Professor Lin Chong'an: The Essential Meaning of SA 334
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# 林崇安教授:『相応阿含経』334経の要義
# 『相応阿含経』334経の要義
林崇安
*(『法光』雑誌、第233号、2009年)*
『相応阿含経』334経に付される「334」は、『大正新脩大蔵経』の整理番号を指す。収録される版によって番号が異なり、『仏光大蔵経』では第312経、ヴィパッサナー教育版では第233経、印順版では第455経となっている。本経の題名は『因縁繋法経』である。本稿では『瑜伽師地論』の『摂事分』(諸要を摂する部分)を参考に、まず本経の構成を明らかにし、次いでその核心的意義を解き明かす。最後に、全経の現代語訳を提示する。
I. 経文の要旨
(01) かくのごとく我聞けり。ある時、仏は俱留(Kurū)の国の調牛(Diàoniú)の村に住み給えり。
(02) その時、世尊は比丘たちに告げて言われた。「今、汝らに法を説こう。それは初めも善く、中も善く、終わりも善く、義においても善く、味においても善く、円満具足にして雑えなく、梵行は清浄にして汚れなし。よく聴き、よく思惟せよ。この教えを『因・縁・結の経』と名づく。」
釈義: 以上が本経の序分である。次に仏は、弟子たちに向けて直接『因・縁・結の経』を説かれる。
(3a) 『因・縁・結の経』とは何か。眼には因があり、縁があり、結があると説く教えである。
(3b) 眼の因・縁・結とは何か。眼は業を因とし、業を縁とし、業に結ばれる。業にもまた因があり、縁があり、結がある。
(3c) 業の因・縁・結とは何か。業は愛を因とし、愛を縁とし、愛に結ばれる。愛にもまた因があり、縁があり、結がある。
(3d) 愛の因・縁・結とは何か。愛は無明を因とし、無明を縁とし、無明に結ばれる。無明にもまた因があり、縁があり、結がある。
(3e) 無明の因・縁・結とは何か。無明は不正思惟を因とし、不正思惟を縁とし、不正思惟に結ばれる。不正思惟にもまた因があり、縁があり、結がある。
(3f) 不正思惟の因・縁・結とは何か。眼が色に触れる時、不正思惟が起こり、迷いが生じる。
趣旨: 以上は六つの問答からなる。六根のうち「眼」を例として、仏は縁起の「逆順の道理」を説かれている。『Vastusaṃgrahaṇī』に「逆順とは、六根は業を因とし、業は愛を因とし、愛は無明を因とし、無明は不正思惟を因とし、不正思惟は無明触を因とする」と説かれている。この「逆順の道理」は次の通りである。6. 六根 ← 5. 業 ← 4. 愛 ← 3. 無明 ← 2. 不正思惟 ← 1. 無明触。これによって、眼を含む六根は業を因として生じるものであり、愛を因とするのではないことが明らかになる。経文中の「眼が色に触れる時」とは、眼と色の接触の瞬間を指し、そこに「無明触」が存在していることを示している。
(04) 眼が色に触れる時、不正思惟が起こり、迷いが生じる。この迷いが無明である。迷いから対象への渇望が生じる、これを愛と名づく。その愛から生じる行を業と名づく。それゆえ、比丘たちよ。不正思惟は無明を生じ、無明は愛を生じ、愛は業を生じ、業は眼を生ずるのである。
要旨: この箇所では、世尊が再び六根のうちの「眼」を例に挙げて、因縁の「順観の次第」を説かれている。『大事集』には次のように記されている。「さらに、六根を守らない者は、誤った教えを聞いて喜ぶことから、無明触に起因する染汚注意が生起する。この注意の増上力によって、来世において六根に生じる過失や欠点を真に理解することができない。その過失を真に理解できないため、貪愛が生じ、貪愛を抱くことによって対応する業を造り積む。対応する業を造り積むことによって、来世に六根が生じる。これを順観の次第という。」「順観の次第」は次の通りである:六根を守らないこと→誤った教えを聞くこと→1. 無明触→2. 染汚注意の生起→3. 六根の過失を真に理解できないこと→4. 貪愛の生起→5. 対応する業の造作→6. 来世における六根の生起。これは、衆生が業を造り積むことで、眼を含む六根が来世において生起することを示している。したがって六根は欲(貪欲)ではなく、業を根源とするものである。
(05) 耳・鼻・舌・身・意についても同様に説かれている。
要旨: この句は、上述の順観の次第が残りの五根(耳・鼻・舌・身・意)にも等しく当てはまることを確認するものである。
(06) これを『因有因有縛経』という。
解説: これは世尊による経の結要である。
(07) 世尊がこの経を説き終わられたとき、比丘たちはその言葉を聞いて喜び、教えを実践した。
解説: これは経の結偈である。世尊が法を説き終わられた後、弟子たちはその導きに従って実践し、因縁の順観と逆観を観察した。
以上が『雑阿含経・第三三四経』の核心的な意味である。
二、さらに考察を深める
第一に、「衆生は業の道に従い、渇愛には従わない」という教えを探求しよう。『摂事分(ヴァストゥサングラハニー)』(Vastusaṃgrahaṇī)では、まず渇愛を二種類に分け、(1)欲愛、(2)色界と無色界への渇愛、それぞれについて順を追って説いていく。 (1)欲愛は不善である。業果を生じさせることはあるが、それだけでは悪趣へと結生することはない——別に不善業を造らなければならない。 A 無明に基づく触から生じた感受に応じて欲愛が生じる場合、好ましい対象には貪りが、好ましくない対象には瞋りが、混乱した対象には癡が現れる。この三つの力が不善業を起こさせ、下の悪趣への結生をもたらす。貪り・瞋り・癡だけでは悪趣への結生を保証するわけではない。むしろ渇愛は、自身が造った業の果報が熟する際の助縁として働くのである。 B 好ましい対象への憧れが身・口・意の善業を修める原動力となるならば、その業は善趣への結生の直接の因となる。業がもたらす楽果は、その業自体が生じさせるものであって、煩悩に染まった渇愛が生じさせるものではない。 (2)色界と無色界への渇愛は不善ではないが、煩悩に染まっていることには変わりない。どちらも単独では業が熟する原因となることはない。 正法を聞いた者は、この色界と無色界への渇愛を土台として、欲界の粗雑で苦しみに満ちた性質を観じるかもしれない。これにより、明瞭で正念を伴った触が生じ、如理作意にかなった善い受がもたらされ、欲界の貪り・瞋り・癡を鎮める。そして禅定に基づく善業を起こす。これらの上界への結生は、こうした業から生じるのであって、煩悩に染まった渇愛そのものから生じるわけではない——ただし、業果が熟する際には、その渇愛が助縁として働くことがある。 このため、経典では「衆生は業の道に従う」とだけ説き、「渇愛に従う」とは説かないのである。 以上の記述は、縁起の過程において業がどれほど中心的かを明らかにしている。
- 欲愛については、不善業が下の悪趣への結生を引き起こし、身・口・意の善業が上にある善趣への結生を引き起こす。
- 色界と無色界への渇愛については、修行者たちが欲界の粗雑で苦しみに満ちた性質を禅定の中で観じ、深い禅定から生じる善業を起こす。これらの上界への結生は、そうした善業によってもたらされる。 欲界・色界・無色界のいずれに生まれる衆生も、過去の業によって形作られた身心を持つ。欲界と色界の衆生は六内処(あるいは五蘊)を具え、無色界の衆生は四つの精神的な蘊のみを具え、色法を持たない。この身心の直接の因は、過去の不善業、あるいは身・口・意の善業、あるいは禅定に基づく善業である。このため、衆生は業の道に従い、渇愛には従わないと言われるのである——これは根本的な原因に着目したときに成立する真理である。ただし、業果が熟しようとする際には、欲愛・色界愛・無色界愛が助縁として働くことがある。 第二に、前出の第五の偈にある「耳・鼻・舌・身・意もまた同様に説かれる」という句は略説である。各感官について詳しく説かれている完全な形は、以下の通りである。
(1) 耳根について: 『因縁縛法経』とは何か。耳には因あり、縁あり、縛ありと説く経である。では耳の因・縁・縛とは何か。耳の因は業、縁は業にして、業に縛せられる。業そのものにも因あり、縁あり、縛あり。業の因・縁・縛とは何か。業の因は渇愛、縁は渇愛にして、渇愛に縛せられる。渇愛そのものにも因あり、縁あり、縛あり。渇愛の因・縁・縛とは何か。渇愛の因は無明、縁は無明にして、無明に縛せられる。無明そのものにも因あり、縁あり、縛あり。無明の因・縁・縛とは何か。無明の因は不正観、縁は不正観にして、不正観に縛せられる。不正観そのものにも因あり、縁あり、縛あり。不正観の因・縁・縛とは何か。耳が音に遇うとき、不正観が起こり、迷いが生じる。耳が音に遇うとき、不正観が起こり、迷いが生じる。この迷いこそが無明である。迷いから生じる渇望を渇愛という。渇愛から生じる行為を業という。是の故に比丘たちよ、不正観は無明を生じ、無明は渇愛を生じ、渇愛は業を生じ、業は耳を生じる。
(2) 鼻根について: 『因縁縛法経』とは何か。鼻には因あり、縁あり、縛ありと説く経である。では鼻の因・縁・縛とは何か。鼻の因は業、縁は業にして、業に縛せられる。業そのものにも因あり、縁あり、縛あり。業の因・縁・縛とは何か。業の因は渇愛、縁は渇愛にして、渇愛に縛せられる。渇愛そのものにも因あり、縁あり、縛あり。渇愛の因・縁・縛とは何か。渇愛の因は無明、縁は無明にして、無明に縛せられる。無明そのものにも因あり、縁あり、縛あり。無明の因・縁・縛とは何か。無明の因は不正観、縁は不正観にして、不正観に縛せられる。不正観そのものにも因あり、縁あり、縛あり。不正観の因・縁・縛とは何か。鼻が香りに遇うとき、不正観が起こり、迷いが生じる。鼻が香りに遇うとき、不正観が起こり、迷いが生じる。この迷いこそが無明である。迷いから生じる渇望を渇愛という。渇愛から生じる行為を業という。是の故に比丘たちよ、不正観は無明を生じ、無明は渇愛を生じ、渇愛は業を生じ、業は鼻を生じる。
(3) 舌根について: 『因縁及び有経』とは何か。それは、舌に因・縁・縛があると説く経である。では、舌の因・縁・縛とは何か。舌の因も業、縁も業、縛も業である。業にもまた因・縁・縛がある。では、業の因・縁・縛とは何か。業の因も貪り、縁も貪り、縛も貪りである。貪りにもまた因・縁・縛がある。では、貪りの因・縁・縛とは何か。貪りの因も無明、縁も無明、縛も無明である。無明にもまた因・縁・縛がある。では、無明の因・縁・縛とは何か。無明の因も不正思惟、縁も不正思惟、縛も不正思惟である。不正思惟にもまた因・縁・縛がある。では、不正思惟の因・縁・縛とは何か。舌が味と出会ったとき、不正思惟が生じ、迷いが生まれる。舌が味と出会ったとき、不正思惟が生じ、迷いが生まれる。この迷いこそが無明である。この迷いから生まれる渇望を貪りと名付け、貪りから生まれる行為を業と名付けます。以上、比丘の皆さん。不正思惟が無明を生み、無明が貪りを生み、貪りが業を生み、業が舌を生み出すのです。
(4) 身根について: 『因縁及び有経』とは何か。それは、身に因・縁・縛があると説く経である。では、身の因・縁・縛とは何か。身の因も業、縁も業、縛も業である。業にもまた因・縁・縛がある。では、業の因・縁・縛とは何か。業の因も貪り、縁も貪り、縛も貪りである。貪りにもまた因・縁・縛がある。では、貪りの因・縁・縛とは何か。貪りの因も無明、縁も無明、縛も無明である。無明にもまた因・縁・縛がある。では、無明の因・縁・縛とは何か。無明の因も不正思惟、縁も不正思惟、縛も不正思惟である。不正思惟にもまた因・縁・縛がある。では、不正思惟の因・縁・縛とは何か。身が触と出会ったとき、不正思惟が生じ、迷いが生まれる。身が触と出会ったとき、不正思惟が生じ、迷いが生まれる。この迷いこそが無明である。この迷いから生まれる渇望を貪りと名付け、貪りから生まれる行為を業と名付けます。以上、比丘の皆さん。不正思惟が無明を生み、無明が貪りを生み、貪りが業を生み、業が身を生み出すのです。
(5) 意根について: 『因縁及び有経』とは何か。それは、意に因・縁・縛があると説く経である。では、意の因・縁・縛とは何か。意の因も業、縁も業、縛も業である。業にもまた因・縁・縛がある。では、業の因・縁・縛とは何か。業の因も貪り、縁も貪り、縛も貪りである。貪りにもまた因・縁・縛がある。では、貪りの因・縁・縛とは何か。貪りの因も無明、縁も無明、縛も無明である。無明にもまた因・縁・縛がある。では、無明の因・縁・縛とは何か。無明の因も不正思惟、縁も不正思惟、縛も不正思惟である。不正思惟にもまた因・縁・縛がある。では、不正思惟の因・縁・縛とは何か。意が法と出会ったとき、不正思惟が生じ、迷いが生まれる。意が法と出会ったとき、不正思惟が生じ、迷いが生まれる。この迷いこそが無明である。この迷いから生まれる渇望を貪りと名付け、貪りから生まれる行為を業と名付けます。以上、比丘の皆さん。不正思惟が無明を生み、無明が貪りを生み、貪りが業を生み、業が意を生み出すのです。
修正ポイント
- 用語の統一と正確性: 不正確だった「不善思惟」を、仏教用語として標準的な「不正思惟」に修正しました。
- 自然な日本語表現: 硬く断片的だった文を、日本語のリズムに合わせて滑らかに再構成しました。並列表現には「も」を使い、質問のつながりには「では」を挿入するなど、読みやすいflowに整えています。
- ** toneの調整**: 形式的だった「かくのごとく」を「以上、比丘の皆さん」に、「生ずる」を「生まれる/生み出す」に変更するなど、静謐で思慮深いZenジャーナルにふさわしい、親しみやすくも敬意のある表現に統一しました。
- 原文の忠实性: 重複する文、経典のタイトル、因果の chain、全ての事実・引用を完全に保持し、余分な内容の追加・削除は一切行っていません。
III. 経文の現代語訳
ここまで『因縁事経』の主旨を述べてきたが、ここに経文全体を平易な言葉で書き下す。
(01) 私が聞いたところでは、次のようであった。ある時、仏は拘羅(くろ)国の調牛(ちょうぎゅう)の村におられた。
(02) その時、世尊は比丘たちに告げて言われた。「今まさに汝らに法を説こう。善く初めにあり、善く中にあり、善く終わりあり。意味においても善く、味においても善し。円満にして清く、梵行の道は穢れなし。よく聞いて念におさめよ。この法を『因縁事経』と名づける。」
(3a) 何故にこれを『因縁事経』と名づけるか。眼には因あり、縁あり、縛あり、と説くからである。
(3b) その眼の因・縁・縛とは何か。眼は業を因とし、業を縁とし、業に縛られる。業もまた因あり、縁あり、縛あり。
(3c) 業の因・縁・縛とは何か。業は愛を因とし、愛を縁とし、愛に縛られる。愛もまた因あり、縁あり、縛あり。
(3d) 愛の因・縁・縛とは何か。愛は無明を因とし、無明を縁とし、無明に縛られる。無明もまた因あり、縁あり、縛あり。
(3e) 無明の因・縁・縛とは何か。無明は不正思惟を因とし、不正思惟を縁とし、不正思惟に縛られる。不正思惟もまた因あり、縁あり、縛あり。
(3f) 不正思惟の因・縁・縛とは何か。眼が色に触れる時、不正思惟(不如理の観)が生起し、顛倒(諸処の真の患いを見ないこと)が生まれる。
(04) 眼が色に触れる時、不正思惟(不如理の観)が生起し、顛倒(諸処の真の患いを見ないこと)が生まれる。この顛倒がすなわち無明である。顛倒より生ずる渇愛を愛と名づけ、愛より生ずる行を業と名づける。この故に比丘たちよ、不正思惟より無明を生じ、無明より愛を生じ、愛より業を生じ、業より眼を生じる。
(05) 耳・鼻・舌・身・意もまたこの如く説かれる。
(06) これがすなわち『因縁事経』と名づけられる所以である。
(07) 仏がこの法を説き終わった時、比丘たちは仏の言に歓喜し、教えどおりに奉行した。
IV. 結び
『瑜伽師地論』本地分の示すところによれば、本経はまず逆縁起を説き、次いで順縁起を説くという、明瞭な二部構成をなしている。この両者によって、「有情は愛によってではなく業によって流転する」という原理が、二つの角度──まず欲愛の役割、ついで色愛・無色愛の役割──から説き明かされているのである。禅修を志す者にとって、本経はまことに貴重なる指針を与えるものといえよう。