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林崇安先生『*瑜伽師地論*』*声聞地*における止観の要義――第5回 安般念の十六殊勝行

◎ 安般念の修習は、止と観の完全な道を備える。 ◎ 十六殊勝行を修めることは、四念住を修めることである。

(5) 安般念の十六殊勝行

◎ 安般念の修習は、止と観の完全な道を備える。 ◎ 十六殊勝行を修めることは、四念住を修めることである。

【十六殊勝行】

十六殊勝行とは何か。

(1〜2)「念じて息を吸うとき、念じて息を吸うよう自らを修めん;念じて息を吐くとき、念じて息を吐くよう自らを修めん」――「長息」も「短息」も。

(3)「全身を観じて息を吸うとき、全身を観じて息を吸うよう自らを修めん;全身を観じて息を吐くとき、全身を観じて息を吐くよう自らを修めん。」

(4)「身行を静めて息を吸うとき、身行を静めて息を吸うよう自らを修めん;身行を静めて息を吐くとき、身行を静めて息を吐くよう自らを修めん。」

(5)「喜を観じて息を吸うとき、喜を観じて息を吸うよう自らを修めん;喜を観じて息を吐くとき、喜を観じて息を吐くよう自らを修めん。」

(6)「楽を観じて息を吸うとき、楽を観じて息を吸うよう自らを修めん;楽を観じて息を吐くとき、楽を観じて息を吐くよう自らを修めん。」

(7)「心行を観じて息を吸うとき、心行を観じて息を吸うよう自らを修めん;心行を観じて息を吐くとき、心行を観じて息を吐くよう自らを修めん。」

(8)「心行を静めて息を吸うとき、心行を静めて息を吸うよう自らを修めん;心行を静めて息を吐くとき、心行を静めて息を吐くよう自らを修めん。」

(9)「心を観じて息を吸うとき、心を観じて息を吸うよう自らを修めん;心を観じて息を吐くとき、心を観じて息を吐くよう自らを修めん。」

(10)「心を喜ばせて息を吸うとき、心を喜ばせて息を吸うよう自らを修めん;心を喜ばせて息を吐くとき、心を喜ばせて息を吐くよう自らを修めん。」

(11)「心を安定させて息を吸うとき、心を安定させて息を吸うよう自らを修めん;心を安定させて息を吐くとき、心を安定させて息を吐くよう自らを修めん。」

(12)「心を解脱させて息を吸うとき、心を解脱させて息を吸うよう自らを修めん;心を解脱させて息を吐くとき、心を解脱させて息を吐くよう自らを修めん。」

(13)「無常を観じて息を吸うとき、無常を観じて息を吸うよう自らを修めん;無常を観じて息を吐くとき、無常を観じて息を吐くよう自らを修めん。」

(14)「滅を観じて息を吸うとき、滅を観じて息を吸うよう自らを修めん;滅を観じて息を吐くとき、滅を観じて息を吐くよう自らを修めん。」

(15)「離欲を観じて息を吸うとき、離欲を観じて息を吸うよう自らを修めん;離欲を観じて息を吐くとき、離欲を観じて息を吐くよう自らを修めん。」

(16)「捨を観じて息を吸うとき、捨を観じて息を吸うよう自らを修めん;捨を観じて息を吐くとき、捨を観じて息を吐くよう自らを修めん。」

【十六殊勝行の区別】

(1)長息――吸気と呼気への注意力の向け方

〔修習:〕 吸気と呼気を対象とする際、人はこう心に期する:「私は今、念じて長息を吸うよう自らを修め、念じて長息を吐くよう自らを修めん。」

(2) 短息――中間の入息と出息に注意を向ける 〔修習:〕中間の入息と中間の出息を対象(所縁)として心を向けたとき、次のように思惟する。「私は今、正念をもって短く入息し、正念をもって短く出息することを学ぼう。」

(3) 覚了全身〔微細な毛孔に向けられる〕 〔修習:〕身体の微細な毛孔を対象とし、入息と出息がそのすみずみまで満ち広がっていることがはっきりと認識できるようになったとき、次のように思惟する。「入息と出息における全身への気づきについて、私は今、入息するときも出息するときも全身をしっかりと気づくことを学ぼう。」

(4) 身行の寂静〔空隙と寂静の状態を対象とする〕 あるとき、入息が止まって次の出息が生じるまでの間、入出息の「空隙」、すなわち寂静の状態を対象とする。あるいは、出息が止まって次の入息が生じるまでの間、入出息の「空隙」、すなわち寂静の状態を対象とする。 〔修習:〕その瞬間、次のように思惟する。「入息と出息における身行(身体的な営み)を静めることについて、私は今、入息する際にも出息する際にも身行を寂静にすることを学ぼう。」

(5) 覚了喜〔初禅または第二禅の獲得〕 〔修習:〕入出息念を精進して修める者が、初禅または第二禅に至ったとき、次のように思惟する。「入息と出息における喜の気づきについて、私は今、入息するときも出息するときも喜をしっかりと気づくことを学ぼう。」

(6) 覚了楽〔第三禅の獲得〕 〔修習:〕喜を離れた第三禅に至ったとき、次のように思惟する。「入息と出息における楽の気づきについて、私は今、入息するときも出息するときも楽をしっかりと気づくことを学ぼう。」

〔範囲の規定:〕第三禅より上の境地では、さらなる加行的修習として入出息念(アーナーパーナサティ)を修める根拠がない。したがって、入出息念の加行的修習は第三禅に至るまで説かれているのである。

(7) 覚了心行〔妄想的な思惟と分別を払拭する〕 さて、喜や楽をしっかりと気づいている者であっても、忘念が生じることはある。 「我」や「我所」という考えにとらわれたり、慢心が湧き起きたりすることもある。「私は存在するであろう」「私は存在しないであろう」「私は色(物質)を持つであろう」「私は無色(形なき世界)に生まれるであろう」「私は想(知覚)を持つであろう」「私は無想(無知覚の世界)に生まれるであろう」「私は非有想非無想(想も無想も超えた境地)に生まれるであろう」と考えることがある。 このような妄想的な思惟や分別が、掉挙(心のざわつき)、慢、戯論(意味のない思弁)、造作、貪欲、執着を伴って生じたときは、ただちに智慧をもってその本質を見抜き、深く引き込まれることなく、方便(適切な手段)を用いてこれを断ち切り、除き去り、根絶するのである。 〔修習:〕この修習を通じて、次のように思惟する。「入息と出息における心行(心的な営み)への気づきについて、私は今、入息するときも出息するときも心行をしっかりと気づくことを学ぼう。」

(8) 心行の寂静 「入息と出息における心行を寂静にすることについて、私は今、入息する際にも出息する際にも心行を寂静にすることを学ぼう。」

(9) 覚了心〔近分定を獲得していること〕 初禅・第二禅・第三禅のいずれかの根本的な禅定に至ったとき、その人はすでに初禅に隣接する近分定(未至定)を得ている。この近分定を拠り所として、生じた心の動きを観察するのである。

〔修習:〕 すなわち、明確に知り、ありのままに観る。心が貪であるか貪を離れているか、瞋があるか瞋を離れているか、痴があるか痴を離れているか、沈下しているか散乱しているか、下劣であるか高上であるか、不安であるか寂静であるか、寂靜であるか寂靜でないか、三摩地に入っているかいないか、よく修習されているか修習が足りないか、よく解脱されているか解脱が足りないか。心のこれらの状態を如实に知り観じたうえで、「入息出息における心の知において、私は今より入息出息しながら心を知ることを修習すべし」という願いを起こす。

(10) 心を歓ばせること〔沈睡眠の蓋を除く〕

時に、沈睡眠の蓋が心を覆い障っていることに気づくことがある。内なる寂静に深く沈みすぎたために、純一美妙な対象へ心を向け、それを顕示し、指示し、讃嘆し、欣楽して、心を起こし提起する。

〔修習:〕 したがって、「入息出息における心の歓ばせにおいて、私は今より入息出息しながら心を歓ばせることを修習すべし」という願いを起こす。

(11) 心を住させること〔掉悔の蓋を除く〕

時に、掉悔の蓋が心を覆い障っていることに気づくことがある。あまりに外に散乱して興奮したために、内なる寂静に住して、心を安定させる。

〔修習:〕 したがって、「入息出息における心の住において、私は今より入息出息しながら心を住させることを修習すべし」という願いを起こす。

(12) 心を解脱させること〔諸蓋を除く〕

よく修習し、よく修行し、よく繰り返し修習したことにより、能動的な諸蓋が滅し、心は一切の覆障から清浄明瞭となる。

〔修習:〕 したがって、「入息出息における心の解脱において、私は今より入息出息しながら心を解脱させることを修習すべし」という願いを起こす。

(13) 無常観〔残余の随眠を断ずること〕

道を障える諸蓋から心を解脱したのであるが、なお断ずべき随眠が残っている。

〔修習:〕 それを断ずるために、至誠に法に随い、諸行無常の本性を観察する。したがって、「入息出息における無常観において、私は今より入息出息しながら無常を観ずることを修習すべし」という願いを起こす。

これまでは、下の三禅あるいは近分定に依ってすでに奢摩他的瑜伽を修習していたが、無常観によってさらに毘鉢舍那的瑜伽を修習するのである。

(14–16) 滅観、離欲観、捨観〔随眠より解脱すること〕

このように奢摩他と毘鉢舍那をもって心を調熟したうえで、三種の境地によって随眠からの解脱を求める。

その境地とは何か。三種ある。すなわち、滅、離欲、捨の境地である。

〔修習:〕 この三種の境地が寂静であり、安穏であり、危険なきものであると観じて、奢摩他・毘鉢舍那を修習する。

かくのごとく修習し、よく修行し、よく繰り返し修行したことにより、道の所断の残余煩悩から心が解脱される。したがって、「入息出息における滅観・離欲観・捨観において、私は今より入息出息しながら滅・離欲・捨を観ずることを修習すべし」という願いを起こす。

〔学ばない者、阿羅漢となること:〕 かくして、見所断・修所断の一切の煩悩を究竟に断尽し、阿羅漢となる。一切の漏は尽き、もはや作すべきことなし。知るべきものは、ついに究尽されたのである。