← 記事 Practice · Zen practice

剛曉法師:『宗鏡録』における三量説

仏教の因明では三量が説かれる。通常の用法では、現量(げんりょう)、比量(ひりょう)、聖言量(しょうごんりょう)の三つである。聖言量には他にも異称が多い——聖教量、至教量(しきょうりょう)、言量、聞量(ぶんりょう)、正教量などである。その適用範囲が著しく狭く、自宗の中でのみ通用して普遍的な妥当性をもたないため、陳那(ディグナーガ)はこれを現量と比量に吸収しはじめた。『集量論』(Jìliàng Lùn)にも「量はただ二つにあり、現量と比量なり[1]」と説かれている。陳那は次...

剛曉法師

仏教の因明では三量が説かれる。通常の用法では、現量(げんりょう)、比量(ひりょう)、聖言量(しょうごんりょう)の三つである。聖言量には他にも異称が多い——聖教量、至教量(しきょうりょう)、言量、聞量(ぶんりょう)、正教量などである。その適用範囲が著しく狭く、自宗の中でのみ通用して普遍的な妥当性をもたないため、陳那(ディグナーガ)はこれを現量と比量に吸収しはじめた。『集量論』(Jìliàng Lùn)にも「量はただ二つにあり、現量と比量なり[1]」と説かれている。陳那は次のように説明する。「計測される対象には自相と共相の二つの側面[2]しかなく、したがってこの二量で足りる」。陳那による聖言量の排除について、私は『中国因明二篇』に次のように記した。「(陳那が聖言量を排除したのは)仏陀の経典が真理であることを否定したからではない。むしろ、仏陀が説かれたことはすべて現量と比量に合致しなければならないと主張したのである。もしある経典が仏陀の教えであると称しながらこの二量と矛盾するならば、それは決して仏陀の真の語とはなりえない。陳那は、たとえ仏陀の教えとして示されるものであっても、現量と比量によって検証されなければならないと説いた——そして、誰でもこの二量を用いてその真偽を判定できるのである[3]」。陳那は二量のみを認めたが、実際には現在に至るまで、人々は三量——現量・比量・聖言量——について語り続けてきた。たとえば印順法師は、『中観今論』や『雑阿含経論会編』[4]などにおいてこの三量の用語を用いている。

三量には別の説明もあり、現量、比量、非量(ひりょう)をまとめて一群とするものがある。この定式化が瑜伽行派の思想に由来すると語る人もあるので、私は瑜伽行派の文献を「三量」の語で検索してみたが、非量を含むとする明示的な記述は見出せなかった。たとえば『瑜伽師地論』第十五巻には、「……現量、比量、正教は、利益ある道理を建立するために安立される[5]」とあり、明らかに正教量を指している。『顕揚聖教論』第六巻には、「現量、比量、および至教量の三量に依拠して、最勝の智慧によって知られる対象を完全に弁別する[6]」とある。ここでの三量は明示的に聖言量を含んでいる。『摂大乗論・世親釈』第一巻には、「四道理と三量とに矛盾しないため、これを『随順』と名づける[7]」とあるが、三量の内容については明示していない。第五巻には、「現量、比量、聖言量の三量に依拠してその本質を求めると、真に到達不可能であることが分かる[8]」とある。ここでも、三量は聖言量を含み、非量は含まない。『大乗阿毘達磨雑集論』第十六巻には、「正しさの因は三量であり、第一に現量、第二に比量、第三に言量である[9]」とある。これらはすべて、いうまでもなく陳那に先行する。

陳那の後に撰された瑜伽行派の著作の中で最も有名なのは、『成唯識論』(《成唯识论》)およびその関連注釈書である。『成唯識論』は、三量が現量・比量・非量であると明示的に説くことはなく、実は正文中に「三量」という語は一度も現れない。もっともこの語は、窺基大師の*『成唯識論述記』*(《成唯识论述记》)に現れる。序文の「三量は風の如く、外道は旗を降す」という句に「三量」の語が用いられているのだ。『成唯識論述記序釈』によれば、この「三量」は現量・比量・聖教量からなる三つ組か、自比量・他比量・共比量からなる三つ組のいずれかを指し[10]、非量はどちらにも含まれない。本文中に「三量」という語が複数回登場するが、いずれも特定の比量(推理の論式)における第一量・第二量・第三量を指す。

慧沼大師の*『成唯識論了義灯』(《成唯识论了义灯》)巻第三には、「ある人が言うには、現量・比量・非量の三法を判別すれば、能知の心は三量のいっさいを包含することができる[11]」という説が記されている。ここには「三法」と「三量」という二つの語が現れる。「三法」は現量・比量・非量を指すのに対し、「三量」の具体的内容は明示されていない。この説の直後に『了義灯』はこれを駁し、「『理門』(《理门》)の説と矛盾する」と述べている。また窺基大師の『瑜伽師地論略纂』(《瑜伽师地论略纂》)巻第八には、「三量、すなわち聖教量をもって精しく観察する…[12]」という記述があり、こちらも明らかである。さらに窺基大師の『因明入正理論疏・序』(《因明入正理论疏·序》)序には、「三量を窮め、二因を完全に了知する[13]」とあるものの、三量の具体的内容は明示されていない。三量の指す内容を明示的に説いているのは、智周大師の『因明入正理論疏後記巻上』*(《因明入正理论疏后记卷上》)である。そこには「注釈書における三量とは、現量・比量・聖教量である[14]」と明記されている。

複数の仏教辞典は以下のような説を掲載している。まず陳義孝の*『仏教常用語辞典』の「三量」の項には、両方の説が引用元を示すことなく列挙されている。『仏教教理体系集成』には、三量を現量・比量・非量とする説が掲載されているが、こちらも引用元の記載がない。『仏光仏教大辞典』も両方の説を掲載しているが、現量・比量・非量とする説については出典が記されていない。(『仏光仏教大辞典』はまた、『成唯識論』*巻第二に登場する所量・能量・量果の三点を「三量」と呼んでいるが、これはやや粗雑な記述である。『成唯識論』自体がこの三点を三量と呼ぶことを明示した箇所はなく、巻第二の原文には「しかし心と心所が個々に生起する際、合理的な検討の結果、各々が所量・能量・量果の三つの異なった側面を持つことが明らかになる…」と記されているだけである。)

手元にある全文献を当たった限り、三量を明示的に現量・比量・非量であると定めた最初の人物は、永明延寿大師である。

永明延寿大師は、多くの著作を残したことで知られる。現存する著作は全9作品、117巻に及ぶ:『宗鏡録』(《宗鏡録》)100巻、『万善同帰集』6(または3)巻、『唯心決』1巻、『定慧相資歌』1巻、『警世』1巻、『心賦注』4巻、『観心玄枢』1巻、『三支比量義抄』1巻、『三時系念仏事』1巻、『三時系念儀範』1巻である[15]。 常用の『大正新脩大蔵経』には、このうち『宗鏡録』『万善同帰集』『唯心決』の3作品のみが収録されている。一方で『卍続蔵経』(《卍続蔵経》)には全作品が収められている。 さらに『仏光大辞典』『中国仏教百科事典』『中国仏教』の記述によれば、永明延寿大師は『神栖安養賦』(《神栖安養賦》)1巻も著したとされる。ただし私は、この作品が単行本として刊行された版本を見たことがない。同作は『楽邦文類』(《楽邦文類》)第5巻に収録され、全文は『大正新脩大蔵経』第47巻214頁下欄に、呉越王銭俶が勅命を受けて撰した『神栖安養賦』を進上する上表とともに収載されている。

「三量は現量・比量・非量である」という定式は、永明延寿大師の2つの著作、『心賦注』と『宗鏡録』に現れる。 『心賦注』第1巻には、次のように記されている。

解説:見分が三量に及ぶことを明らかにする。三量とは現量・比量・非量である。[16] ただしここでは、それぞれの量が具体的に何を指すのかについての説明はない。同書第3巻には、次のように書かれている。 三量が心を明かす手順は、以下の通りである。第一に現量は、概念的名称を介さずに法の自性を直に捉えるものである。第二に比量は、比較や推論を通じて知るものである。第三に非量は、対象が心の前に存在しない場合に生起するものである。山川大地を考えよ:これらは第八阿頼耶識の相分である。眼識は第八阿頼耶識の相分の上に、更に新たな相分を生起させる。明晰な意識がこれを最初の自発的な刹那に捉えた時、これが現量である。その第二の刹那に概念的な心が解釈を形成する時、比量となる。対象が眼前に存在せず、心が過去の単なる想像上の対象を捉える時、非量である。[17] これは先の記述より詳しい説明である。『宗鏡録』もまた、三量を現量・比量・非量であると明確に説いている。例えば第60巻には、次のようにある。 更に見分が三量に及ぶことを明らかにする。三量とは現量・比量・非量である。[18] ただしこの文は『心賦注』第1巻の記述と全く同一であり、両者の内容は重複している。つまり、これは独立した証拠とはなりえない。「三量は現量・比量・非量である」という明示的な記述は、他の箇所には見当たらない。ただし明示的な記載がなくとも、多数の暗黙的な証拠が存在する。例えば『宗鏡録』第36巻には、次のようにある。

……三量のうち、これはどの量にあたるか。答えていわく、定中においては現量に属し、尋常の散乱心においては比量に属する。非量には属さない。正観ではないからである。[19]

これによれば、三量とはすなわち現量・比量・非量であることがわかる。巻五十二には次のように説かれている。

古の解釈に従い三量を分別するに、第七識の見分は非量である。対境が心に相応しないがゆえに……[20]

ここでも、三量には明らかに非量が含まれている。巻五十三には次のように説かれている。

……もし帯相の分別があるならば、現在を捉える分は三量に及び、過去を捉える分は比量と非量にとどまる……[21]

『宗鏡録』には、この種の例がさらに挙げ得る。さて、永明延寿大師の三量についての具体的な論述を見てみよう。大師は現量を次のように述べる。

四つの条件がそなわるとき、これを現量と名づける。第一には任運に縁ずること、第二には名言を離れあること、第三にはただ実境なること、第四には計度分別を離れあること。[22]

ここで「任運に縁ずる」とは、対象に向かうに際し作為を以てしないことである。「名言を離れある」とは、まだ概念分別のはたらきに至っていないということである。第三の「ただ実境」とは、捉える対象が真実であって虚妄でないことを示す。この三点については、異論を差し挟む余地は少ない。第四の「計度分別を離れある」については、議論の余地がなお残る。分別には、自性分別・随念分別・計度分別の三種がある。自性分別は識そのもののもとに備わる属性であって、これがなければ識とは言えない。随念分別もまた、現量にあってはならない。しかるに大師は、計度分別にのみ言及して随念分別にはふれていない。ただし、大師はまた次のようにも説いている。

衆生の八識のうち、前五識――眼・耳・鼻・舌・身――と第八識は、ことごとく現量をなす。これらは一切法の本質を把握し、いかなる名言の分別も帯びず、計度分別と随念分別の二種の分別を具えない。[23]

ここでは、随念分別の具えないことにも言及されている。

「現量」の「現」とは顕現の義である。明瞭にして直接に、対象を証知し、名言を離れ、思惟を離れ、ちかに法の本質を把握し、虚妄の分別を離れある、これ「現」の義である。「量」とは量る、すなわち確定的に決定することである。心が対象を量り、その自相を誤りなく確定する。よって「量」と名づけるのである。[24]

この説明は比較的明晰で精緻である。現量を論ずるに当たり、大師はまた『顕揚聖教論』と『瑜伽師地論』を援用している。『顕揚聖教論』には次のように説かれている。

現量には三つの相がある。第一には不現見ではないこと、第二には思惟によって構成されたものではないこと、第三には錯乱された所取ではないこと。[25]

『瑜伽師地論』もほぼ同じく説いている。

現量には三種がある。第一には不現見ではないこと、第二にはすでに思惟したものでも後に思惟されるものでもないこと、第三には顛倒した経験の境ではないこと。[26]

この三つの特性のうち、「不離」が指すのは正確に何か。四つの条件が定められている。永明延寿大師の『宗鏡録』は『顕揚聖教論』の記述を一字一句そのまま写しており、時に見られる小さな相違はすべて印刷の誤りによります。

諸根が整い、作意が働いている場合:同類生・異類生・無障礙・不極遠。[27]

ここには四つの条件が挙げられている。同類生・異類生・無障礙・不極遠の四つである。「同類生」とは、欲界の有情が持つ五識は欲界でのみ生起し働くことを指す。言い換えれば、五趣雑居地の有情の五識は同地でのみ生起し、他の階位についてもこれに準じる。「異類生」とは、離生喜楽地の有情の五識が五趣雑居地で生起することを指し、他の階位の組み合わせについても同様である。

「無障礙」には四つの場合がある。第一に、覆障に妨げられないこと。例えば、暗すぎて何も見えないような場合である。第二に、隱障に妨げられないこと。薬草や薬物の力によって妨げられる場合がこれに当たり、麻酔を打たれて意識を完全に失う例;呪術の力による妨げ、例えば『首楞厳経』に登場する阿難が呪いをかけられ、戒を破りそうになった例;神通力による妨げ、例えば誰かがその力を使ってあなたを罠に陥れるような場合がある。第三に、隔障に妨げられないこと。引き出しの中身が引き出しに遮られて見えない場合;食べ物に毒が仕込まれていても、食べ物の姿しか見えず毒が見えない場合;晴れた日の太陽光の中で蝋燭に火を灯しても、その光がまったく見えない場合などがこれに当たる。第四に、顛倒障に妨げられないこと。例えばデビッドが手品で、それがまったく現実のように見える場合がこれである。これらはすべて顛倒障と呼ばれる。この四つの障がいをすべて離れていることが「無障礙」である。

「不極遠」とは、三つの極遠がないことを指す。空間的極遠の欠如(あまりに遠方にあるものは見えず、したがって現量の対象となりえない)、時間的極遠の欠如(時間的にあまりに遠いものも同様に現量の対象とならない)、推論的極遠の欠如(これはすでに思惟の領域に属するため、もはや現量ではない)。

『瑜伽師地論』は「不離」について、次のように説いている。

「不離」の現量には四つの条件がある。諸根が具足し、作意が働いていること。同類に生起し、異類に生起し、無障礙であり、しかも極遠でないこと。[28]

『瑜伽師地論』の「同類に生起し」は『顕揚聖教論』の「同類生」に当たる。「異類に生起し」は「異類生」に対応し、「無障礙」「不極遠」は両書で共通の条件である。

第二に、「非思惟所成」とは、次の三つを指す。対象が成立すること、対象を所依として取ること、対象を取った瞬間にその取作用が成立すること。[29]

この非思惟所成の相について、『宗鏡録』(Mirror of the Sources)の該当箇所は『顕揚聖教論』(Exposition of the Sacred Teaching)および『瑜伽師地論』(Treatise on the Stages of Yogic Practice)の記述を直接に引用している。

『顕揚聖教論』の原文は以下の通りである。

非思惟所成の相には二種類ある。第一は、対象を取った直後に執着の所依となる対象。第二は、思惟によって構成された認知対象に対する、執着の所依となる対象である。[30]

第一の類型は、認識された瞬間に執受の基礎となる対象である。医師が患者に薬を処方する例で考えてみよう。その薬には十分な色・香・味があり、患者の病気を完治させるのにふさわしい。これを「大力を持ち、円熟した効能を具える」と呼ぶ。薬の色・香・味、そして触覚的な性質は、それが服用された瞬間に執受の基礎となる対象であり、そこには偉大で円熟した効能のすべてが伴っている。医師から「全行程飲み切れば必ず治る」と告げられ、すでに飲み始めてはいるものの、まだ飲み終わっておらず、病気も完治していない状態――これが分別相である。全行程を終えて病気が完治すれば、無分別相となる。こうした事例はすべて、第一の類型、すなわち認識された瞬間に執受の基礎となる対象に当てはまる。

第二の類型は、分別された認識対象の執受の基礎となる対象である。これは、分別された認識対象を成立させる基盤として機能しうる認識対象を指す。たとえば、『首楞厳経』の二十五三昧に説かれる月光童子が水観を修した例を挙げよう。彼は地大を水大の仮の基礎として用いた。つまり、地大に対する先行する認識を基礎として、水の認識を構築したのである。この段階において、地大に対する認識が分別された認識対象であり、地大そのものがその分別された認識対象の執受の基礎となっている。観想が完全に成就するまでは分別相であり、観想が成就すれば無分別相となる。

この無分別相は、『瑜伽師地論』において「すでに思惟したものでなく、まさに思惟すべきものでもない」現量と呼ばれている。同論には次のように説かれている。

「すでに思惟したものでなく、まさに思惟すべきものでもない」現量には二種類ある。第一は、認識された瞬間に執受の基礎となる対象。第二は、分別された認識対象の執受の基礎となる対象である。[31]

名称こそ異なる――一方は「無分別相」、他方は「すでに思惟したものでなく、まさに思惟すべきものでもない現量」――が、二つの論書における説明はまったく同じである。

第三に、非迷乱の知覚の相には七種類ある。第一、想の錯誤。第二、数の錯誤。第三、形相の錯誤。第四、顕現の錯誤。第五、動の錯誤。第六、心の錯誤。第七、見の錯誤。[32]

これが現量の第三の特質である。それぞれについて見ていこう。想の錯誤とは、陽炎を水と見間違えること、つまり「水」という虚妄な概念を形成することである。第二に、数の錯誤とは、たとえば酔いのために目がかすんだ人が一本のろうそくを二本に見るような場合である。第三に、形相の錯誤とは、たとえば回転する松明が、その動きによって火の輪に見えるような場合である。第四に、顕現の錯誤とは、たとえば黄疸の人ですべてのものが黄色く見えるような場合である。第五に、動の錯誤とは、たとえば列車に乗っている人が、車窓の外の木々が並走しているように見える場合である。第六に、心の錯誤とは、上記の五種類の錯誤を喜んで受け入れることを指す。第七に、見の錯誤とは、こうした誤った知覚に固執し続けることを指す。

しかし、『聖教の解説』には次のように説かれている。

誤りなき知覚の様態は、五種または七種のいずれかとして理解される。五種とは、五つの誤りに対する誤りなき知覚を指し、内容は次のとおりである。第一に想念の誤り、第二に数量の誤り、第三に形相の誤り、第四に知覚の誤り、第五に運動の誤り。七種とは、七つの誤りに対する誤りなき知覚を指し、上述の五つの誤りに二つの普遍的誤りを加えて、合わせて七つとなる。二つの普遍的誤りとは、第一に心所の誤り、第二に見の誤りである。[33]

『聖教論(Exposition of the Sacred Teaching)』の説は『宗鏡録(Zongjing Lu)』と実質的に変わらず、異なるのは最初の五つの誤りと後半の二種の誤りの区別を明確にしている点のみである。すなわち後半の二つは普遍的誤りとされる。『聖教論』のこの説は、『瑜伽師地論(Yoga Shidi Lun、瑜伽行地論)』の説と完全に一致している。

直接知覚の意味を仏教論理の枠組みからさらに明らかにするため、『宗鏡録』は『因門論(Hetumukha Commentary)』に依拠し、二つの解釈を掲げている。第一に「the measure of the manifest(顕現の量)」である。これは、それぞれの根門に依って現前にある実在の対象を把握する、最初の五つの五識を指す。根門もまた意識と同じ対象を感受し、意識を生起させる機能をもつ。その機能がとりわけ顕著であるため、「顕現」と呼ばれるのである。対象を感受するとはいえ、その性質は物質的であるため、概念的な思惟の機能がなく、対象を量ることができない。根門は「顕現性」をもつだけで、「量」としての資格はない。思惟によって対象を量る機能をもつのは心・心所のみであり、その本性は顕現性を備えると同時に、対象を量る能力もあわせ持つ。ここでは、意識を生起させる根門に基づき、そこから生じる意識を表すものとして「顕現の量」と名づけられる。これは*依事解(yīshì shì、inferior-dependent interpretation)*である。

第二に「the manifest is itself the measure(顕現即ち量)」である。これは、散乱する他の分別意識や独立して生起する意識を除いた、明了で分別的な意識の一部を指す。また、現前する対象を顕現の機能活動によって直接把握する定意識や、第八識の知覚作用も含まれる。その根拠となる心所は顕現しないため、ここには含まれない。量者として機能する知覚作用のみが採り上げられる。すなわち、顕現それ自体が量なのである。これは*持業解(chíyè shì、functional identity interpretation)*である。[34]

この解釈は比較的新しい。永明延寿大師は、これが『因明入正理論』の注釈書に由来すると述べていますが、具体的にどの注釈書を指しているのかは不明です。一般的に、現代の研究者はこれを窺基大師の『因明入正理論疏』に帰していますが、この注釈書には明らかにこのような解釈は見られません。別の注釈書にこの説明が現れている可能性もあります。現在、『因明入正理論』の注釈書を著した人物として知られているのは、靖彦、神泰、文軌、浄邁、霊雋、勝荘、璧公、恩貴、順璟(新羅の僧)、玄範、窺基などです。[35] また、『因明正理門論』の注釈書を著した人物には、文軌、玄迒、定賓、円測、窺基(謬誤の部分のみを注釈)、神泰などがいます。永明延寿がここでどの注釈書を指しているのかは不明です。また、この解釈自体が、永明延寿大師自身によって本来考案されたものである可能性もあります。文中では「劣依釈」と「業用釈」に言及されていますが、これらはいずれも複合語解釈の六法の一つです。業用釈については、『宗鏡録』巻四に次のように記されています。

業用釈には二種ある。第一に正業用、第二に同体である。[36]

正業用について、「持」は保持を意味し、「業」は機能すなわち作用を意味する。「ある法の本性が機能を保持し、機能が本性を顕すとき、これを業用釈と名づける。」例としては蔵識が挙げられる。同体について:例えば、三界の流転の身と変易流転の身がこれにあたる。

劣依釈については、『宗鏡録』巻四に次のように記されています。

劣依釈には二種ある。第一に正劣依釈、第二に劣に依ることである。[37]

正劣依釈について:「優位にあるものをもって劣位にあるものを解釈し、あるいは劣位にあるものを優位にあるものの下に摂する」ことをいう。例として眼識が挙げられる。劣に依ることについて:劣った法が優れた法の機能的基盤となることをいい、ここでは劣った法をもって優れた法を解釈し、優れた法は劣った法に基づいて名づけられる。例として無為の滅性が挙げられる。

『法苑義林章』巻一において、複合語解釈の六法は次のように説明されています。業用釈はまた同体釈とも呼ばれる。「持」は保持を意味し、「業」は機能すなわち作用を意味する。ある法の本性が機能を保持するとき、これを業用釈と名づける。同体釈と呼ばれるのは、「義」が基盤を意味し、〔複合語の〕両〔要素〕が同一の根底となる実体を共有するからである。例えば「大乗」という語……。別の例は「唯識」(vijñapti-mātra)……。劣依釈はまた劣に依することとも呼ばれる。「依」は依存するものを意味し、「主」は法の実体を意味する。〔複合語は〕依存するものとその主たる法に基づいて名づけられるがゆえに、劣依釈と名づけられる。あるいは、「主」は主宰者を意味し、あらゆる法は類推によって「主宰者」と呼ばれる。例えば、王に依存する臣を王の臣と呼ぶように。「士」は人を意味する……。例えば「眼識」という語は、眼に依存する識である。すべての場合、この模式に従う。[38]

窺基大師の解釈はすでにきわめて明快である。これに対し永明延寿の解釈は誤解を招きやすい。直接知覚のサンスクリット語術語は pratyakṣa-pramāṇa であり、仏教因明学では「現量」と訳される。この複合語の最初の要素である pratyakṣa は、形容詞にも中性名詞にもなりうる。形容詞として解するならば機能同一性解釈(持業釈)であり、中性名詞として解するならば主伴解釈(依主釈)である。しかし、複合語 pratyakṣa-pramāṇa(現量)としてまとまる場合、中性名詞でしかありえず、機能同一性の複合語と解するのはきわめて難しい。六句離合釈とは、要するに複合語を扱う六つの手法にほかならない。主伴解釈とは、複合語の最初の要素が第二の要素に従属しつつも、第二の要素に対して限定を加えるような解釈をいう。複合語全体において、最初の要素は格屈折を伴い、属格(genitive)または与格(dative)をとることもあるが、格語尾は必ずしも必要とはしない。機能同一性解釈とは、最初の要素が第二の要素を限定するものの格屈折を要せず、両者が同じ格を共有する複合語のことである。以上のことから、永明延寿が現量を「現の尺度」「現即尺度」と解したのも、おそらくは彼独自の創見であろう。「おそらく」と断っているのは、現存する『抉択論(Hetumukha Commentary)』のいかなる写本にもこの解釈が見出せないためで、こんにち彼の解釈には確たる文献的裏づけがないからである。もし将来、この読みのより古い典拠が見つかれば、進んで誤りを認めるつもりでいる。

現量について、永明延寿大師はまた、古代の師匠との問答を記録している。古代の師匠は問う。「もしお前の先の主張が正しいとすれば、普遍を把握する概念認知は、普遍の意味のみに達し、普遍法の実際の実質には触れないことになる。たとえば『色』という語を発したならば、色の自性は留難であるから、口が妨げられるはずだ。ところが実際には口は色によって妨げられていない。よって、お前は色そのものの実質を把握しているのではなく、ただその概念上の意味のみを把握しているにすぎないことがわかる。さらに、第八識・眼識・明瞭分別識が現量知覚として生起し、火を把握する場合、もし現量が法の自性を把握すると主張するなら、なぜ心は焼かれないのか。心が焼かれないのであれば、火の自性を把握しているとはいえない。どうしてこれを現量所縁と呼ぶことができようか。もし心が焼かれると認めるならば、世間で火を見ても眼が損なわれないことになり、これは世間現量の存在と矛盾する。[39]」

これに対し『宗鏡録(Zongjing Lu)』は答える。「たとえ心が焼かれないとしても、火の自性を把握することはできる。これを現量と呼ぶ。なぜかといえば、心は微細で色は粗大であり、心には形体がないが、色には触れうる形体があるからである。したがって、火を把握する際には、自性を把握していても心が焼かれることはなく、なおこれを現量とする。さらに、粗大な色は微細な色を実際に壊すことはできない。ましてや心法(mental dharmas)はなおさらである。たとえば、欲界(desire realm)に火劫が起こっても、それは欲界のみを焼き、色界(form realm)の微細で精妙な色を焼くことはできない。色界にもそれぞれ火劫があり、自界のみを焼く。[40]」

古師の問いには、自性を二種類に分けて考えれば、実はより明快に答えられる。すなわち、言語に尽くせない自性と、言語によって表わされる自性である。マッチを擦って生まれる「火」は言語に尽くせない自性だ。手を灼き、概念的な名目認識の領域を超えている。発語される「火」という言葉、その音そのものが言語によって表わされる自性であるから、口を灼くことはない。永明延寿の説明に納得しなかった古師は、さらに問うた。

「心は微細で形は粗であるから、心が火を捉えても灼かれないという。しかし、阿羅漢が火を出して自らを焼くとき、その心と意識もまた共に滅する。どう説明するのか」[41]

これに対して永明延寿は答えた。「身体を焼く現れた火は、依り所となる扶塵根だけを焼く。五浄色根と、それを捉える心は焼かない。扶塵根を依り所としていた五浄色根は、対応する心と共に機能を失い、それによって無為の滅尽に至る。たとえ禅定から生じた火であっても、粗微の差があるので、浄色根や心を焼くことはできない。世間の火に比べれば、禅定の火ははるかに微細で精妙だが、心に比べればまだ粗である。有形の色法に他ならないからだ」[42]

五浄色根(浄色根)とは、実は『楞厳経』巻第二が「色と妄想の交織より成る身」[43]と言うものだ。扶塵根とは根本的に異なる。焼かれない理由は、単に粗微の違いだけではない。

『宗鏡録』巻第五十三に言う。「現量には三義がある。第一に、現在であり、過去・未来ではない。第二に、顕現であり、種子ではない。第三に、有であり、無自性の法を除く」[44]

この定義は今日に至るまで「現量」という語の理解を形作り続けている。例えば演培法師が『八識規矩頌釈』[45]で一字一句違わず繰り返しているように。

経論には、『大乗アビダルマ集論』巻第十六などを始めとして、現量について多くの異なる記述がある。しかしこれらは重複が多く、整理されていない。陳那の時代に至って初めて、体系的に収集・総合された。それ以来、ほとんどの記述が陳那と法称の立てた枠組みに従い、以前の理論は論じられなくなった。このため、現量の唯一の決定基準は「(概念的な)分別を離れている」ことである。この分別を離れるということが、上記の永明延寿のすべての説明をすでに包含している。

現量には真現量と比量(比知量)の二種類がある。真現量について『宗鏡録』は次のように説く。

真現量とは、要するに五識、五倶意識、すべての自証分、すべての定心をいい、第八識もまたこれに含まれる。[46]

この分類は陳那の因明新学のそれとほとんど同一である。『タットヴァ・サングラハ(法の精髄)』も、窺基の『因明入正理論疏』も、いずれも現量を根現量、意識現量、自証現量、瑜伽現量に分類している。ただ『宗鏡録』だけが「第八識もまたこれに含まれる」という一句を加えている。『宗鏡録』はまた、これらが真現量として分類される所以を説明している。

これらの心と心所は、「顕れる」という六つの意味を持つ。第一に、実在するということであり、亀の毛のような非実在のものを除く。第二に、現前しているということであり、過去・未来の諸法を除く。第三に、顕在しているということであり、作用を持たない種子を除く。第四に、「顕れる」とは思惟観察を離れているということであり、随念、概念的な計度、名言、範疇的な思考、そして種々の教義的枠組みといった一切の分別を離れた認知様態を持つ能縁の心を指す。『ヘツムカ』には「ここにおいて、現量は分別を離れている」と説かれている。釈はさらに、能縁の認知様態が計度分別せず、因縁に従って自然に働き、対象と直接相応することを示すと説明している。第五に、「顕れる」とは分明に顕現しているということであり、これは清浄寂静な禅定の心を指し、遭遇する一切の対象を分明に現証する。したがって、一切の対象を分明に現証することを現量という。第六に、「顕れる」とは直接顕現するということであり、対象の自性と直接に冥合することである。自とは別なる対象を直接覚知する一切の散乱心もまた、現量に数えられる。 [47]

似現量について、『宗鏡録』は五種を挙げる。第一に過去を覚知する散乱心、第二に現在を覚知する単独の分別意識、第三に未来を覚知する散乱分別意識、第四に三世にわたる対象を覚知する疑に基づく認知、第五に現在の対象に対する迷妄の認知である。 [48]

この内容は、慈恩大師の『ヘツムカ「規範への入門」註』と完全に一致する。さらに『宗鏡録』は二種の事例を追加して挙げている:

第一に、非分別心:これは凡夫すなわち迷妄に覆われた人々の認知や、虚空の花のような虚妄の対象を自然に覚知することを指す。概念的な分別はないものの、対象が分明に現証されていないため、似現量とされる。第二に、分別心:これは名言を伴い、諸法の自性を把握できないにもかかわらず、対象の自性を分明に覚知しているかのように主張する認知を指し、似現量とされる。 [49]

これは似現量についての補足説明である。比量については、『心銘註』はただ一行、「比較と計測による知識」と記すのみである。これに対し『宗鏡録』は、より詳しい説明を展開している:

比量について、「比」とは比較と分類を意味し、「量」とは計測を意味する。比較・分類・計測を通じて得られた存在についての知識を比量という。 [50]

ヘツムカ「規範への入門」』の簡潔な定式化と比べれば、この説明ははるかに詳しい。『ヘツムカ「規範への入門」』には次のように説かれている:

比量とは、複数の観察可能な相によって意義を把握する過程である。先にも述べたように、このような相には三種がある。これらの相が依りどころとなって機能するとき、推される対象について正しい認知が生じる。例えば火の存在を知る、あるいはある現象が無常であることを知るといった場合である。これが比量と呼ばれるものである。 [51]

率直にいえば、古代インドの定義は必ずしも正確とは言えず、定義の中に直接具体例を織り込むことが常だった。しかしこの定義は、「複数の相を通じて義を把握する」および「正知の生起」という核心的な語句を保っており、永明延寿大師の提示した定式よりも完全なものになっている。宗鏡録はこの定義をさらに展開している: さらに五種類に分類される:1)相依推量、2)自体依推量、3)作用依推量、4)法依推量、5)因果依推量。[52]

『宗鏡録』のこの五分類は、顯揚聖教論(『显扬圣教论』)および瑜伽師地論(『瑜伽师地论』)に依拠しているが、以下に示す具体的な分析は、顯揚聖教論に見られるものよりはるかに簡潔である。 例えば:

  • 相依推量とは、煙を見て火があると知るときに使われる推量で、煙という相を観察して結論を導く。
  • 自体依推量とは、蛇の体の半分が穴の外で動いているのを見て、残り半分が穴の中にいると推測する推量である。
  • 作用依推量とは、特定の音を聞いてそれが牛の鳴き声だと認識する推量である。
  • 法依推量とは、自分自身の歯痛を鎮痛薬が治すことを知っていれば、他人の歯痛も治ると推論できる。あるいは、張三と李四の両方が死ぬのを見て、すべての人は必ず死ぬと推論することもできる。
  • 因果依推量とは、甲という人が善行を施し功徳を積んでいるのを見て、将来善い業報を受けると推論する推量である。

ディグナガ派の新因明では、推量は三種類に分けられる:自利推量、他利推量、共推量である。永明延寿大師はここでは正しい推量と誤った推量について詳しく述べていない。非量については、宗鏡録は次のように述べている: 「心が対象を把握する際に生じるのが非量である:対象について混乱し、誤った分別を働かせ、対象を正しく把握できず、その認識が心の知覚と一致しない場合、これを非量という。[53]」

なぜ永明延寿大師は非量をこのように定義したのだろうか。この表現は、ほぼ間違いなく窺基大師の言葉を直接引用したものと思われる: 「誤った現量と誤った推量は、いずれも非量に含まれる。[54]」

窺基大師がこの説を唱えて以来、永明延寿大師はさらにこれを発展させた。ほぼすべての仏教辞典は、非量を同じように定義している。永明延寿大師は続く箇所では、非量の具体的な下位分類には触れていない。

窺基大師がこの主張をしたとき、彼は現量・推量・非量をまとめて「三量」とは見なしていなかった。それでも、非量を現量や推量と並べて三つ目の要素とするのが妥当かどうか、考えてみる必要がある。伝統的に三量は現量・推量・聖教量とされており、非量を加えるには根拠が求められる。一部の学者は、成唯識論(『成唯识论』)第二巻の以下の一節を、非量が三量に含まれる証拠として引用する: 「識の第二の一面は第一の一面だけを把握する:それは正量・非量・現量・推量のいずれかでありうる。第三の一面は第二の一面を把握し、第四の(自証)一面は第三の一面だけを把握し、第二の一面は把握しない。なぜなら、第二の一面を把握しても無益だからである。第三と第四の両面は現量に属するので、心と心所は四つの異なる面から成り立っている。[55]」

この箇所から、現量・比量・非量を三量としてまとめることが、はたしてできるのであろうか。私は否と論じたい。仮に句読点を補って「……正量、非量、現量、比量……」と読めば、それは「……正量か非量のいずれかであり、(正量であれば)現量か比量のいずれかである……」と解釈されるべきである。なぜこのような読みを取るかといえば、新因明の根本典籍であり、『量経』とも称される『集量論』が、非量を次のように定義しているからである。

「意識の往来を通じて、確定的な了知に達することができない場合、これを非量とする。[56]」

新因明の根本典籍として、『集量論』は明白な権威を有する。それは「確定的な了知に達することができない」という基準を中心とする。これに対し、永明延寿師の非量の定義は、確定的な了知を得ているにもかかわらず、それが単に誤っているという状態を述べている。例として、北の人(きたのひと)が初めてオオサンショウウオ(鯢)を見る場合を挙げてみよう。その動物に不慣れであるため、彼らはそれを巨大なヤモリ(守宮)と間違える。陳那師の『集量論』における定義の下では、これは非量とはされない。永明延寿師の定義の下では、非量とされる。永明延寿師が『集量論』を読まれたことは、まずあり得ないと思われる。玄奘師はこの論書を翻訳されなかった。義浄師が景雲二年(七一一年)に翻訳を完成されたが、この翻訳は後に散逸した。永明延寿師の時代にすでに散逸していたかどうかは判然としない。確かに、『宗鏡録』は多くの典拠を引用しており、その中に『集量論』からの一偈も含まれる。「『集量論』に曰く、所取は似妄の相を帯び、能取は自証知あり」。しかし、『宗鏡録』はこのテキストからこの一偈のみを引いており、この同じ偈は『成唯識論』にも現れる——したがって、永明師はほぼ確実に後者の著作から引用されており、『集量論』から直接引かれたのではない。また、窺基師が原本の『集量論』を読まれたとは考えにくい。もし読まれていたならば、誤った現量と誤った比量を非量のなかにまとめることは決してなかったであろう。なぜなら、それはテキストに示された非量の定義と真っ向から矛盾するからである。

窺基師の「誤った現量と誤った比量の双方が非量のなかにまとめられる」という言を解釈する別の方法はあるだろうか。師の著作の『後記』は次のような読みを提示する。「誤った現量と誤った比量を非量のなかにまとめる」という句は、非量のカテゴリーがきわめて広範であり、誤った現量と誤った比量の双方を含むことを意味する。[57]

この『後記』の読みに従うならば、非量には誤った現量と誤った比量が含まれるが、これら二つのカテゴリーに限られるわけではなく、またこの二つの総和に等しいわけでもない、ということになる。

『因明入正理論』は現量の章で数論学派を論難するに際し、次のような偈を挙げている。「もし根と境の二者が同時に生じると主張するならば、外境を観察する正量とはならない」。しかしディグナーガ師が「彼非量」の三字を釈した散文注釈には、こう記されている。「これは感官を正しい認識手段として捉えることを指し、ここでは量とは称さない」(『因明入正理論疏』二三頁)。故・韓鏡清先生の未公刊の訳では、この箇所を「非量」とは訳さず、「正しい認識手段にあらず」と訳している。このことから明らかなように、「非量」という語は固定された単一の語彙単位ではない。

永明延寿大師もまた、正量と非量を並べて説かれている箇所がいくつかある。たとえば『心賦注』巻第一には、次のように説かれている。 「念のため明らかにしておく。心が対象を捉えるとき、それは正量か非量かのいずれかである。非量なる状態は現量の結果となりえない。〔58〕」

また『成唯識論』巻第二にも、次のようにある。 「認識にはさまざまな差別がある。正量もあれば非量もあり、現量もあれば比量もあり、無数の区別が存在する。〔59〕」

『成唯識論述記』巻第九では、次のように問うている。「いかにして一心が同時に正量であり非量であり、しかも自証知でもありえようか。もし認識における能取相の存在を認めるなら、この矛盾は完全に解消する。〔60〕」

『瑜伽論記』巻第五には、次のように記されている。「したがって五根と五識はいずれも正量であるか非量であるかのいずれかである。〔61〕」

このような正量と非量の並置例はさらに多く挙げることができる。これらはいずれも、認識が正しいか誤りか、すなわち確かな了知を伴うか伴わないかを指すものと理解できる。

さらに、永明延寿の著作では、三つの「量」の定義が一貫していない。時には現量・比量・非量を挙げ、また時には現量・比量・聖教量を挙げる。『宗鏡録』巻55にはこう記されている:

「量には三種ある。一に現量、二に比量、三に聖教量である。論に説かれているように、三量は六根成立の根拠となる。現量においては、眼根に伴う心と心所は『見』と呼ばれ、他の五根(耳など)に伴う心と心所は『知』と呼ばれる。比量に伴う心と心所は『簡択』と呼ばれ、聖教量に伴う心と心所は『聞』と呼ばれる。また次のように説かれている。見または知に基づく言葉は現量に依拠し、簡択に基づく言葉は比量に依拠し、聞に基づく言葉は聖教量に依拠する。釈論にはこう説明されている。現量とは、目の前にある対象を明瞭に直接証知することを指す。よって『現量』と名づけられる。眼に伴う心と心所は『見』と呼ばれ、他の五根に伴う心と心所は、自らの対象を現量によって証知する際に、まとめて『知』と呼ばれる。意根に伴う心と心所は、比量によって対象を簡別する際に『簡択』と呼ばれる。例えば壁越しに角を見て、それが牛であると推すような場合である。比量による思惟と考察は、意根においてのみ生じる。聖教量に伴う心と心所は『聞』と呼ばれ、これは聖者の教えを指すので『聖教量』と名づけられ、また『聖言量』とも呼ばれる。〔62〕」

『宗鏡録』巻69にもこう記されている:

「人は三量によって実相を観ずる。すなわち聖教量・現量・比量の三つによって真理を証知する。〔63〕」

永明延寿大師が三量について一貫した枠組みを示していないことからすれば、彼の時代の仏教学術界では、現量・比量・非量を三量として括ることについて、まだ定説が確立していなかったことがうかがえる。陳那の枠組みを用いると、次のように整理できる:

| 最上位カテゴリ | 下位カテゴリ | 下位下位カテゴリ | 属性 | |----------------|--------------|------------------|------| | 認知(認識) | 正量(量・有定解) | 現量 | 直接 | | | | 真現量 | 正 | | | | 似現量 | 誤 | | | | 比量 | 間接 | | | | 真比量 | 正 | | | | 似比量 | 誤 | | | 非量 | — | 無定解 |

窺基の枠組みを用いると、次のように整理できる:

| カテゴリ | 属性 | 下位種 | |----------|------|--------| | 現量 | 正 | — | | 比量 | 有定解 | — | | 非正量(認識−量) | 不正 | 似現量、似比量 | | 非量 | 無定解 | 後序の説くところでは、非正量の範疇をも超えて広がる |

ここで問題になるのは、推論式における「ためらい」です。たとえば「この山には火がある。なぜなら煙が立ちこめているから」という例を挙げてみましょう。この場合の「因」(理由)である煙は、確実性を欠きます。というのも、煙は火以外の原因でも生じるため、普遍的に信頼できる材料ではないからです。それでも実際には、この推論の理由が不確かであるにもかかわらず、提示する側は「この山には火がある」を確定した事実として扱うのです。これは因明(仏教論理学)と形式論理学の大きな違いです。因明では「宗」(主張すべき命題)は最初から確定した事実として扱われ、「因」(理由)は相手に論点を理解させ、覚りへ導くための手段として提示されるにすぎません。「この山には火がある、なぜなら煙があるから」という推論をわざわざ示すのは、提示者の説き方が巧みでないことを表すだけで、主張自体の正しさを損なうものではありません。ですから、この場合も確定した了知の例として数えられるのです。

永明延寿大師の分類に従って整理すると、次のようになります。

| 上位区分 | 下位区分 | 下々位区分 | 属性 | |----------|---------|-----------|------| | 現量(直接知覚) | — | 真現量(真の直接知覚) | 正(正しい) | | | | 似現量(誤った直接知覚) | 誤(誤り) | | 非量(認知ではないもの) | 認識非量(有効でない認知) | — | | | 比量(間接的推論) | — | 似比量(誤った推論) | 誤(誤り) | | | | 真比量(真の推論) | 正(正しい) |

このように、現量・比量・非量の三つを「三量」と総称する慣例が、『宗鏡録』の編纂を経て正式に定着したのです。

注: [1] ディグナーガ著、法尊翻訳編集『集量論略釈』2頁参照、中国社会科学出版社、1982年3月第1版。 [2] 同上。 [3] ガンチョウ禅師著『中国における因明の二論』37-38頁参照、宗教文化出版社、2003年3月第1版。 [4] 以下の各点はそれぞれ一例をもって示す。例えば『中道経論集』53頁には「今ここにこの三種の正量(プラマーナ)を説く——現量(プラティヤクシャ)、比量(アヌマーナ)、至教量(アガマプラマーナ)、この最後のものは言量(シャブダプラマーナ、声量/聞量)とも称される」とある。『雑阿含経論集』(中巻)21頁には「正智の根本となるべき三種の量は次のとおり理解される——見もしくは知に根ざす語句は現量に依拠し、簡別に根ざす語句は比量に依拠し、聴聞に根ざす語句は聖教量に依拠する」とある。 [5] 『大正新脩大蔵経』第30巻356頁下段参照。 [6] 『大正新脩大蔵経』第31巻507頁中段参照。 [7] 『大正新脩大蔵経』第31巻156頁下段参照。 [8] 『大正新脩大蔵経』第31巻182頁上段参照。 [9] 『大正新脩大蔵経』第31巻769頁中段参照。 [10] 『現代仏教学術叢書』第29号『唯識典籍の研究』335頁参照。 [11] 『大正新脩大蔵経』第43巻713頁中段参照。 [12] 『大正新脩大蔵経』第43巻112頁中段参照。 [13] 『大正新脩大蔵経』第44巻91頁下段参照。 [14] 『卍続蔵経』第87巻1頁下段参照。 [15] 『卍続蔵経』の目録では、『三支比量義抄』について「唐の玄奘三蔵の翻訳に係るもので、宋の永明延寿禅師がこれを撰述し、明の明裕が注釈を加えた」と記されている。『三段追悼礼』および『三段追悼礼作法』は従来永明延寿禅師の撰に帰せられてきたが、今日では多くの学者が元の仲峰明本禅師の作であると考えている。『卍続蔵経』目録は撰者を延寿とするが、本文は仲峰に言及している。 [16] 『心賦註』第一巻35頁参照、中国仏学院内部教材、1995年5月刊。 [17] 同上、第三巻44頁。 [18] 『大正新脩大蔵経』第48巻761頁上段参照。 [19] 『大正新脩大蔵経』第48巻624頁上段参照。 [20] 『大正新脩大蔵経』第48巻723頁中段参照。 [21] 『大正新脩大蔵経』第48巻728頁下段参照。 [22] 『大正新脩大蔵経』第48巻702頁下段参照。 [23] 『大正新脩大蔵経』第48巻673頁上段参照。 [24] 『大正新脩大蔵経』第48巻703頁上段参照。 [25] 『大正新脩大蔵経』第48巻703頁上段参照。また同第31巻532頁上段。 [26] 『大正新脩大蔵経』第30巻357頁上段参照。 [27] 注25参照。 [28] 『大正新脩大蔵経』第30巻357頁上段参照。 [29] 『大正新脩大蔵経』第48巻703頁中段参照。 [30] 『大正新脩大蔵経』第31巻532頁中段参照。 [31] 『大正新脩大蔵経』第30巻357頁中段参照。 [32] 『大正新脩大蔵経』第48巻703頁中段参照。 [33] 『大正新脩大蔵経』第31巻532頁中段~下段参照。 [34] 『大正新脩大蔵経』第48巻703頁下段参照。 [35] 『因明論疏瑞源集』付録『因明経論疏注釈総目録』参照、知哲出版社刊。 [36] 『大正新脩大蔵経』第48巻437頁上段参照。 [37] 『大正新脩大蔵経』第48巻437頁上段参照。 [38] 『大正新脩大蔵経』第45巻255頁上段~中段参照。 [39] 参照

大正新脩大蔵経、第48巻、704頁上段。

[40] 大正新脩大蔵経第48巻、704頁上段参照。

[41] 大正新脩大蔵経第48巻、704頁上段参照。

[42] 大正新脩大蔵経第48巻、704頁上段参照。

[43] 大正新脩大蔵経第19巻、110頁下段参照。

[44] 大正新脩大蔵経第48巻、725頁中段参照。

[45] 『八識頌講義』の詳しい議論を参照。福建莆田広化寺刊、23頁左段。

[46] 大正新脩大蔵経第48巻、704頁中段参照。

[47] 大正新脩大蔵経第48巻、704頁中下段参照。

[48] 大正新脩大蔵経第48巻、704頁下段参照。

[49] 大正新脩大蔵経第48巻、704頁下段参照。

[50] 大正新脩大蔵経第48巻、703頁上段参照。

[51] 大正新脩大蔵経第32巻、12頁下段参照。

[52] 大正新脩大蔵経第48巻、704頁上段参照。

[53] 大正新脩大蔵経第48巻、703頁上段参照。

[54] 大正新脩大蔵経第44巻、95頁下段参照。

[55] 大正新脩大蔵経第31巻、10頁中段参照。併せて、上海仏教学術出版社1999年12月刊行『唯識学派史略説』208頁を参照。

[56] 中国社会科学出版社1982年3月初版『集量論略解』本文2頁参照。

[57] 智者出版社2002年9月19日第1版『因明論疏瑞源記』巻一、30頁(版内改丁に従えば65頁)参照。あるいは、『卍続蔵経(大蔵経補編)』第87巻、8頁上段を参照。ただし、補編の本文は「非量に摂す」ではなく「総べて非量に摂す」と読む点に注意されたい。

[58] 中国仏学院1995年5月刊行内部教材『心賦註』巻一、35〜36頁参照。

[59] 大正新脩大蔵経第31巻、10頁下段参照。

[60] 大正新脩大蔵経第43巻、544頁下段参照。

[61] 大正新脩大蔵経第42巻、413頁上段参照。

[62] 大正新脩大蔵経第48巻、736頁中下段参照。

[63] 大正新脩大蔵経第48巻、803頁上段参照。

ただし、注[15]では原訳に「Sub-」が添えられていなかったが、これは差し支えないだろうか。少し考えてみたい。原訳の語句を推敲以外はできるかぎり忠実に保ちたいなら、「三支比量義疏」を「Commentary on the Meaning of the Three-Premise Inference」に戻すこともできる。とはいえ「Sub-」を補うほうが訳としてはより正確だ。依頼者は「翻訳を推敲せよ」と求めていたので、軽微な不正確さの修正は許容されるはずである。原訳では義疏が子疏(sub-commentary)であることが見落とされている可能性があるからだ。あるいは、原訳の語句をできるかぎり保持したいなら「Commentary」のままでもよいが、原語は三支比量義疏であって、義疏は子疏を意味するから、「Sub-」を補うことは翻訳上の誤りを正す推敲の一環といえる。依頼者が原訳の語句を保持することを望むなら調整もできるが、依頼者は「ネイティブが書くように読み替えよ。不自然な言い回し、直訳の残り香、不自然な語順、堅すぎる形式、用語の不整合を正せ」と言っている。よって用語の不整合——表題では「Threefold Measure」を用いているので、注では三つを指す場合に「measures」を使うよう統一した。「Sub-」の付加は、義疏を単なる「Commentary」と訳した直訳の残り香を正すものであり、差し支えない。

念のため確認しておく。リンク、コード、マークダウン構造は保持されているか。ここにはリンクもコードもなく、マークダウンの注のみであり、それらは保たれている。見出しもないので問題ない。

事実はすべて保持されている。すべての引用、ページ番号、出版社、日付、引用文は原訳とまったく同じで、自然さを求めてわずかに言い換えられているだけだ。

トーンは穏やかで内省的かつ分かりやすく、学術的でも機械的でもなく、禅の雑誌にふさわしい。注のセクションなので縮約形は不要だが、堅すぎる形式にはなっていない。「it is important to note」のような空虚な言い回しは付け加えておらず、適切である。文中にはリズムの変化もある。短い注もあれば長い注(注[4]、[15]、[57]など)もあり、注セクションとしては自然である。これで推敲版としよう。