大庵老和尚の法語集:臨終の看護
第八識が臨終に際して離れるとき、その苦しみは筆舌に尽くしがたい。ほとんどの人は生に執着し、死を恐れる。この世を去りたくなく、あと数日でも生きたいと願うが、やがて行かざるを得ない。この死の苦しみは、生きたまま亀の甲羅を引き剥がされるようなものである——亀がまだ生きているうちに殻を引き剥がされる——これが死苦であり、八苦の一つである。
第八識が臨終に際して離れるとき、その苦しみは筆舌に尽くしがたい。ほとんどの人は生に執着し、死を恐れる。この世を去りたくなく、あと数日でも生きたいと願うが、やがて行かざるを得ない。この死の苦しみは、生きたまま亀の甲羅を引き剥がされるようなものである——亀がまだ生きているうちに殻を引き剥がされる——これが死苦であり、八苦の一つである。
臨終の時、業に縛られた凡夫は無量の煩悩の種子と業種を携えている。もし仏光に照らされれば、これらの業種は表面に浮かび上がってこない。執着がなく想念に迷いがないときには、深い禅定の寂静の境地に入ると言われる所以である。この動揺しない状態は、仏の光明と加持・護念によるものである。
悪業の重い人は臨終にさまざまな悪相を見るが、善業の多い人は清浄な境地を観じてより安らか平静に往く。臨終において因果がありのまま露わになるのはこのためであり、それは人生のあらゆる行いの業力の総和にほかならない。
臨終の瞬間は最も危険で、迷いの最も深い時である。第六意識が失われて無意識の状態に陥り、アラーヤ識(蔵識)に蓄えられた業種が混沌と浮かび上がる。この生死の岐路において、たとい日頃から精進して修行していたとしても、ほとんどの人には自分の心を安定させる力はない。阿弥陀仏が衆生の臨終にこれを迎え導き給うという深甚な誓願を立てられたのは、まさにこのためである。衆生が最も危急の瞬間に、阿弥陀仏は救済に赴かれる。阿弥陀仏が臨終者の前に現れ、その光明が照らして迷妄を払う限り、仏に従って西方極楽浄土に往生することができる。
臨終の看護は現代西洋医学においても重要な分野の一つである。しかし浄土法門はこの実践において最も究竟円満な方法を説く。阿弥陀仏に依拠し、その名号を称えることが、最善の臨終の看護であり、臨終の苦しみに対する最も力強い救済である。一心に仏号を称えれば、必ず安らかにこの世を去ることができる。両親の臨終に際しては、修行の妨げを丁寧に除き、正念を保ち続けられるよう支えていかねばならない。
阿弥陀仏の本願は、衆生の臨終において彼らを迎接し導いてくださることである。業と煩悩に縛られた私たち凡夫にとって、この誓願ははかり知れないほど重要である。この生死の関頭において、自力修行のみでは到底足りないことを知らねばならない。私たちの識は業力に引きずり回されてしまうからである。しかし阿弥陀仏が私たちを迎えに来てくだされば、識は瞬時に蓮台に入り、完全に安穏で、危険にさらされることはない。
助念(じゅねん)とは何か。それは臨終者に正念を保たせるための補助的な修行であり、臨終者本人自身の往生における中心的役割を決して取って代わってはならない。その核心は、臨終者に阿弥陀仏への信心を起こさせ、浄土往生を発願し、仏号を称えさせることにある。臨終者本人と仏力との因縁こそが、浄土往生を可能にするのである。たとい臨終の開導を行うとしても、確実な往生を決定する唯一の要因は、臨終者本人が信心と願いを起こすかどうかにほかならない。だからこそ、臨終の開導はかくも重要なのである。
臨終における助念の方法は、『飭終津梁』に詳しく説かれています。印光大師も『飭終三大要』という論文を著され、助念の交替や開導の方法を述べ、亡くなってから八時間は遺体に触れてはならないと強調されています。助念の最低時間は八時間とされますが、二十四時間連続で行うのが理想です。もちろん、助念の時間が長いほど良いのです。
浄土の行者にとって、家族が臨終を迎えるときは、阿弥陀仏の聖号のみを称えるべきです。『地蔵菩薩本願経』ほかの浄土経を読誦したい場合は、息を引き取る直前までに行って差し支えありません。しかし、まさに命が尽きようとする臨終の重要な瞬間には、浄土の経典に従い、阿弥陀仏の四字の名号のみを称えるべきです。『地蔵菩薩本願経』にも、地蔵菩薩が命終の際に仏名を称えるようお諭めになっていると記されています。
臨終助念において、私たちが心がけるべき要点は何でしょうか。第一に、阿弥陀仏の功徳を詳しく語り聞かせ、臨終者に阿弥陀仏と極楽浄土への信心を起こさせ、往生の願を発起させ、信心と願心を円満に育み、阿弥陀仏との深い因縁を結ばせることです。
助念の最も重要な目標は、臨終者に仏号の不可思議な功徳に対する深い信心を起こさせ、絶え間なく名号を念じ続けるよう導くことです。まだ信心のない者には信心を起こさせ、すでに信心ある者にはその信心を強めます。そうすることで、臨終者が極楽浄土に滞りなく往生できるようにするのです。
臨終の助念は、仏教徒であるか非仏教徒であるか、新たに仏法に触れた人であっても、すべての人にとって利益となります。すでに仏教徒である人々に対しては、過去に立てた誓願を思い出させ、志を失わずに名号を念じ続け、阿弥陀仏が必ずお来迎になられると伝えます。教えに馴染みのない非仏教徒に対しては、法界に慈悲深き阿弥陀仏がおられ、広大な誓願を立てて絶妙な極楽浄土を建立されたこと、名号を称えれば阿弥陀仏が必ず来迎して往生させてくださることを説明します。この話を聞いて、直ちに信心を起こし教えを受け入れ、この世において極楽往生の大業を成就する場合もあるのです。
死刑に直面している人々に対しては、判決が下されたときに阿弥陀仏の慈悲の誓願を伝えれば、十念、あるいはたった一声の称名でも極楽往生できます。銃口が火を噴こうとするその瞬間、「南無阿弥陀仏」と称えれば、極楽往生できるのです。もし刑務所がすべての衆生に最後に法を聞く機会を与えることができれば、その功徳は無量です。
人が亡くなってから、まだ来世に生まれるまでの四十九日間の中陰期において、亡者は常に生前の家族や親族が自分のために功徳を積み、苦しみから救ってくれるよう願っています。四十九日が過ぎれば、自らの業に従って業報を受けることになり、それ以後に家族が仏事を営んでも手遅れとなります。一刻も早く行動すべきです。
在家の仏教徒にとって、臨終者への念仏の助力は功徳を積む貴重な機会です。ぜひ積極的に参加したいものです。 人を助ければ、巡り巡って自分も人に助けられるもの。臨終者への念仏助力は、それ自体が立派な修行の一つです。命の無常を、改めて我々に気づかせてくれる場でもあります。 このような場に身を置けば、普段よりもずっと真剣に、誠実に仏名を唱えることができるでしょう。念仏助力に参加すれば、良いことばかりです。回を重ねるほどに、積まれる功徳も大きくなります。 ただし、この修行を「施したら見返りがある」という取引のように捉えてはいけません。
終末期の指導にあたっては、台本を棒読みし、機械的に進めるだけではいけません。 まず、患者さんの性格や好み、これまでの修行の経緯、死が近づいたときの心の状態、抱えている悩みや障り、信仰に関する疑問、そしてどうすれば信心が深まるか——これらはすべて、患者さんと心を開いて語り合い、慈悲をもって向き合うことで初めて見えてくるものです。 本をぱらぱらとめくって、堅苦しく形式的に経を唱えるだけでは足りません。読み上げた内容が、その方の状況に合っていないことすらあるのです。
往生を願う念仏の助力では、仏名を唱えること以外の修行や方法を持ち込んではいけません。なぜでしょうか。 浄土に往生する根本的な因は、信心と誓願、そして常に仏名を唱えることだからです。 念仏助力の目的は何かというと、臨終者が往生するための正しい念を失わず、浄土に生まれたいという願いを保てるように手助けすることです。
阿弥陀仏から見れば、衆生が命を終えるさまざまな様子は、何ら特別なことではありません。阿弥陀仏は、一人ひとりの衆生が命を終える瞬間がいつ訪れるかを正確に知り、そのときに彼らが直面する苦しみや障りをすべて理解し、すべて解決してくださいます。 日々の暮らしの中で、信心と誓願を持って常に仏名を唱え、功徳を積んでいれば、たとえ十回しか唱えられなくても、どうぞ安心してください。命を終えるそのとき、阿弥陀仏は必ずや安全に西方極楽浄土へと導いてくださるのです。
重い悪業を背負った者が、臨終の際に善知識に出会うのは一万にひとつという、極めて稀なことです。これは本当に特別な縁と言えるでしょう。 善根のない者は、命の終わりに身体と精神の苦しみ、地獄の恐ろしさに完全に圧倒されてしまいます。そんな状態で、どうして浄土の道を教えてくれる善知識に出会い、聞いたそばから信じ、真心を込めて念仏を唱えられるというのでしょうか。 このようなことが起こるのは、本当に稀なのです。ですから、私たちは運任せにしたり、このような稀な出来事を当てにしてはいけません。
過去の業も現在の業も、そのまま背負った状態で、浄土に往生することは誰にでも可能なのです。 真心を込めて誠実に仏名を唱え、浄土への往生を願うならば、往生は約束されているのです。これこそが、念仏修行の根本的な特徴なのです。 「仏を念じてその名を唱えさえすれば、今生であれ未来であれ、必ず仏にお会いできる」 たとえ修行がまだ完全でなくても、信心を持ち、浄土への誓願を立てて仏名を唱えるならば、仏に迎えられ、命を終える瞬間に仏を拝み、西方極楽浄土に往生できるのです。あなたが往生する蓮の花が咲けば、仏と直接お会いできるのです。 今生で仏に会うにせよ、未来で会うにせよ、仏にお会いできることは確かです。そうして仏と出会うことで、生と死の輪廻から解脱できるのです。