巌頭全奯:附録:掌珍論
附録:掌珍論
附録:掌珍論
陳那菩薩撰 義浄三蔵訳
論に曰く、三界の中にはただ世俗の仮名あるのみにして、真実の外境は求むるべからず。是れ妄執によるなり。今、真実を未だ証せざる者の為に此の論を作すは、諸法の自性を弁ずべき門を開くが為にして、正しき了解を得しめんとするなり。
頌に曰く: 縄を蛇と誤認し、 縄を見れば対象は失せるを知る。 よくその部分を観察せば、 かつての蛇の知覚は誤りなりと知る。
論に曰く、明らけならざる遠からぬ所にては、縄・蛇の如き者のみを見て、其の差別を弁ずること能はず、此の迷により堅く蛇と執す。後に其の差別を弁じて、妄執より此れ生じたるを知り、誤れる知覚にして、其の背後に実あることなし。乃ち縄の支分をよく観察する時は、縄すら執むることを得ず。此れを知る時は、縄は即ち蛇の知覚の如し。ただ妄れる意識のみあり、縄に妄れる意識あるが如し。極微の部分に至るも、世俗に仮借して見るのみにして、実なる所求むるべからず。此の如く、縄及び支分を取着する心が相を挙ぐる所は、皆な妄れる意識のみなり。
頌に曰く: 世俗に施設せらる一切は、 よくその自性を観察せば、 他より転ずる名言のみなり—— 世間の凡常の境すらも。
論に曰く、譬如、縄の支分を一一に分析し、よくよく観察する時、自性の体は求むる能はず、ただ妄心のみあり。如是一切の法は、但だ仮名のものと知るべし。瓶・衣等の類は、泥・糸等を以て成り、名言の上に至るまで然り。境の未だ分析せられざる間は、心識これに於いて「瓶」等と名く。「他より転ずる」とは、世間の言説より転ずるを謂う、真実の法に非ず。
頌に曰く: 支分なければ覚知する能はず—— 是の故に極微すら求むるべからず。 ただ妄心より此の生起あり—— 智者はこれに執着すべからず。
論に曰く、世俗に施設せる物を極微に究竟して、もはや分析する能わざるが故に、方面の方所なく、是の故に実在すと説く者ありとせば、是は空中の華・兎の角の如し。覚知する能はず、則ちこれを取着する心識を生ずる力なし。極微と説くもの、真実有に非ざることを知るべし。是の故に覚知すること能わざるの道理を引証するなり。此の極微は、真実有と立つること能はず。何の故ぞや。実有のものは、必ず差別せる支分及び相状あり。瓶・衣等の類を観よ、東・西・北等の方面あり、悉く支分を顕示す。極微を真実有とせば、必ず東西等の差別せる方面あるべし。是くの如くせば、即ち東・西・北等を有すること、是れ則ち真実有の極微に相違す。又た一体にも非ず、多くの支分合成せば、現象の差別を見るべし。一個の真実有の極微は決して求むるべからず。是の故に極微の執は応に捨てつべし。智者知る、三界は尽く妄心の所作なり。甚深の理を求むる者は、自性有に執すべからざるなり。
頌に曰く: 妄執の境は実有に非ず、 是の故に見る所と符合せず。 境の顕現は虚妄なれば、 これを取着する意識も亦た実有に非ず。
論に曰く、「我も亦た瓶・衣等の自性は求むる能はず、ただ妄識の境と分別するのみなり。然れども其の形相を錯乱して取着する心識は真実有なり、乾闥婆城・幻人等の心識の如し」と説くこと勿れ。此の心識有りと仮許すと雖も、其の見所と符合せざるが故に実有に非ず。此の妄識は、其の境に実有の性を計す。其の境の自性は既に無しと顕され、其の妄識も亦た真実に有るべからず。何ぞ此の妄識を実とせんや。力を失したる種子より芽等を生ぜず、世間の中に斯る例なし。是の故に汝が幻城の喩は其の義を得ざるなり。
頌に曰く: 此等は皆な施設のみなり、 鋭き智慧ある者の知る所なり。 智者の煩悩を断ずるは、 蛇の恐怖を除くが如く易し。
論に曰く、説く所の如く、三界は仮名のみなり。瓶等の粗顕の執を除く時は、名言より来たり世俗のみ有るを知る。能く能く観察する者は是れを悟り、縄を見て蛇の怖畏を除く。転た深く思惟して其の差別を弁ずる時は、縄に対する妄執すら基なきことを知る。此の如く見れば、煩悩を生ずる諸の因縁は速やかに断除せらる。煩悩の網及び業の果は、自然に息み得ん。
別に頌あり曰く: 智者世間の事象を観る時、 応に世間の軌則に随いて行ず。 煩悩を断絶せんと欲する者、 真勝義諦を明らかにすべきなり。
瓶・衣等の事において、世間の凡夫は実有と執して「瓶」「衣」と名く。智者も亦た斯る事は実有に非ざるを知りながら、世間に随いて語るべし。煩悩の過失を観察し解脱を求めん者は、此の真勝義諦の中にてよくよく思惟し修習し、諸の所縁及び妄識に於て、煩悩の繋縛は更に生起せざるなり。