にたどり着くまさにその直前で、道端に咲く小さな華やかな花に心を奪われてしまうのです。こうした小さな好縁が、先にある解脱の大楽を見えなくしてしまうのです。なぜでしょうか。道を歩み始めた当初に、自分なりの目標をしっかりと定めなかったからにほかなりません。これが根底にある問題なのです。
当初は、菩提心を起こすことがどれほど大切かを自覚していない人もいるでしょう。しかし道を歩み続けるうちに、福が訪れたとしても、菩提心がなければその最後の関門を乗り越えることはできないのです。どれほど努力しても越えられない、壁のようなものなのです。これこそが『首楞厳経』が「もし当初の決意が真実でなければ、実践の果報はゆがんだものとなる」と説く理由です。もし出発時の意図に名声や利益への欲望が混じっているなら、福が訪れたとき、その福自体があなたの妨げとなるのです。これが陥ってしまう落とし穴なのです。
これこそが、天台大師の大悲あふれる配慮なのです。まず心を練磨する要諦を示してくださっているのです。奢摩他(しゃまた:静住)と毗婆舎那(びばしゃな:洞察)、すなわち静住と洞察の禅定を修め、仏や菩薩の説かれる方法に従って実践するならば、あなたの心は、過去に積んだ業の罪に重く縛られた意識から、功徳に満ちた意識へと徐々に変容していくことでしょう。現世において福の徴を経験するかもしれませんが、それらはすべて条件付けられた無常の現象に過ぎないのです。先には広大無辺の功徳が待っているのですから、休まず前へ前へと進み続けなければなりません。
ですから、奢摩他と毗婆舎那の実践を始める前から、まずはすべての有情を救済し、無上仏道を求めんと誓わなければなりません。あなたの決意はダイヤモンドのように堅固で、少しも揺るがず、ためらうことなく命を投げ出す覚悟がなければなりません。こう誓いなさい。「もしも仏が説かれた一切の教えを悟りきらぬかぎり、決して引き返さない!」この理想と目標を、深く心に刻みつけなさい。