利益を求める心を捨て去れば、無上の宝蔵が開かれる
まさにそのとき、摩訶迦葉は譬喩を散文で述べた後、同じ趣旨を偈頌でおっしゃった。「今日、我々は仏の教えを聞いた」。この「今日」とは何を指すのか。法華経の法会のことである。法華経以前には、仏は衆生が功徳を積めるよう助けるために三乗を説かれた。視野を少し広げて人間界と天界を含めれば、五乗となる。いずれも方便の教えだ。
その時、摩訶迦葉はこの意味を偈頌で詠まれた。「今日、仏の教えを聞きて、未だかつてなき歓喜に躍り喜ぶ。仏は声聞まさに仏となることを説き、無上の宝蔵は求めずして得たり」と。
まさにそのとき、摩訶迦葉は譬喩を散文で述べた後、同じ趣旨を偈頌でおっしゃった。「今日、我々は仏の教えを聞いた」。この「今日」とは何を指すのか。法華経の法会のことである。法華経以前には、仏は衆生が功徳を積めるよう助けるために三乗を説かれた。視野を少し広げて人間界と天界を含めれば、五乗となる。いずれも方便の教えだ。
仏の意図はおおむね次のようなものだった。あなた方が外を流浪してこられたからこそ、この広大な仏の教えの世界に帰ってきていただき、「こちらで共に修行していただこう」というわけだ。ことわざにあるように「我が家は広大で、必要なものは何でもそなわっている」。仏の教えの世界の中では、布施を行い、空の観智を修め、あるいは六波羅蜜を実践することもできる。要するに、仏は多くの方便の教えを設け、人々がここに落ち着いて着実に功徳を積めるようにされたのだ。
法華経の法会で、仏はこれらの方便の教えが真に何を意味していたかを明かし始められた。よく聴いてほしい。あなたが布施するとき、施す者とは誰か。あなたが仏号を念ずるとき、念ずる者とは誰か。仏は我々に回光返照するよう促された。日々法力に頼って修行するなかでふと我に返り、「念じているこの心」自体が不可思議であることに気づくよう導いてくださったのだ。それが真の故郷だ。法力に頼って一時的に落ち着いていたのは、仮の住処にすぎなかった。そこで法華経の法会では、〈開権顕実〉——すなわち仮の教えを開いて実の教えを明かす——という形で、五乗の教えの真の姿が示され、すべての衆生が本来具えている一念の心性を信じ、悟りへと導いてくださったのだ。
このときの摩訶迦葉の心境はどのようなものだっただろうか。「かつてないほどに歓喜し、躍り上がった」ほどだ。法華経以前には、仏は心の不可思議の力について説かれることはなかった。仏は五乗の中における法の不可思議の力を強調されてこられた。五戒十善を守って人間・天界の果報を得、四聖諦と十二因縁を修行して涅槃を証し、六波羅蜜を実践して六度を円満する。その間、「誰が布施しているのか」「誰が四聖諦を修行しているのか」「誰が六波羅蜜を実践しているのか」と問うたことはなかった。これらの法門を実践しているのが誰なのかを、はっきりと名指しで明かされたのは、ほかでもない法華経だけだった。
すなわち「仏は声聞が仏となることを説かれており、無上の宝蔵は求めずして得られる」。法華経の法会で、仏は一切の五乗の教えの真の姿を開き、すべての衆生が具える一念の心性と結びつけてくださった。これにより我々は、五乗の教えを実践しながら「内に真如を観じ」、こうして「求めずして無上の宝蔵を得られる」のだ。この「求めずして得られる無上の宝蔵」という言葉こそ、法華経全体の核心をなす教えだ。
もう一度譬喩を思い起こしてみよう。貧しい息子が大富豪の長者のもとで雇われ、働いていた。なぜか。稼いだ金で生活を改善するためだった。最初はまさに「利益を求める心」が彼を日々の精進へと駆り立て、善根が少しずつ育まれていった。その後、方等・般若の教えによって磨かれるうちに、その「利益を求める心」は次第に薄れていき、法華経の法会に至ってついに長者の子として認められ、家産を相続することができたのだ。つまり「無所得の清浄心」——すなわち自性そのものに安住する心がなければ、仏国土に入り、仏の家業を相続することはできなかったのだ。
かつて一人の修行者が禅師に問うた。「広大なる晴れわたる空に明月一つ、いかがなものか」。修行者はこう述べた。「私はある法門を修行して、心を広大なる晴れわたる空の境地にまで至らせました。心を覆っていた煩悩の雲はすっかり晴れ払われました。どうぞ尊師、私の修行がすでにこの『広き晴れわたる空、唯一輪の明月』の境地に達しているか、ご印可いただけますでしょうか」。
禅師は答えた。「お前はまだ、階段の一番下に立っているようなものだ」。彼の修行はまだその域に達していなかった。彼はまだ三乗の方便の教えの中に住し、「法の不可思議の力」に依拠していたのだ。老修行者は謙虚な人物だったので、すぐに頭を下げて言った。「どうぞ禅師、次の段階へとお導きください。どうすればこの境地を突破できるか、ご教授ください」と。禅師はたった一言、こうおっしゃった。「月が沈んだあと、改めて私のところに来るがよい」。――お前の功徳がいつ円満するかって? その「月」を消す方法を見つけるのだ。もちろん、文字通りの月のことを言っているわけではない。あの「月」に執着するな、という教えだ。
禅師の言いたかったことはこうだ。最初は仏教の修行に頼って心を落ち着かせるのは一向に構わない。仏号を唱え、真言を誦し、さまざまな法力に頼って心を安定させるのはかまわない。しかし、本当の円満を望むなら、光を内に向け、真如に安住しなければならない。いつまでも外に目を向けていてはいけない。法力に頼ることを手放したとき、自分にもともと備わっている一念の心性が現れ、本当の意味で仏と同じ家に安住できるようになるのだ。
これが「貧しい子が屋敷のなかで働きながら、もう『利益を求める心』から賃金を集めない」という譬喩の意味だ。そうして初めて彼は相続する資格を得る。それが『求めずして得られる無上の宝蔵』なのだ。以下がこの教えの全体の趣旨だ。声聞たちは最初は空の涅槃を求め、確かな拠り所を求めるが、最後には何も求めなくなる。空の涅槃にこだわりを手放せば、真如への扉が開かれる。
みなさん、この世で仏法を修行する人には大きく二つのタイプがいる。一つ目は、すぐに果報を得たいと願う人だ。そういう人は因果の法則に従い、その報いを受け取ることになる。ここで注意しておきたいのは、因果が報いるとき、煩悩と業の障りもついてくるということだ。凡夫が「利益を求める心」から起こす因果は、つまり「煩悩があり、業障があり、老病死がある」というものだ。
もしあなたが「私は布施するにあたって現世の果報を求めません。私の唯一の目的は自性の功徳を開顯することです」と願うならば、現世の因果の果報を求める心を手放すことになり、真如への扉が開き、本来の自性の力があなたに報いてくれる。この二つは両立しない。「因果の果報」と「真如」を同時に得ることはできないのだ。もしあなたがどうしても利益を求めたいというなら、それも構わない。永遠に働き続けてもよい。ただし、真如への扉は開いたままにはならない。
以上が『無上の宝蔵は求めずして得られる』という、法華経全体の修行の核心だ。利益を求める心を捨て去れば、真の無上の宝蔵が開かれる。以上がこの教えの大略である。