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林崇安教授:無我と空 第三講 —— 実体的に存在する自己の論破

無我と空 第三講

無我と空 第三講

実体的に存在する自己の論破

林崇安(2007)

【実体的に存在する自己についての解説】

実体的存在とは、実体的な質料を備えていることを意味する。 人は自立して実体的に存在する=自立して実体的に存在する自己=補特伽羅は自立して実体的に存在する。

(1)人は幼い頃から、自足する「私」についての漠然とした感覚を抱いている。身体が変化し、考え方が移ろっても、この自己は変わらず存続していると感じる。一方でこの自己は身心そのものではないが、他方で身心から離れて独自に存在するわけでもない。この自己は時には「五蘊と同一でもなければ、五蘊と別異でもない」と称され、また「不可説我」とも呼ばれる。この自足する「自己」自体が実体的に存在するものとされ、一般に「自立して実体的に存在する自己」と呼ばれる。

犢子部(補特伽羅論者)は、すべての有情がこの「自立して実体的に存在する自己」をもつと主張するが、他のすべての仏教諸派はその存在を否定する。

(2)花瓶や柱を構成する質料が「極微」あるいは地・水・火・風の四大元素から成っているのと同じように、犢子部はこれら独立した「極微」や地・水・火・風の諸元素を実体的に存在するものと見なす。

【『入中論』における実体的に存在する自己】

犢子部が主張する「実体的に存在する自己」: (1)自己と五蘊は本性において別ではない。なぜなら、五蘊を離れて自己は存在しないからである。ただし、自己が五蘊の規定する本性であるわけでもない。もしそうだとすれば、自己もまた生滅を免れないからだ。ゆえに、「自己」と「五蘊」については、本性において一体であるとも、別個であるとも言いえない。

(2)同じ論理により、自己は「常」であるとも「無常」であるとも言いえない。

(3)自己は実体的に存在する。なぜなら、善悪の業を造る主体であり、苦楽の果報を受ける者であり、輪廻に縛られる者であり、涅槃において解脱する者だからである。

(4)この自己は六識の「認識対象」である。

(5)この自己は自己への執着の対象である。

検討: もし自己と五蘊が一体だとしたら、私が他の人物に臓器を移植した場合、その人の体に別の自己が現れ、私は二人の人間になってしまうことになる。もし自己と五蘊が一体だとしたら、悪から善へ、あるいは凡夫から聖者へと心の状態が転じたとき、前後で状態がまったく異なっていても、私は二人の人間にならなければならない——しかし日常的な経験では、人々は以前の自分と後の自分を同一の人物だと捉えている。したがって自己と五蘊は一体ではない。ただし、五蘊を離れて独自の自己が存在するわけでもない。そこで犢子部の一部の論師たちは、自己を「五蘊と同一でもなければ別異でもない」「不可説我」として提唱した。そしてこの自己が実体的に存在すると主張する。なぜなら、これは善悪の業を造る主体であり、苦楽の果報を受ける者であり、輪廻を流転する者であり、涅槃に至って解脱する者だからだ。

【『入中論』における実体的に存在する自己の論破】

(1)自己が実体的に存在するという主張は成り立たない。「心」と「色」が一であるか異であるかを言い表せないという見解には同意できない。もし自己が実体的に存在するのなら、「心」と「色」についても同様に——一であるか異であるかを言い表せないと主張しなければならないことになる。

(2)したがって、「言い表せないもの」は実体的に存在することができない。

(3)したがって、自己と五蘊は、本性において一でも異でもない「仮設の存在」である。 仮設の存在=名称による安立=分別による仮立=概念的仮設。

(4)したがって、「私」は実体的に存在するわけではない。「私」は仮設的に存在するに過ぎない。

【実践】

経行(きんひん)などの実践を通じて、奢摩他(しゃまた:心の安住)を修める。 教えを聴聞し、それを観察することによって無我の正見を養い、さらに毘鉢舎那(観)の瞑想を通じて、五蘊と別個の自己、五蘊と同一の自己、実体的に存在する自己を論破していく。