『観音慈悲林叢書』
著者:弘贊法師
著者:弘贊法師
(『観音慈悲林叢書』の上巻には観音菩薩に関する経典を収録しており、本稿では目録のみを掲げる。)
『観音慈林集』影印本の序
仏法によれば、観世音菩薩は曠劫の昔、正法明如来として既に正覚を成されていた。深き慈悲の大願に駆り立てられ、慈悲の法船の舵を取って転じ、蓮華浄土の阿弥陀如来とこの娑婆世界の釈迦牟尼仏を補佐し、苦海より衆生を済度された。その感応の霊跡は、まことに蔵経堂を満たすほどである。
清の康熙の初年、広東省東部の鼎湖山において禅修していた宏贊禅師は、父母の深恩に報いるために発願し、恭しく観音の聖像を描いて懺法を行った。すると、蓮華を捧げ光明を放つ菩薩の瑞相が現れ、僧俗共にこれを目にした。そこで三蔵を探究し、伝記を考証し、自らの見聞と伝聞に基づいて『観音慈林集』を纂輯し、板木に刻して世に広めた——以来、既に三百余年を経ている。
本集は三巻に分かれる。上巻は経典を収め、まず天台智者大師の『普門品玄義』を冒頭に置き、次いで『悲華経』、『観世音菩薩授記経』、『大悲呪経』、『法華経観世音菩薩普門品』、『首楞厳経』、『華厳経』、『無量寿経』、『十一面観世音神呪経』、『妙荘厳王経』、『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼経』などの抄録を載せている。多くは抄略したものである。中巻と下巻は感応の奇瑞を記す。中巻には、まず閻伽達国の大商人に始まり、晋秦の劉薩何、劉宋の僧宝、魏の王玄謨、斉の僧法琳、梁の宝誌大士、隋の僧慧恭に至るまでの記事七十四条を記す。下巻には、唐の僧曇蔵、宋の僧義寂、元朝の僧夢潤、明朝の劉明仙、清朝の鄧承兆に至るまでの記事八十四条を記す。併せて百五十八条を数え、そのうち六条は感応奇瑞の記事ではなく、重要経論の引用である。
杭州の孫善之老人が所蔵されていた康熙戊申(一六六八)年秦川季出資の木版重印本を、中華民国四十七年戊戌(一九五八)年秋、老人は懇ろに私に貸与くださった。惜しくも老人は八十歳を超えておられ、まもなく台中に於いて遷化された。私はこの稀覯本を宝玉の如く秘蔵し、永く老人を追慕するとともに、仏法を宣揚し照明せんがために写真影印を思い立った。今、時まさに至れり。北平の楽崇慧居士は快くこれを引き受け、大乗精舎印経会の名義を以て出版し、『中華大百科全書』宗教類・仏教学の第二十一条に登載されることとなった。因縁熟し、実にもって吉祥至極の慶事というべきである。
清末より民国初期にかけて、弘贊大師の著に次いで、観世音の感応事蹟のみを記録した著作が相次いで世に出た。周克復『観世音菩薩持驗記』、徐志敬『観音本跡感應頌』、聶雲台『観世音菩薩応驗記』、萬書豪『観世音菩薩奇異録』、尤錫蔭・丁忠友共編『観世音菩薩感應記』、李圓淨『新編観世音感應記』並びに『近編観世音感應記』、いずれも広く流布した。印光大師は李氏の編を称賛して「観音感応の集大成にして、信心称名者の指南たるべきもの」と曰われた。近年には毛凌雲(号体元)居士が大願を新たに発し、当代に於ける感応事蹟を集め『観世音菩薩感應続録』を編し、台湾印経処より公刊した。これらの著者はいずれも資料の出処に注意深く留意し、互いに先人の著作の上に増広精選を重ね、相補い相まってより完備したものとなっている。これこそ聖凡の因縁、観世音に呼びかけるところに必ず顕現するという証左である。この乱世において、菩薩の慈雲はいよいよ広く行き渡り、苦海に沈む衆生に慈悲を垂れ給う。本集が流布すれば、読者はこれを集約し、古を鑑として今を照らし、その利益は量り知れぬものとなろう。「見る者聞く者ともに般若の宝筏に登り、趨く者敬う者ともに無畏の慈林に入る」とあるごとく、何ぞ香華を以て奉獻せざらんや。印刻完成に近づき、ここに出版の顛末を巻頭に略記した。
中華民国六十六年(一九七七年)六月二十五日、瑞金の周邦道、台北市内湖・半壺一碗堂に於いて
『観音慈林集』巻一(目次のみ)
『普門品玄義』(天台智者大師撰)|『妙法蓮華経』|『観世音菩薩得大勢菩薩受記経』|『大悲陀羅尼経』|『観世音菩薩普門品』|『楞厳経』|『華厳経』|『無量寿経』(仏説無量寿経)|『十一面神呪経』(十一面神呪心経)|『荘厳宝王経』(大乗荘厳宝王経)|『請観世音経』(請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼経)|『観音慈林集』巻二
△ 天竺(インド)
○ 大商人
昔、ジャーンゴダ国に、大商人があった。天部の諸天を崇拝し、祭祀を捧げて福を求めた。しかし、仏法を軽んじ、因果の道理を信じていなかった。後に、商人たちの一行を率いて南海を渡る交易の旅に出た。暴風に遭い、道に迷い、波の上を三年間漂流した。食糧は尽き、かろうじて日々の食を得るありさまで、乗船している者たちは明日のことすら思い描くことができなかった。一同は心を一つにして、崇拝する天部の諸天に祈ったが、効なく、神の加護はなかった。突然、切り立つ崖と高く聳える峰をもつ大山が見え、二つの太陽が並んで輝き、まばゆい光があたり一面を満たしていた。商人たちは互いに慰め合った。「この大山にたどり着いたのは幸運だ。ここに上陸して、安らかに暮らそう」。商主が言った。「あれは山ではない。摩竭魚(マカラ)だ。切り立つ崖と高く聳える峰はひれとたてがみ、二つの太陽は目だ」。言葉が終わる前に、風が帆を乱した。商主は仲間に告げた。「聞くところによれば、観音菩薩はいかなる危急の際にも平安と安全をもたらすそうだ。皆さん、誠の心を尽くしてその名を称えよう」。一同は声を合わせて一心に帰依した。大山は消え、二つの太陽も消えた。すると、一人の僧が現れた。静かで泰然とし、錫杖を持ち、空を飛来して彼らを救った。ほどなくして故郷に帰ることができた。それ以来、彼らの法に対する信仰は堅固で揺るぎなかった。揺らぐことなく福徳を求め、塔を建てて供養した。
○ 孤山の奇瑞
中天竺の摩掲陀国、カプートという伽藍から南へ二、三里のところに、孤山が聳えている。山は高く険しく、樹木は鬱蒼とし、珍しい花が咲き、清らかな渓流が崖を伝って谷に流れ落ちている。山の頂上には多くの堂舎と道場があり、精緻に彫られ、美しく飾られている。中央の堂には観音菩薩の像がある。像の身丈は小さいが、霊威は畏敬の念を起こさせる。一手は蓮華を持ち、頂には仏像を戴いている。常より人々が斎戒の誓いを立て、観音菩薩にお目にかかりたいと発願していた。七日、十四日、あるいは一か月経つと、真の霊縁がある者は、観音菩薩が像の中から出現するのを見た。容姿は荘厳で、まばゆい光を放ち、人々を慰め教え導いた。昔、南海の師子国の王が、明け方、鏡を覗くと、自分の姿ではなく、閻浮提の摩掲陀国の多羅林にある小さな山が見え、その上にまさにこの観音菩薩像が立っていた。深く感じ入った王は、複製を作らせ、本物を探し求めて旅立った。この山にたどり着いた時、像は確かに鏡で見たとおりだったので、そこに堂を建て、定期的な供養を始めた。後続の王たちは、彼の遺業を敬い、その堂の傍らに次々と堂塔を建立し、香華・音楽の供養は絶えることがなかった。
○ 清辯法師
南インド、安達羅国の都から少し南へ下ったところに、大きな山洞がある。清辯法師が阿修羅の宮に住して、弥勒菩薩の成道を待っていたのは、まさにこの地であった。法師は広遠な志と深い徳とを具えていた。身なりは数論学派の衣をまとっていたが、心のうちでは龍樹の教えを護っていた。静かに観想するうちに、ふとこう思った。「弥勒菩薩の成道のほか、我が疑いを解いてくれる者はあるまい」。観音菩薩の御像を前に、『随心陀羅尼』を誦じ、まる三年にわたって斎戒して、ただ水だけを飲んだ。観音菩薩は威光赫奕たる相を現じて問われた。「何を求めてかくも精進するのか」。答えて言う、「この身のままで、弥勒菩薩の出現を待ちとう存じます」。菩薩は言われた。「人の身は脆く、世は虚幻である。勝れた善を修めて兜率天に生まれんことを誓うがよい。かの天で礼拝すれば、速やかに弥勒にまみえることができよう」。法師は言った。「我が志は転ずべからず、心は分かたることあたわず」。菩薩は言われた。「その願いならば、安達羅国都の南の山にある洞穴、金剛手菩薩の住処へ行き、『金剛手陀羅尼』を至誠に誦じなさい。必ず願いは叶えられよう」。法師はそこへ行き、誦経を始めた。三年を経て、神が言われた。「何を願ってかくも倦まずに祈るのか」。法師は言った。「この身のままで、弥勒菩薩の出現を待ちとう存じます。観音菩薩のお導きにより、あなた様のもとへ参りました。私の願いの成就は、まさにあなた様のお力次第と存じます」。神は告げた。「この岩の中に阿修羅の宮がある。しかるべく祈請すれば、石壁は開こう。開いたら入り、そこで仏の出現を待て」。法師は問うた。「人目につかぬ隠棲ならば、いかに仏の出現を知ることができましょうか」。神は言われた。「弥勒がこの世に降誕なされる時、私が汝に告げよう」。法師はこれらの教えを受け、ひたすら誦持に専念した。三年を経て、ついに一念の雑念も起こらなかった。芥子に加持して岩壁を打つと、岩壁はぱっと裂け開いた。数十万の人々が集まり来て見物し、我を忘れて見入った。法師は洞口に立って告げた。「私は久しく弥勒菩薩の出現を待つことを祈ってまいりました。聖衆の加護により、私の大願はいまここに成就しました。皆さんもどうかこの中に入って、仏の出現を共に瞻仰してください」。群衆は恐れおののき、誰一人として洞口を跨ごうとはしなかった。きっと毒蛇の巣窟に違いない、自分たちの命が危ういと思ったのである。重ねて勧めるうち、ようやく六人だけが後に従った。法師は残る者たちに別れを告げ、悠然と洞口をくぐった。法師が中に入ってしまうと、岩壁はまた閉じられた。群衆はみな嘆き悔いた。彼の言葉を信じなかったことを、今さらのように悔やんだのである。
○尸利多施陀王
尸利多施陀王は中インド・伽那屋鳩婆国(カーニャクブジャ)の王なり。長子を王増、次子を熙増と曰(い)う。王増は王位を継ぎ、善く政(まつりごと)を治めしが、金耳国の月増王の攻むる所となりぬ。群臣・万民、熙増に父兄の仇(あだ)を報(ほう)いんことを請う。王子曰く「継承の重責は古より重し。即位には熟慮を要す。恒河の岸に観音菩薩の像あり、霊験著(いちじる)しと聞こゆ。我れ此処に至りて教を乞(こ)うべし」と。像の前に至り、断食して祈祷す。其の誠に感じ、菩薩現前して問うて曰く「何を求むるか、かくまで懇切なるは」と。王子曰く「我、不幸のみを知る。慈父は逝き、長兄は殺されぬ。徳浅きと雖(いえど)も、人民の請いに依りて位を継ぎ、父の遺業を弘(ひろ)めんとするなり。我れ年少にして愚かなり。敢えて聖者の教を示さんことを請う」と。菩薩曰く「汝(なんじ)、前世には此の林中に住する比丘なりき。精進懈(おこた)ることなし。是の功徳によりて今の王子に生まる。金耳王は仏法を滅ぼせり。汝、位に嗣ぐに当たりては、之を復興し恢弘すべし。慈悲を以て本とせよ。一切衆生に哀愍の心を懐(いだ)け。遠からず五インド全土を統(す)べん。汝、国祚(こくそ)の久しからんことを欲せば、我言に随え。幽(かす)かに加護あるべし、境に大敵なし。獅子の座に登るなかれ。大王の号を取るなかれ」と。王、教を受け、座を退き、位に即く。ただ「王子」とのみ称(しょう)し、尸利多施陀(漢訳せば「戒を護る者」の義)と号す。躬(みづか)ら節儉を励(はげ)み、功徳善根に身を委ね、睡眠・食膳を忘れ、五天竺に肉食を禁ず。生霊を害する者は、赦すことなく誅殺す。恒河の辺りに、高さ百余尺の塔婆を千余基建立す。五天竺の都鄙・街衢(まちかど)に寺院を設け、飢寒・窮乏の者に飲食・医薬を備(そな)え、与うるに欠くことなし。諸仏の聖跡にはことごとく伽藍を営み、五年に一度、無遮の大斎会を修す。国庫を竭(つ)くして一切に施与す。ただ兵刃のみ施さず。歳ごとに遠方より僧衆を召し、集めて二十一日間、飲水・衣服・臥具・医薬、其の需(もとめ)に応じて給し、其の得失を弁ぜしめ、善きを挙げ、奸邪を糺(ただ)し、才徳あるを進め、不肖を黜(しりぞ)く。清浄の戒行と深遠の徳ある者は、獅子の座に昇らしめ、王自ら其の法を聴受す。戒行浄くして学問浅き者は、敬礼を以て遇するのみ。行履放逸にして汚染明らかなる者は、国境外に放逐し、王、まさに之を見て聞くことを欲せざるなり。隣国小王・侍臣の中、功徳を励み善を求むる者は、善知識として坐を同くせしむ。一日を三時に分かつ——一時は国政、二時は功徳善根の修行。懈怠する所なし。日に長きを覚ゆるのみ。唐の三蔵法師玄奘、具足戒を請うて此の王の招きに応じたまいしなり。
○ 求那跋陀羅三蔵法師
求那跋陀羅(Guṇabhadra)は「功徳と智慧」の義、中印度の人なり。ひたすら学問に勤しみ、三蔵の全体を深く通暁す。劉宋の元嘉十二年、広州に至る。刺史の韋朗、その来着を朝廷に奏聞す。太祖皇帝、使者を遣わして迎え奉らしむ。京師に至り、皇帝と語り合するに、旧き友の再会かのごとき喜悦あり。まずは祇洹寺(Jetavana Monastery)に住す。後に譙王の荊州に鎮せらるるに及び、請じて随行せしめ、新寺に居す。王、『華厳経』及び余の経典の翻訳を請う。然れども求那跋陀羅、宋語に未だ通暁せざるを思い、深く慚じて嘆息す。朝夕に懺悔し、観音を念じ、冥応を祈る。
夢に白衣の人現れ、剣を持ち、切り落としたる頭を提げて近づく。其の人問う、「何をか憂うるか」と。求那跋陀羅、事のすべてを告ぐ。其の人曰く、「憂うることなかれ」と。新しき頭に取り替えて結び付け、曰く、「回らして見よ、痛みや」と。答う、「否」と。求那跋陀羅、忽然として醒め、心に歓喜満ちたり。翌朝、経典を講ずるに、已に宋語に通暁せるを覚る。ここにおいて講説を始めたり。
元嘉の末、譙王、叛逆を謀る。求那跋陀羅、哭泣して曰く、「沙門は此の事に随うべからず」と。然れども王は彼が民に信伏せらるるを知り、強いて同行せしむ。梁山に破らるるに及び、大船、危難に陥り、岸遠く逃遁の道なし。求那跋陀羅、一心に観音を念じ、竹杖を把りて川に投身す。水は膝に及ぶのみ。杖もて探れば、流れは深くして急なり。小き童子、その後ろに現れてその手を執る。振り返りて曰く、「汝は童子のみ、何ぞ能く我を渡さん」と。恍惚の間、十余歩を進みて、忽然として岸上にあり。袈裟を脱ぎて童子を報いんとすれども、顧みるに童子、既に去りぬ。全身に粟を生じ、其れ神力なりと知る。
○ 那連提耶舎三蔵法師
那連提耶舎(Narendrayaśas)三蔵法師、漢訳すれば「尊称」、北印度烏仗那(Uḍḍiyāna)の人なり。年十七にして出家を発心し、ほどなく明師に遇い、正法に専ら勤しむ。出でて遊行し、雪山以北に教化を弘通す。高山に至り、二路あり——人道と鬼道と。人道は険岨にして、鬼道は平坦なり。惑える行者は往往にして鬼道に就き、入ること深うして殺害せらる。いにしえ聖王、岐路に毘沙門天王(Vaiśravaṇa)の石像を置き、その手、人道を指示せり。
那連提耶舎の同行の僧、誤りて鬼道に就く。那連提耶舎これに気づき、観音の神呪(Divine Dhāraṇī)を誦して追走す。百余歩にして及ぶも、僧は已に殺害せらる。彼自らも神呪の威力によりて免かる。進むに山賊に遇う。同じ神呪に専念するに、冥護を蒙り、賊の進むも全く見えざりき。道を東に進み、ついに北斉に至り、天保七年に京師に達す。
○ 三蔵法密(ダルマグプタ) 三蔵法密——中国語では「法密」と訳す——は、元は南インドの羅荼国の出身である。遠方への旅を志し、仲間が六人も加わった。行商人から、広大な中国の地では三宝が盛んであると聞き、一同同じ志を抱いて出発した。目的はただ風俗を眺めるだけでなく、経典を広め、衆生を救済することにあった。 雪山を越え、数々の苦難に遭いながら、南西へと迂回することになった。道は一面の砂漠で、水も草も一滴もなかった。仲間たちは互いの顔を見合わせ、生き延びる望みはないと悟った。運んできた経典や論書をその場に置き、山を登って水を探したが、結局見つからず、疲労はますます募るばかりだった。 法密は観音陀羅尼を一心に唱え続けた。その夜、突然雨が降り出し、干上がっていた身心が蘇った。元の道に戻ろうとしたが、周囲を見渡すと道に迷っており、進むべきか引き返すべきか判断がつかなかった。その時、ただ前へ進もうと決め、ついに瓜州にたどり着いた。長い旅の末、開皇十年十月に首府に到着した。
○ 三蔵不空金剛(アモガヴァジュラ) 三蔵不空金剛は、元は北インドの婆羅門の出身である。南海を航海して羯陵伽国の海辺に差し掛かった時、突然大黒風が巻き起こり、行商人たちは恐怖に慄いた。それぞれが自国の呪法を試して風を鎮めようとしたが、まったく効果がなかった。一同は地にひれ伏し、慈悲をもってお守りくださるよう祈り願った。 すると不空が言った。「私に方法があります、どうかご安心ください」。右手に五鈷の菩提心金剛を握り、左手に『般若波羅蜜経』を携え、観音大願陀羅尼を一度唱えた。するとたちまち風が止み、海は凪いだ。その直後、巨大な鯨が海面から現れ、山のような高波を噴き上げてきた。前よりもはるかに脅威だった。 行商人たちは死を覚悟したが、不空は再び同じ儀式を執り行い、恵師に『海龍王経』を読経するよう命じた。するとたちまち危難は去った。
○ 三蔵善無畏(シュバカラシンハ) 三蔵善無畏は、元は中インドの出身である。大干ばつが起こった時、人々から雨乞いを請われた。間もなく、観音が太陽の光輪の中に立ち、宝瓶に入れた水を大地に注ぐ姿が現れた。その場にいた人々は、かつて見たこともない奇蹟を目の当たりにして、喜びに沸いた。
△晋・秦
○ 并州に住む劉沙河は、狩猟を生業としていた。太康二年、彼は突如亡くなった。男が二人現れ、彼を捕らえて西北へ連れて行き、やがて冥府へと着いた。そこにいたのは、黄金色の光をまとった聖者だった。近くにいた人々が言った。「あれは観音大菩薩です」。観音は沙河に告げた。「あなたの罪は冥府に入るに足るものだが、今日は許し、生き返ってもよい。五つの地――洛陽、臨淄、建業、茂印、成都――を訪ねなさい。そこには阿育王が建てた塔が残っている。その前で懺悔し、礼拝しなさい」。
○ 慧謙禅師は、俗姓を皇甫といい、北地の出身だった。若くして出家し、戒律を厳しく守り、志は揺らぐことがなかった。廬山に十数年住み、晋の義熙の初年、山陰の嘉祥寺へ移った。自らを修行して人を導き、苦難に耐えて僧侶たちを率いた。新しい経典が届くたびに、必ず写経を行い、説法し、その教えを解説した。それから五年ほど経ったある日、彼は突然病に倒れた。しばらく寝たきりで命の終わりが近いことを悟り、心を浄土に定めて観音に熱心に祈った。
山陰の北寺には、静厳という名の老尼がいた。年を重ねて徳が深く、戒律を厳しく守る尼だった。ある夜、彼女は観音が西の城門から入ってくる夢を見た。姿は瑞兆に満ち、その光は月日よりもまばゆかった。幡や幢、旗や花の天蓋はすべて七宝で飾られていた。観音を見るなり、彼女はすぐに礼拝して尋ねた。「失礼ですが、大菩薩はどちらへお出かけになるのですか」。観音は答えた。「私は嘉祥寺へ、慧謙師を迎えに行くところだ」。そのすぐ後、慧謙は亡くなった。病は重く長引いていたが、その表情は普段と変わらず穏やかだった。その場にいた人々は皆、いつまでも残り、やがて消えていくような芳香に気づいた。慧謙自身が最期が来ることを悟っており、皆がこれらの瑞兆を目撃したため、僧侶も俗人もこれを聞いた人は皆、深く感嘆した。
○ 朱法純は山陰の咸義寺の住職だった。苦行を実践し、徳が高く、古くから伝わる『維摩経』を暗誦するのが得意だった。晋の元興のころ、彼は寺の修繕用の木材を買いに蓮社へ出かけた。夕暮れに帰途につくと、湖上で嵐に遭った。船は小さかったので、法純は観音に一心にすがり、絶えず経を唱え続けた。すると、大きな流れのままの船が見え、それに乗り移って助かった。陸に上がってみると、その船には所有者がおらず、あっという間に消えていた。僧侶も俗人も、この不思議な出来事に驚き、称えた。
○ 法喬法師は中山の出身だった。幼いころから経を唱えるのが好きだったが、声が弱く、いつも自分の読み方がぎこちないことを悩んでいた。そこで七日七夜、斎戒して懺悔し、観音に礼拝して早く霊験があらわれるように祈った。同門の僧たちが必死に止めたが、彼は「決して揺らがない」と誓った。七日目の夜、彼は喉がすっと開くのを感じた。水を求めて喉を洗い、「霊験が現れた」と言った。その後、彼は経の三節を旋律に乗せて唱えた。その声は一里以上も遠くまで響き渡った。遠く近くの人々が驚いて、次々と聞きに集まった。その後、彼は数十万語もの経を唱え続け、昼も夜も休みなく声を出して読経した。その声は哀愁を帯びて美しく、天に届くかのようだった。彼は九十歳まで生き、声が変わることはなかった。
○ 道周と号する比丘は、俗姓関、朔方会理の出身であった。龍興寺孔雀王院に出家し、戒体を得、心を修めて月の如く清らかになった。賀蘭山の百草谷に入り、念仏の称名を誓い修したところ、枯れ泉が再び湧き、霊蛇が水を泳ぐようになった。その後、法座に登って説法をなし、自らの血を以て千手千眼観音菩薩の立像を描いた。旱魃が起きるたびに、斎戒して目を閉じ、雨が降り民の苦しみが救われるまで食を断つと誓った。
中和二年、関内の乱を聞き、城の南の凝定院に赴いた。塔の下で左の前腕を切り落とし、これを大慈大悲観音菩薩の像に焼き上げて供養し、中原と北方辺境を荒らす戦乱が早く終わり、兵器が収まることを祈った。祈りを終えた途端、雷が轟き、風が吹き荒れ、大雨が降り注いだ。かつて民のために雨を祈り左の耳を切り落としたこともあり、またある時は雪を祈り七日間断食して、いずれも願いは叶った。七十八歳で世を去り、遺体は深い禅定に入ったかのごとく朽ちなかったため、漆と麻布を以て塗られ包まれた。
○ 晋の興寧年間の僧、霊山の朱法義は仏典に通じ、ことに法華経を深く学び、常に百人余りの弟子を抱えていた。咸安二年、突然心気の病に侵された。たえず観音を念じていると、ある夜、夢に誰かが己の腹を開き腸を洗うのを見た。目が覚めると、病はすでに癒えていた。傅亮がかつてこう言った。「亡父は義公と親交があった。義公が観音の霊験を語るのを聞くたびに、家中の老いも若きも、みな畏れ慎んで静まり返った」。
○ 開達(またの名を恵達)という比丘。隆安二年、山の稜に登り甘草の根を採っていたところを羌人に捕らえられた。当時は大飢饉の最中で、羌人と胡人が互いに人を食らう惨状を呈していた。羌人らは開達を囲いの中に入れ、食らおうとしていた。彼の前には十人余りがすでに囚われており、羌人らは昼夜問わず彼らを煮殺していたが、開達だけが残っていた。捕らえられて以来、彼はひたすら観音経を唱え続け、その信心を少しも懈かさなかった。朝が来て彼が食される番となった、まさに夜明けのその時、一頭の大きな虎が突然羌人らに躍りかかり、激しく吼え立てた。羌人らは恐れをなして逃げ散った。虎は囲いの木の柵を噛み砕き、人がようやく通り抜けられるほどの隙間を開けると、ゆっくりと立ち去った。開達は夜通し歩き、昼は身を潜めて逃れ続け、ついに安全な土地に至った。
○ 郭玄之は太原の人。義熙四年、涼州刺史楊思平の幕僚として仕えていた。楊思平は范元之らを独断で殺害した罪に問われ、玄之も連座して獄に下された。玄之は一意専心に観音菩薩を念じた。ある夕べ寝ようとしていたまさにその時、突然菩薩の光明が獄舎いっぱいに満ちるのを見た。それを仰ぎ見て礼拝し、祈り、誓願を込めると、その光景はしばらく留まってから消え去った。程なくして玄之のみ恩赦に預かった。出獄後、自らの見た光景に基づき観音像を造らせ、禅堂を建てた。後に零陵の衡陽で在官のまま世を去った。
○ 潘道秀は武都の出身である。二十歳あまりで軍に従い、北方の征伐に加わった。軍がわずかに敗れると、道秀は逃げたが捕らえられた。あちこちに売られて奴隷とされ、異国に囚われて帰ることもできなかった。幼い頃から仏法を信じ、常に観音の御名を深く念じた。夢にしばしば観音をお見かけした。その後、南へ逃れたが道に迷った。深い山中、突然観音の真のお姿を拝した。まるで巡行の像のようであった。礼拝し終わるや否や、自分がどこにいるかわからなくなったが、やがて道を見つけ、郷里に帰ることができた。その後ますます精進し、六十歳に近い齢で亡くなった。
○ 欒苟の出身は不明である。幼い頃から仏法を信じ、できる限りの善行を行い、扶平の県令となった。以前に従軍して敗れた。船に火が燃え移り、賊が迫り、川の中で立ち往生して、風波がたいへん激しかった。苟は死ぬに違いないと恐れたが、それでもなお観音の御名を称えた。ふと一人の人が川の中に立っているのが見えた。水はその人の腰までしか届いていない。苟はきっと救われたのだと悟った。火と賊がまさに追ってくるところ、苟はその人に向かって水に身を投げ出した。体が浮き上がり、足元にしっかりした地面を感じた。ほどなく本隊が敗れた兵士を救うために船を遣わし、苟は救助された。
○ 法智は、まだ在家であった頃、ひとりで広い沼に入った。すると四方から火が燃え広がり、逃げる道がなくなった。法智は礼拝し、観音の御名を念じた。その志はたいへん切実であった。火が通り過ぎて、沼の草はことごとく灰になったが、法智の立っている場所だけ、ちょうど一人分の広さで火が及ばなかった。それ以来、法智は仏法を尊んだ。その後、姚興のもとで兵として仕えた。軍が退却したとき、馬を失って敵の背後に孤立した。溝の茨の中に身を隠したが、首がかくれるほどであった。再び観音を念じ、その志はいよいよ揺るがなかった。川の向こう岸の者が後軍に叫んで、場所を教えて殺させようとした。しかし、どんなに丹念に探しても彼を見つけられず、逃げ延びた。その後、出家した。
○ 南宮子敖は始平の人である。新平城に駐屯していたとき、胡族の将である長楽公に城を陥とされた。数千の民がことごとく殺された。子敖はきっと死ぬと思ったが、それでも一心に観音を念じた。刃が降り注ぎ、四方から上下に次々と襲いかかったが、刑を行う者の手足の力が突然抜け、力が入らなかった。長楽公が自らその場に臨み、怪しんで理由を問うた。子敖はふいに「私は馬の鞍を作ることができます」と言った。長楽公は彼を釈放した。子敖自身、なぜそうしたのかわからなかった。逃げ延びた後、観音の小さな像を作り、香箱に入れて、常に頭に戴いて持ち歩いた。
○ 孫道得は益州の人である。道士道に従い、五十歳を過ぎても子宝に恵まれなかった。仏寺のそばに住んでおり、景平年間に沙門が言った。「もし本当に子を望むなら、観音経を読み、恭敬に礼拝せよ。そうすれば望みがあるだろう」と。道得は道教を捨てて、専ら観音を信じた。数日たたないうちに、夢の中で奇瑞があり、妻は遂に身ごもって子を産んだ。
○ 劉杜平は聊城の出身であった。故郷では千余りの家が大法に帰依し、仏像を造立して僧尼に供養を捧げていた。異民族の支配者ムウェイが政権を握った際、県から逃げ出す者が出た。ムウェイは激怒し、街の者を皆殺しにしようとした。人々は恐れおののき、もはや助からぬものと覚悟した。杜平は心を清め、皆を率いて観音菩薩にすがった。間もなく、天から何かが降りてきて家の柱に巻き付いているのが見えた。驚いて確かめると、それは『観音経』であった。人に読み上げさせると、ムウェイは大いに喜び、虐殺を取りやめた。こうして街はことごとく救われた。
○ 竇川は河内の出身であった。永和年間、并州刺史の高昌と冀州刺史の呂虎はそれぞれ私兵を率いて対立していた。川は高昌の配下に仕えていた。呂虎が騎兵を放って襲撃した際、川は六七人の仲間とともに捕えられた。一行は一つの牢に閉じ込められ、重い鎖と足かせをつけられ、数日のうちに処刑されることになっていた。当時、呂虎の陣営に滞在していた僧の智道山は、以前から川と面識があった。川が捕えられたと聞き、牢を訪れて戸越しに語りかけた。
川は言った。「今は絶体絶命、命はあと数時間というところだ。何とか救う術はないものか」。道山は答えた。「観音菩薩に一心に帰依すれば、きっとお導きがあるだろう」。川は以前から観音菩薩の名を聞き知っていた。道山の言葉を胸に刻み、三日三晩、昼夜を問わず菩薩を念じ続け、全身全霊で身を委ねた。ふと鎖を見ると、いつもより緩いことに気づいた。手で押してみると、鎖はするりと体から外れた。川は心から祈った。「慈悲によって私の鎖は解けた。だが仲間たちはまだ縛られたままだ。彼らを置いて逃げることはできない。観音菩薩の力はすべての衆生を救うという。どうか私たち一同が逃れられるように」。そう祈って仲間たちの足かせに手をかけると、見えない刃で切り裂いたように次々と外れていった。一同は牢の戸を開けて外に出たが、番兵は誰も気づかなかった。塀を乗り越えて逃げた。夜明けが間近に迫っていた。四五里歩いて夜が明け、茂みに身を隠した。まもなく囚人の逃走に気づいた番兵たちが四方に騎馬を繰り出し、草を焼き払い、林を打ち叩いて捜索したが、川たちが隠れている一町ほどの地面には一度も近づかなかった。こうして命からがら逃げ延びた。故郷の人々はこの話を聞いて信仰を深め、こぞって仏法に帰依した。後日、道山は長江を渡り、この一件の一部始終を謝居士に語った。
○ 朱長叔の祖先は西域の出身であった。家は代々の富豪で、長叔もまた大きな福徳に恵まれていた。元康年間に洛陽に移り住み、深く心を込めて法を修め、とりわけ『観音経』の読誦に打ち込んでいた。ある日、隣家で火事が起こった。長叔の家は茅葺きで、風下にあったため、炎はすでに目前まで迫っていた。だが彼はひたすら一心に経を唱え続けた。火は隣家を次々と焼き尽くしたが、突然風向きが変わり、炎は彼の家の玄関前でぴたりと止まった。人々はみなこれを奇跡と思った。
近隣の無謀な若者四、五人が彼を嘲った。「風が都合よく変わっただけだ。どこが神聖だというのか。乾いた夕暮れに屋根に火を放ってみよう。燃えなければ、その時はじめて信じよう」。大旱魃の折り、彼らは密かに松明の束を持って屋根めがけて投げつけた。三度投げ、三度消えた。恐れて逃げ帰り、翌朝、彼らは一緒に常処のもとを訪れ、自分たちの仕打ちを告白して、頭を垂れて詫びた。常処は答えた。「私には何の力もありません。ただ観音の御名を称えていただけです。守ってくださったのは観音の慈悲なのです。あなた方は心を清め、信仰に帰するだけでよいのです」。その後、近隣の者や村人一同は、彼を畏れ敬うようになった。
○ 呂宋、字は茂高、兗州の人。石峰に住んだ。県の南を流れる川は、両岸が切り立ち、流れが急で、縄のように曲がりくねっていた。川底には巨石が散らばり、昼間の旅人でさえ恐れて通った。呂宋が語ったところでは、彼の父が一度この川を旅していて、家から十余里のところで日が暮れ、嵐が襲ってきた。真っ暗で、東も西も分からなかった。必ず転覆して溺れると思った父は、観音にひたすら心を向け、御名を唱えながら進んでいった。ほどなく岸辺に光が現れた。まるで人が松明を持っているように、川を照らし、父は家への道を見出すことができた。その光は船の前方、約十歩先を、最後まで照らし続けた。呂宋は後にこの話を席嘉賓に語って聞かせた。
○ 徐栄は琅邪の人。一度東陽に赴き、帰途に鼎山を通り過ぎた。船頭は道に詳しくなく、誤って渦の中に漕ぎ入れた。船は波間で激しく揺れ、沈むばかりであった。栄には他に手段がなく、心を尽くして観音に呼びかけた。たちまち、何十もの手が船を上へ引き揚げるかのようであり――船は渦から跳ね出し、再び静かな水面に戻った。日は沈み、空は暗く、風雨は激しかった。どちらへ向かうべきか分からなかった。波はさらに高くうねったが、栄は経を唱え続けた。すると山頂に燃えるような光が見えた。彼はその光に向かって漕ぎ寄せ、岸に辿り着いた。船は無事であった。上陸した後、光は消えていた。仲間たちは不思議に思い、翌朝、土地の人々に「昨夜、山上の火事は何だったのか」と尋ねた。人々は驚いた。「昨夜のような風雨では、どうして火事があろう。我々には誰も見えなかった」。それが神の光であったと知れた。
○ 張沖は京兆杜陵の人。幼くして仏法に従っていた。晋の太元の世、苻堅が破れた後、長安の平民一千余戸が晋に降伏するため南へ逃れた。彼らは国境の守備隊に捕らえられ、流賊とみなされた。守備隊は男を殺し、女と子を捕虜とした。沖と他の五人の男には手枷足枷がかけられた。穴が掘られ、彼らは足首まで埋められ、一人ひとり二十歩の間隔で置かれた。翌日は、馬上から射って戯れにするとのことであった。沖には逃れる道がなかった。心を清め、ひたすら観音の御名を唱えることに専念した。真夜中、突然枷が砕け散り、彼の手足から落ちた。彼は走って逃げた。
沖の足は傷ついていた。路上のある寺院を通りかかったとき、彼は再び観音に呼びかけ、深く敬虔に礼拝した。観音像の前に石を置いて誓いを立てた。「私は東の河を渡り、晋の天子にこの冤罪を訴えて、これらの無実の人々のために正義を求め、妻と子を救いたい。もし願いが叶うならば、この石が二つに裂けてほしい」。拝礼を終えると同時に、石は裂けた。沖は都へ赴き、不義の全容を上奏し、天子は彼らを全て赦免した。僧の智生はこれを目の当たりにした。
○ 三蔵法師曇無竭は、法顕らがみずから仏の国へ赴いたと聞き、心を動かされ、命を懸けてもその志を遂げんと誓った。永和元年、曇朗・僧猛ら二十五人の同志を集め、長安を出発して西の流砂の彼方へ向かった。頭上には鳥一つ飛ばず、地上には獣の気配すらなく、四方はただ茫漠たる虚無のみ、進むべき方角すら知れぬありさまであった。日の動きをたよりとし、人骨を目印として道を進めた。
葱嶺に及ぶ。夏冬を問わず雪に埋もれ、毒龍は毒を吐き、風雨砂礫が激しく彼らを襲った。まず雪山を一つ越えた。そのふもとには大河あり、流ること矢の如し。両岸の崖の間に縄を渡して橋となし、十人ずつ渡らせた。一隊が対岸に達すれば狼煙を上げた。後の者は煙を見て渡れるを知り進む。煙が久しく上がらねば、暴風にて縄の切れたるなり、渡河の者みな河中に没したるなり。
さらに雪山を一つ越えんとす。その崖は切り立ち滑らかで、足の踏み場もなし。古き木楔を岩壁に打ち込み、穴を対にして穿つ。人は四つの楔を握り、下のを引き抜き、上に達しつつ、次々と手繰り寄せ、まる三日を経てようやく平地に出でたり。人数を検べるに、十二人すでに失せていた。荒涼たる空漠の地をへて中天竺に向かい、唯一の食は氷砂糖のみ。残る十三人のうち、さらに八人死せり。曇無竭はいくたびも死線を潜りつつも、観音を心より離すことはなかった。
舎衛城にて野象の群れに遇う。観音に帰依したるに、忽然として獅子出現し、象は驚きて逃げ散った。恒河にて犀の群れに会う。ここにまた観音に祈るに、大鷲が舞い降り、犀を恐れ散らした。その後、南天竺に至り、船に乗りて広州に渡る。[文字不明瞭]の経典を持ち帰り、帰郷せり。
○ 比丘尼明幹、俗姓は朱、高平の人なり。その家代々大法に帰依す。賊に捕らわれ、妻とせんとせらるるも、種々の拷問を加えられつつも、死すとも屈せじと誓えり。辺境に流されて羊を牧らしめらること十年、故郷への思慕はいよいよ深く、帰る術もなかりき。三宝を常に心内に保ち、出家を願いやまざりき。ある日、僧に遇い、五戒を請い、観音経を授けられ学ぶ。昼夜絶え間なく誦し、ただ故郷に帰りて五重の塔を建立せんことを祈るのみ。
思慕の情いよいよ堪え難く、東方へ逃れ出す。道のりも分からず、昼夜休まず歩みしに、山中に入り込む。数歩先に縞の虎を見たり。初めは恐れにて立ち竦みしが、志いよいよ堅く、虎にしたがいて行くこと数旬、ついに青州に至る。村に入らんとするや、虎忽然として消え失せたり。
○ 比丘尼令宗、俗姓は満、高平金郷の人なり。幼少より純信あり、郷里その徳を称う。兵乱家破れ、賊に追い立てらる。三宝に身を委ね、至誠に「仏・法・僧」と唱え、『普門品』を誦して放免を乞う——遂に赦さる。南行の途、冀州を出でてより再び賊に追わる。枯れ木に攀じ登り、一心に観音の聖号を唱う。追手地上を掃索すれども、終に仰ぎ見ず、遂に搜し得ずして散ず。令宗下りて去る。
夕暮れに孟津に到るも、渡すべき船なし。惶れ懼れて倍加の至誠を竭して祈るに、忽ち白鹿現ず——何処より来たりしか知らず——水中に歩み入る。令宗これに従って渡るに、衣濡れず、陸を履むがごとく家に到る。即ち出家し、深く勤修す。経を読むに、その深旨を徹し、甚深の禅定に入る。晋の孝武帝聞こしめし、書を遺して問わす。七十五にして寂す。
○ 蓋虎、山陽の人なり。囚われて死刑を処せらる。観音の聖号を昼夜三日間、一念の散乱なく唱う。久しからずして観音放光して照らし、桎梏自ずから落ち、獄門開く。光に従って二十里を行き、光すなわち滅す。
○ 裴安期、北より南に帰り来たる人なり。渡るべき河に至るも、後より追騎迫り、死まさに一髪の隔たりなり。観音の名を呼ぶに、白狼忽ち現ず。これに攀じ附着きて、一躍にして南岸に至る、狼すなわち姿を消す。北岸の騎士これを見て、嘆息して已まず。
○ 徐義、高陸の人なり。少より精虔にして、前秦の苻堅に仕えて史官たり。苻堅の末年、兵起こり、徐義賊に擒えられ、殺されんとす。賊その足を地に埋め、髪を樹の枝に織り交ぜて繋ぐ。其の夜、観音に専念す。久しからずして眠りに就く、夢中に人現じて曰く、「汝いま急なり、奈何ぞ眠るを得んや」と。徐義驚きて醒むるに、看守みな疲れ伏す。手を挣ち出で、足を解き去りて逃ぐ。百余歩にして草叢の中に潜む。聞くに搜索の者周を巡り、火炬星の如く、草叢を繞りめぐると雖も、竟にこれを見ず。旦にして賊散ず、徐義鄴に帰り、かくして死を免かる。
○ 畢蘭、東平の人なり。少より仏法に帰依し、慕容垂の北伐に従い、敵に擒わる。一騎にて逃ぐるに、追騎将に至らんとし、観音に竭誠呼号して救わる。後に深山に迷い、路なし。再び観音に念ず。半夜に近く、法衣を纏い、鉢を手にしたる僧現じて、道を指示す。畢蘭再び路を得、安全に家に還る。
△ 劉宋
○ 釈僧宝、京兆の人。祇洹寺に住し、経を講じて倦むことなし。其の教えは尽きることなく流る。陳郡の謝霊運、其の名声を聞き、訪ねたり。僧宝に会して、一層感じ入り深く敬慕せり。或人問うて曰く、「謝公はいかなる人ぞ」と。僧宝答えて曰く、「霊運は富には余りあれども、洞察は及ばず。その命数、逃れ得ざるを恐る」と。ある時、道を歩みつつ、六人の縛られたる盗賊に出遇えり。彼らに法を説き、観音を称うることを勧めたり。盗賊たち、切迫せる危険に直面し、切なる誠を以て念じたり。間もなく、護送者ども酒に酔い倒れ、囚人たちは鎖を解き逃れたり。
○ 釈道旺、姓は潘、長楽の人。幼くして叔父に従い都に至り、十三歳にして廬山の道遠先生の許にて出家せり。経律を深く研鑽し、特に涅槃経に通暁せり。ある時、涼州を過ぎしに、羌族の盗賊に囲まれ、衣鉢を奪われんとせり。道旺と弟子数人、共に一心に観音を称えんことを誓えり。久しからずして、雲霧の覆うがごとく彼らを覆えり。盗賊たち、至る所尋ね求めたれども遂に見出さず、免れ得たり。
○ 僧洪、豫州の人。都の瓦官寺に住す。幼より身を慎しみ、行い清浄なりき。後に縁ある者と共に高さ十六尺の青銅仏像を鋳造せり。鋳造成りて、鋳型未だ開かざるに、晋末の厳しき銅禁行はれ、死罪とせらる。当時、宋の武帝は東晋の宰相たりし時、僧洪は銅禁に違反せりとして相府に下獄せらる。ただ観音経を誦し、自らが鋳造せる像に心をつなぐほか能はざりき。其の夜、夢に像来たり、其の手を頭に載せ、問うて曰く、「怖ろしかるや」と。僧洪答えて曰く、「必ず死に至るを知る」と。像曰く、「憂るること勿れ」と。像の胸に方一尺ばかりの箇所、煮えたるかのごとく焼け爛れしを見たり。執行の当日、府の監官まさに臨まんとするに、牡牛驚きて走り、刑車を破壊し、日を移せり。程なく彭城より令旨至り、未だ執行せられざる僧洪と名のつく囚人らは皆赦免せよとのことなり。釈放せられ、寺に復し、鋳型を開くに、像の胸はまことに煮えたるかのごとく焼け爛れてありたり。
○ 道睺、俗姓は馬、扶風の人。初め道懿の弟子として出家せり。道懿病ありし時、道睺ら四人をして河南の霍山に鍾乳を採らしめたり。洞に入ること数里にして水上の木橋を渡らんとせしに、橋水に入り三人溺死せり。其の炬燭もまた尽き、道睺、生存の道なし。日ごろ法華経を誦し、其の功徳により観音を心に念じたり。久しからずして、蛍火の如き光、前方に微かなり。之を追えども及ばず、然れどもその導きによりて洞を出で得たり。此の後、禅の修行を深め、行い愈々精しくなりき。後に同門とともに南の都に至り、時の風俗を観察せり。ある夜、凍れる河を徒歩にて渡らんとせしに、渡る中氷砕けて三人溺死せり。道睺、また観音に真心を以て帰依せり。足下に堅き物を感じ、前方に紅光を見、其の光に乗じて岸に至れり。
○ 呉興の邵欣。信心深い修行者であったが、ある時傷寒を患い、誰一人訪れてくれる者がなかった。涙ながらに観音に祈った。すると忽然と僧が姿を現し、悲度和尚の弟子と名乗った。「案ずるな。私の師がすぐに参られよう」と。邵欣が申し上げた。「悲度和尚はすでに入滅されておりますのに、どうして参られましょうか」と。僧は言った。「参ることがどうして叶わぬことがあろうか」。袈裟と帽子のひだから一合ほどの薬粉を取り出し、邵欣に服用させたところ、病はたちどころに消え失せた。
○ 新の張興。仏法に帰依する者であり、かつて僧融・曇猗の両僧より八戒を受けたことがあった。張興はかつて強盗事件に連座し、逃れたものの、その妻は捕らえられて獄に下され、日ごとに打ち据えられた。県に火災が起こった際、囚人たちは道端に縛られたままとなっていた。僧融・曇猗がたまたま通りかかったところ、彼の妻が二人に叫んだ。「尊き御方たち、私をお救いくださいませませんか」。僧融が答えた。「私の力は微々たるもの。為す術もございません。ただ観音をたゆみなく呼び求めなさい。そうすればおそらく助かるでしょう」。婦人は昼夜ひたすら祈り、十日余りに及んだ。ある夜、夢に僧が現れ、足を押しつけて「さあ、起きよ、起きよ、立ち上がれ」と告げた。驚いて目が覚めると、手かせ・足かせ・首かせはすべてひとりでに解けていた。戸口へ駆け寄ったが、戸はなおも閉ざされ、衛士も目を光らせており、抜け出す術がなかった。発見されるのを恐れ、再び枷をはめ、やがてまた眠りに落ちた。再び僧が現れて言った。「戸は今や開いているぞ」。彼女は目を覚まして逃げ出したが、衛士は変わらず眠り続けていた。夜はまことに暗かった。数里も行ったところで、ふと人と出くわした。恐れおののいて地に倒れ伏した。声をかけてみると、夫であることがわかった。二人は互いに助け起こし、喜びにあふれ、感極まりながら、その夜は曇猗のもとに身を寄せ、この艱難を逃れた。これは劉宋の元嘉年間の初期の出来事である。
○ 王琰。幼少の頃、交趾(現代のベトナム北部)に住んでいたが、そこに徳行高く気高い僧がいた。僧は彼に五戒を授け、観音の金像一躯を与えて守らせた。像の様式は後世のものとは趣を異にしていたが、さほど古いものではなかった。王琰はそれを都に持ち帰ったが、彼はまだ七八歳の子供であった。弟の二人と心を尽くして奉仕し、ひた向きに倦むことがなかった。後年、粗末な家屋を改築した際、像を安置すべき殿堂がなかったので、彼は像を都の南澗寺に寄託した。当時、人々は銭貨の鋳造にいそしんでおり、金属を求めて仏像を盗み、熔かす者があとを絶たなかった。像が寺に数ヶ月留まっていたある日の午後、王琰が昼寝をしていると、夢に像が自分の座席の片隅に立っているのが見えた。彼はこれを不思議な前兆と感じた。すでに夕暮れ時であったので、急いで像を迎えに出向いた。その夜、南澗寺の他の十余りの像はすべて盗み出され、失われてしまった。それからしばらく後の夕暮れ、観音の像は三尺ほどの範囲を照らす瑞光を放った。その金色に輝く光は比類なく、目を奪うばかりであった。王琰、彼の兄弟たち、従者たち、合わせて十余人、ともにこの光景を目撃した。これは劉宋の大明七年の秋の出来事である。
○ 傅萬壽は平昌の人なり。元嘉十九年、廣陵の魏府に參軍たり。任期滿ちて郡に歸らんとし、四更(丑の刻、午前一〜三時頃)に河を渡る。始めは長波靜かにしが、船出して半ばに至り、箭の如き風起こり、暗極めて方向を知らず。傅萬壽、平生虔しく觀音を念じ、息まず讀誦するに、忽ち北岸に燈火あり、村の爨火の如し。喜び相謂ひて曰く、「是れ必ず歐陽の烽火ならん」と。船を其の方へ向かふに、曙に至らずして岸に著く。其處の人に問ふに、皆な昨夜火を焚かずと言ふ。是に於て始めて菩薩の威神力なることを悟り、併せて素齋を設けて報謝せり。
○ 吳郡の顧邁、修行精虔の人なり。元嘉十九年、京より廣陵に歸り、石城を出づ。湖上に逆風起こり息まず。舟人等強ひて進むも、中流に至りて波高し。顧邁、小船に獨り乗り、危うきこと救ふなし。『觀世音經』を讀むこと十遍ばかりにして、風に緩み、波漸く小となる。中流に於いて復た異香來たりて屢々斷へず。彼獨り之に感じ、讀誦息まず、遂に安穩に渡ることを得たり。
○ 京の中曹寺の僧慧和なり。劉宋の義嘉の變に、慧和猶ほ白衣にして劉胡の幕下に屬す。胡、數十人の兵を遣はして東の斥候と爲し、慧和其の中に在りたり。闕渚に至り、西行きの官軍に遇ふ。斥候散じ、各々沼澤草莽の中に奔る。慧和、衣を褰め、簍を負ひ、農夫の如くす。行巡の者、散兵を捕ふるに、彼を顧みて疑ひ、問ふ。其の答へ曖昧なるにより、拷問せられ、將に刃を加へられんとす。慧和、逃れつつ『觀世音經』を讀誦し、刑至るに及びて祈愈々懇切なり。兵、刃を三たび擧ぐ、三たび刃折れて地に落つ。兵等驚き怪しみ、遂に放ち去る。慧和、其の後家を出で、沙門となり、遂に教法を圓通しぬ。
○ 韓暉、籍貫詳かならず。枝江に居たり。其の叔父罪に陷り、韓暉亦た連坐し、二人共に郡獄に投ぜらる。體に鐵木釘を穿たれ、桎梏を嚴かにす。韓暉、救ふなく、唯だ死を待つ。久しく佛法に歸依し、屢々『觀世音經』を讀誦す。晝夜讀誦し、數百遍を讀みて、夕刻に及び、忽ち桎梏自から鳴り、磚瓦窯中に爆するが如し。視れば、鎖既に落ちて地に在り。獄吏の己が破りしと思はむことを恐れ、卽ちに之を告ぐ。吏等驚き、仍て鐵葉を以て鎖を釘付けにす。韓暉讀誦すること前の如し。明日又た鎖鳴り落ちて前の如し。吏等上官に告ぐ。上官、鎖を熟視し、奇瑞と信じて、卽ちに之を釋く。韓暉は今に尚ほ生あり、其の修行精進、實に以て稱すべきなり。
○益陽県の功曹、彭子喬。賊の皇太子沈文龍が建元と号した元年、罪が彭子喬に及んだ。皇太子は激怒し、重い枷鎖で彼を縛り上げ、どうしても殺そうとした。彭子喬にはなすすべもなく、ひたすら心を込めて『観世音経』を百余遍読誦した。ある日の昼、疲れのあまり眠りに落ちた。十人ほどの囚人が一緒に眠っていた。その中に、湘西県の書吏杜道策もいた。同じ獄に繋がれていたが、まどろんではいたものの、まだ眠ってはいなかった。杜道策はふと、二羽の白鶴が彭子喬の寝台の衝立に降り立つのが見えた。しばらくして、一羽が舞い降りて彼の傍らに来たかと思うと、美しい女性の姿に変わったように見えた。杜道策が目を開けてみると、彭子喬の両足かせは外れていたが、腰縄はまだそのままだった。杜道策は呆然と見つめていた。ちょうどその時、彭子喬も目を覚ました。二人は足かせを調べ、ため息をついて不思議がった。杜道策が夢を見たかと尋ねると、彭子喬は「夢は見ていない」と答えた。杜道策が今見たばかりの光景を話すと、彭子喬は得心した。しかし獄吏に逃亡を疑われるのを恐れ、腰縄を一度外して掛け直した。四、五日のうちに、思いがけず釈放された。王琰の族兄である王漣は、彭子喬と杜道策の双方を親しく知っており、二人から直接話を聞いたが、語るところは細部まで一致していた。
○河間の邢懐明。劉宋の大将軍の参軍。南郡太守の朱脩之に従って北伐に従軍し、二人とも捕虜となった。看守の目を盗んで逃げ出し、南へ向かった。夜に歩き、昼に隠れた。三日経ってもなお追手を案じた。斥候を先に行かせて敵の様子を探らせたが、数日経っても戻らなかった。ある夕暮れ、雨が降りそうで空が暗くなりかけた時、斥候が突然現れ、慌てた様子で言った。「先ほど遠くに明るい光が見えたので、そちらへ向かったのですが、ここへ来てみると暗うございます。」朱脩之たちは当惑した。邢懐明はかねてより信心深く、出征の日から常に『観世音経』を肌身離さず持ち、読誦を絶やさなかった。その夕べも暗闇の中でひそかに唱えていた。皆は経の不思議な力に違いないと信じ、心を一つにして祈り合い、こうして無事に救われた。
○太原の王球、字は叔達。涪陵郡太守として仕えていたが、元嘉九年に官職を失い、獄に下された。百余人の囚人と共に繋がれており、多くは飢えていた。王球は自分の食事をすべて分け与えた。かねてより修行に励んでいたが、獄の中で信仰はいよいよ深まり、日中は厳格に斎戒し、心を尽くして観世音を念じた。ある夜、夢の中で高い座に昇ると、僧が一巻の経を手渡してくれた。題して『光世音并定意諸菩薩名号品』。開いて読んでみると、最初の菩薩の名は忘れてしまったが、二番目は観世音、三番目は勢至であった。さらに一つの輪が見え、僧が言った。「これは五道輪である。」目が覚めると、枷鎖はひとりでにすべて解けていた。王球は菩薩の威力だと悟り、信念はいよいよ揺るぎないものになった。三日のうちに赦された。
○ 済陰の卞悦之。侍郎として仕え、巣溝に住んだ。五十歳になっても子宝がなかった。妻が側女を娶ることを手配したが、年を経てもなお懐妊しなかった。嗣子を祈らんことを決意し、観音経一千遍を転読した。読み終えぬうちに、側女が懐妊し、男子を産んだ。元嘉十八年、己丑の歳のことである。
○ 広陵の朱慧慶。元嘉十二年、荊・揚の地方に大洪水があり、川と野がひとつとなった。慧慶は廬山に赴くところであったが、小舟が俄かの暴風に襲われて中流に押し出され、風は哮り波は涌き立った。慧慶は心を定めて観音経を誦した。岸辺の人々は、その舟が数十人の引くがごとく風波を切って進むのを見た。舟は真っ直ぐに岸につき、舟中すべての人は救われた。
○ 広陵の僧端尼。その家は代々仏を敬い、姉妹は深く帰依して出家し、嫁がぬことを誓った。しかし、母と兄はすでに彼女を富家に嫁ぐことを約束していた。婚礼の三日三日前より、彼女は観音経を誦し、涙は雨のごとく零れ、額を地につけて昼夜止むことがなかった。三日目、平伏のうちに仏像が彼女に向かい語りかけるのを聞いた。「あなたの婿の命はまさに尽きようとしている。ただひたすら精進し給え、嘆くなかれ」。翌日、婿は牛に突かれて死んだ。こうして彼女は出家し、髪を剃ることができた。戒律を厳しく守り、五日に一度『大般涅槃経』を誦した。元嘉十年、南の都に至り、永安寺に住した。衆徒を等しく治め、老いも若きも満足し、年とともに声望は増した。元嘉二十五年に、七十余歳で亡くなった。
○ 呉郡の玄藻尼、俗姓は陸。安荀の女である。十歳を少し超えた頃、重い病に罹った。最良の薬を用いたが、日ごとに増悪するのみであった。太玄台寺の法暹法師が安荀にこう言われた、「この病は前世の業因より来たるもので、医薬では治し難いであろう。経典によれば、危急の際に三宝に帰依し、懺悔して願を発する者は、ことごとく救われるとある。もし令嬢の心の穢れを洗い清め、ひたすら三宝に帰依させることができれば、きっと癒えるでありましょう」と。安荀は許諾し、ただちに家の中に観音像を安置した。彼は斎戒して身を浄め、病める娘が地に伏して礼拝するのを支え、娘は間断なく誦した。七日目の夜、初更に、およそ一尺の金色の像が現れて、娘の頭から足まで撫でた。たちどころに長い病は消え失せた。自らの体験に確かめた上で、彼女は出家して尼となることを請うた。修行に励み、『法華経』を誦し、生涯三十七年間菜食を守り、一心に兜率天に往生せんことを期した。劉宋の元嘉十六年、都に至り、経典を書写せしめ、そこで安らかに亡くなった。
○ 法顕、俗姓は龔氏、平陽武陽の人なり。久しく仏典・律の誤脱を憂ひ、之を求めんと発願す。晋の隆安三年、長安を出で、慧景等と倶に、西の砂漠を越え、百難を冒して天竺の国に至る。許多の経律を得、商舶に乗り海路を歸らんとす。舶に乗ること二百人許り、黒き暴風に遇ひ、船倉に水溢れんとするなり。衆恐怖し、其財貨を海に投棄す。法顕、経像の海に棄てらるるを恐れて、観音に心を定め、漢土の衆僧に歸依す。舶風に従ひて進む。経像みな恙なし。十許日を経て耶婆提国に至る。五月を留まりて、商人に随ひ東の広州に赴く。
○ 会稽の曇穎。早く剃髪し、戒律を謹んで持す。十万言余の経文を諷誦し、長干寺に住す。法を説くこと妙にして、其才天稟、並ぶものなし。久しく癩疾に苦しみ、諸薬を用ひ尽くせども治せず。常に観音の像を室に安置し、朝夕礼拝して其治癒を祈る。一日、蛇の像の裏より壁を攀ぢて屋上に昇るを見る。少頃にして、鼠の屋上より地に墮ち、蛇の涎に全身汚され、恰も死せるが如し。曇穎、之を見て、猶生けるが如くなれば、竹の薄片を取りて其涎を払ふ。蛇の呑みたる鼠は癩疾を治すと聞き、其涎を己の癩に塗る。遍く塗り畢るに及んで、鼠は甦る。翌日に至り、其疾みな愈ゆ。乃ち蛇鼠共に祈祷に応じて現れたるを知る。其後王侯の家に重ぜられ、声望四遠に播りぬ。
△ 魏
○ 王玄謨 北魏世祖の治世二十七年、将軍王玄謨は北方遠征に敗れた。蕭斌は彼を処刑しようとしたが、沈慶之が諫めた。「ブリ――世祖の幼名――の威光は天下を畏れさせるほどだ。玄謨がどうして彼に太刀打ちできようか。将軍を処刑しては、かえって我が軍の戦力を損なうだけだ。」処刑の沙汰は一旦保留された。 かつて玄謨が処刑されんとした折、夢の中に誰かが現れ、こう告げた。「観音経を千遍唱えれば、命を助けよう」と。夢の人物はさらに、その経の文を彼に口授した。 「観世音、南無仏 仏とともに因あり、仏とともに縁あり 法は縁より起こり、常・楽・我・浄なり 暁には観世音を念じ、夕べには観世音を念じ 一念は心より起こり、一念は決して心を離れず」 目が覚めると、彼は休むことなく唱え続けた。すると突然、処刑の命は完全に取り消された。その後、彼は大将軍にまで昇り、八十二歳で世を去った。
○ 僧朝達 朝達の出自は詳らかではない。彼は北魏の僧で、学識が高く聡明で、修行に精進していた。 皇帝は予言書を最も厳しく禁止し、全国で摘発を命じていた。誰かが朝達が予言書を所持していると虚偽の告発をしたため、彼は逮捕され、滎陽の牢に投獄された。 当時北魏に滞在していた博陵公が、容赦なく彼を尋問したが、朝達は真実を告白した。公は激怒し、車の車輪を鎖で彼の首に括り付け、周りに厳重な警戒を命じた。 脱出の術がないことを悟った朝達は、全身全霊で観世音を念じた。夜の四更になると、車輪は忽然と消え失せた。番人たちは皆深い眠りに落ちていたので、彼は隙を見て逃げ出した。だが、長い間枷をはめられていたため足が痙攣し、まともに歩くこともできず、遠くへ逃げることはできなかった。 夜が明ける頃には、敵の騎馬隊が捜索のため周囲に散開してきた。朝達はもはや脱出は不可能だと悟り、草むらに身を潜めた。騎馬隊は草を踏み荒らして通り過ぎたが、彼が隠れるすぐ脇を通り過ぎていった――彼は上を見上げていたというのに、騎馬隊は彼に少しも気づかなかった。よく見ると、騎馬隊の目の部分は牛皮の盾で覆われている。朝達は観世音の名を一心に唱え、死を覚悟した。その夜、騎馬隊が引き上げたのを見計らい、彼は無事に逃げおおせた。
○ 道師僧明 道師の僧明は、北台石窟寺の住持を務めていた。 「黒き者が天下を取る」という予言が流布していた――つまり、黒い印を持つ者がこの世を統べるという意味だった。自らもそのような手段で帝位を奪った魏の統治者たちは、常に僧たちの動きを警戒していた。 数百人の僧が逮捕され、縄で縛り上げられた。僧明はその首謀者に仕立て上げられた。彼の全身に縄がきつく巻き付けられ、翌朝の処刑が決まった。 僧明は心の中で観音を一心に念じ続けた。夜半になると、縄が少し緩むのを感じた。密かに喜び、いっそう強く念じた。夜明けまでには、縄は完全にほどけ落ちていた。彼は隙を見て山奥へ逃げ込んだ。 翌日、看守が彼を探しに来たとき、僧明の姿はどこにもなく、地面には切れた縄だけが残っていた。神仏の加護が働いたと悟った看守は、このことを朝廷に報告した。皇帝は僧たちが反乱を企てていないと確信し、直ちに全員を釈放した。
○ 道泰師
道泰、北魏の末の人なり。常山の湯衡菴に住せり。夢に人告げて曰く、「某年至らば、汝死すべき、齢四十二にて」と。其夢に愁へり。其年至りて、篤疾に罹り、恐懼胸に満てり。所有の物を尽くして福業とせり。或友曰く、「聞く、六十二億の菩薩に供養するは、一の観音を供養するに同じと。何ぞ一心に帰依せざる、寿まさに延ぶべし」と。泰、骨髓に感じき。四日四夜、懈らず精進す。坐する帳の下より、忽然として光りを放ち、門外より照らし入る。観音の足を観るに、踝は金色に耀たり。声ありて曰く、「汝、観世音を称ふるか」と。泰、帳を挙ぐれども、瞬く間に像既に失せり。歓喜に涕し、汗洽洽として下る。身体軽く覺ゆ。其病平癒す。年四十四にして、始めて同志の者に其事を語りき。後、天年を保ちて終れり。又他に同じき事ありと雖も、此に別載せず。
○ 法力師(道紀、法禪)
法力、其出處を知らず。精進刻苦、志願あり、魯郡に菴を建つことを欲すれども、資力乏し。沙弥明琛と倶に上谷に上り、麻の一車を乞ふ。帰り途、空澤を渡るに、烈火忽然として起こりき。車風下に在り、遁るるに由なし。法力、疲れて眠る。明琛、之を覺むるに、炎既に迫れり。法力、「観—」と唱ふ。未だ「世音」の字を出ださざるに、風忽ち逆に轉じたり。炎熄み、倶に無恙にして歸れり。
道紀師、首陽の西山を行くに、二賊に擒へられ、木に縛られ、將に殺されんとす。専ら観世音に念じ、死を甘んじて受けんとす。賊、刃を揮ひて再三之を斫るれども、傷さへ受けず。賊、懼れて逃げ去り、道紀、解かれて免る。其事、世に行わる。
法禪師及び伴侶、山中を行くに、賊に遇ふ。唯だ観音を念ず。賊、弓を挽きて射んとすれども、箭を放つこと能はず。降伏して弓を捨てんとすれども、亦弓を離すこと能はず。威力の人なるを知り、逃げ去る。法禪等免れ、其事遍く伝わる。是等は皆魏末の人なり。他に観音の應驗の説、其範圍の廣きものあるも、此に載せず。
○ 孫敬徳 天平のころ、定州出身の兵として徴集された敬徳は、北境の守備に就いていた。金の観音像を鋳造して随身し、任期が解けて帰郷した後も変わらず敬い続けた。後に賊に诬められて都の獄に下され、拷問に堪えかねて偽りの自白をし、翌朝処刑されることとなった。
その夜、彼は懺悔に伏して号泣し、雨のように涙を流して祈った。「今世でかくも無実の罪を受けるのは、まさに過去に人を害した業報であろう。この業を償い、二度とこのようなことはせぬと誓います。」彼はかかる誓願を幾つか立てた。まもなく半ば眠りに落ちると、一人の僧が現れて『観世音済度経』を誦するよう教えた。その経文には仏の教えが含まれており、千遍誦せばこの難を免れると告げられた。
敬徳は身を起こし、一字違わず誦し始めた。夜明けまでに九百遍に達した。役人が彼を縛り、市の刑場へ引き出した。歩みながらも誦し続け、刃が降りようとするまさにその時、千遍に達した。処刑人が刃を振り下ろすと、三片に砕け散り、彼にはかすり傷一つなかった。二本目の刃、三本目の刃を持ち出させたが、いずれも最初の刃同様にへし折れた。
監察の役人らは驚いて上官へ詳細を報告した。丞相高歓が彼のために上奏したため、敬徳の命は助かった。勅命によりその経は書写され広められ、今の世に伝わる『高王観世音経』となった。
敬徳が釈放されて帰宅すると、謝恩の素食の宴を催した。みずから鋳造した観音像を取り出すと、その首に三つの刀痕が刻まれていた。近隣の者どもがこれを見て驚き怪しんだ。このことは『斉紀』および『捜神記』に載せられている。
○ 僧朗 魏の軍が涼州を攻めた時、城はついに陥落した。僧朗と数名の僧が捕らえられ、軍に従って東へ連行された。朗と一人の同行僧は故郷を恋い、途中での逃亡を企てたが、見張りが厳しく逃げ道がなかった。東西は断崖絶壁で、底の深さは到底知れなかった。崖の上に大きな木があり、枝が崖縁から垂れ下がっていた。二人は太鼓の竿と旗竿を抜き取り、縄を結びつけて身を滑り降りた。
真夜中のことで、崖の麓は茨が密密と茂り、足を置く場所もなかった。引き返そうにも見張りに見つかる恐れがある。慌てて縄にすがりついたが、もう長くは堪えられそうになかった。互いに「もうこれまでだ」と言い、一心に観世音を念じ、岩に向かって頭を打ちつけた。
するとたちまち東方から一筋の光が放たれ、天地を照らした。茨の中に降りられそうな開けた場所が見えた。その光に従って降り立つと、光は消えて再び暗くなった。二人はこれが夜明けの光ではなく、聖者の神通力であることをさとった。
しばらくして夜が明けた。軍営の角笛が鳴り響き、進軍しようとする気配が聞こえた。山と谷が折り重なり尽くし、どちらへ進めばよいか見当がつかなかった。月を頼りに歩いていくと、一頭の大きな虎が道を塞いでいた。
顔を見合わせて「敵からは逃れられたが、虎の口から逃れられるだろうか」と言った。朗は仲間に言った。「そんなことを言うな。我々の一心が通じてこそ光が現れたのだ。この虎も道を導く聖者に相違ない。」
二人はまっすぐ虎に向かって歩いた。虎は先に立って歩き始めた。朗が遅れそうになると、虎は立ち止まって待ってくれた。夜明けにはとうとう脱出することができた。虎の姿は既に消えていた。
△ 斉・梁
○ 大菩薩宝誌 大菩薩宝誌——通称・誌公——は、鏡のように澄んだ四角く艶やかな顔を持ち、手足は鳥の爪のようであった。伝えられるところによれば、金陵近くの東陽に住む朱家の女性が、鷲の巣の中で赤子の泣き声を聞いた。彼女は梯子を伝い登ってその子を下ろし、我が子として育てたという。七歳のとき、鍾山の大師・僧倹に師事して出家し、禅観に打ち込んだ。それ以来、不思議な力が現れ始めたのである。彼は杖の先に鋏や尺、払子をぶら下げて、あちこちを歩き回った。村を通り過ぎると、子どもたちが声を上げて追いかけてきた。少しばかり酒をねだることもあれば、何日も食べないこともあった。ある日、刺身を食べている人に出会い、少し分けてくれるよう頼んだ。軽薄な傍観者が彼を嘲笑うと、誌公は口にした魚を水に吐き戻した。すると、それはたちまち生きた魚になって泳ぎだした。彼はしばしば偈を作ったが、最初は不可解に思われても、後になってすべてが的中した。永明七年、斉の武帝は誌公が民衆の心を掴んでいることを快く思わず、逮捕して牢に入れた。しかし同日、都中の人々が大菩薩が市中を歩いているのを見たのだ。確かめてみると、彼は牢の中にいた。その晩、彼は獄吏にこう告げた。「門前に料理を携えた二人の輿かきがいる。金の鉢に飯が入っている。取ってきておくれ。」そこへ現れたのは、文恵太子と竟陵王であり、供物を持って訪れたのだった。建康の令尹・呂文顕がこれを朝廷に報告すると、皇帝は自らの過ちを悔い、誌公を内宮に迎え入れた。皇帝の詔はこう述べている。「大菩薩宝誌は、その身は塵埃の中にありつつも、その精神は深淵を漫遊している。水火も彼を焼き濡らすことができず、蛇や虎も彼を恐れさせることはできない。ましてや常法や世俗の情をもって、みだりに疑念を抱くことなどできようか。これより朝廷の内外を問わず、思いのままに教化することを許す。」ある日、皇帝は問うた。「朕の迷いはいまだ晴れぬ。どうすべきか。」誌公は答えた。「十二。」皇帝がその意味を問うと、誌公は言った。「その時を表す文字の中にあり、水時計の符にある。」皇帝にはますます分からなくなった。またある日、皇帝は王朝に災厄はあるかと尋ねた。誌公は自分の首を指して答えた(これは侯景の乱の予言である)。皇帝は問うた。「朕の治世はいつまで続くか。」誌公は言った。「元嘉、元嘉。」皇帝は喜び、宋の文帝の在位年数の倍を意味するのだと思った。新王朝はようやく樹立されたばかりで、皇帝は峻烈に国を治めていた。誌公は皇帝自身の魂を通じて、亡き父が地下で恐ろしい苦しみを受けている様子を彼に見せた。それ以来、皇帝は刑罰において慈悲を示すようになった。皇帝はあるとき、画師の張僧繇に誌公の肖像を描かせた。しかし僧繇は筆を紙に置くたびに、その輪郭を定めることができなかった。すると誌公は指で自分の顔をなぞり、顔面を裂いて十一面観音を現した。その美しさは比類なく、あるときは慈愛に満ち、あるときは忿怒の相であった。僧繇は——
て描くことができなかった。ある日、皇帝と河辺に佇んでいたとき、流れに逆らって上流から何かが漂ってきた。志公は杖で引き寄せた——紫檀の一片であった。侍者俞紹に志公の像を刻ませると、たちまち完成し、まるで生きているようだった。皇帝は大いに喜び、内殿に安置した。当時、法雲・雲光の二大徳は名を馳せ、法を説くたびに天から花が降りた。皇帝は二人が聖果を得ているかと思われた。ある夜、後殿で疏文を焼いて志公を招請し、三大師の斎を設けた。翌日、志公のみが現れ、法雲・雲光は知らなかった。皇帝はいよいよ敬信を深められた。また皇帝とともに中山の定林寺に登られた際、前の独龍岡の孤峰を指して言われた、「もしここを陵墓とされるなら、皇統は永続いたしましょう」と。皇帝が問われた、「誰が手にするか」と。志公が答えられた、「先に来た者が得られるでしょう」と。十三年、大菩薩は遷化された。皇帝はその言葉を思い出され、金二十万を出してその地を購入し、五層の塔を建て、頂上に無価の宝珠を戴き、王雲に銘文を書かせられた。埋葬の日、皇帝は親しく臨んで礼拝された。大菩薩が忽然と雲間に現れたので、群衆は喜んで叫び、声が山岳を震わせた。それ以来、僧俗ともに帰依し、その奇瑞は天下第一と称された。志公が臨終の際、皇帝は再び王朝の存続を問われた。志公は言われた、「この貧衲の塔が倒れる時、陛下の国家もまた倒れるでしょう」と。皇帝は木塔を造らせられた。完成するや否や、皇帝は思われた、「木塔は永くはもたない」と。壊させ、石塔を造らせられた。取り壊しがまだ終わらないうちに、侯景の兵が都に入った。大菩薩の密示と偈頌は『南史』に多く記されている。修行者のために『大乗讃』十首、『経偈』十四首、『十二時歌』を作られ、いずれも道の奥義を顕された。その意は禅宗の趣意と契合し、今日に至るまで広く流布している。
○ 道融和尚 道融は梁の初期の人である。旅籠りに一人で泊まっていた。雪が降っており、深夜にようやく眠りに就いた時、無数の鬼の軍勢が見えた。中には甲冑をまとい、腰に刀を帯びた鬼将軍が一人いた。異様で堂々とした姿をしていた。将軍は一脚の杌凳を引き寄せて道融の真っ向かいに端座し、厳しい面相で声を張り上げて言った、「さあ——鬼神に力がないと言うのか!」道融を地面に引き倒すよう命じた。鬼たちが彼を捕らえようとした刹那、道融は静かに観世音を称えた。称名の声のうちに、寝台のうしろに丈余りある天将軍が見えた。黄皮の衣をまとい、金剛杖を手にして打ち据えようとしていた。鬼たちは恐れをなして散り散りになり、その甲冑も兵器も塵となって崩れ落ちた。
○ 慧簡和尚 慧簡の出自は知られていない。梁の初期の人で、修行に厳しく、驚くべき勇気を持ち、荊州の本堂東側にある三間の側室に住むようになった。そこは古くから鬼神のたたりが絶えなかった。簡はうちの一室を自室とし、他の二室には経典と仏像を安置した。突然、黒衣で目のない人影が壁から出てきて、戸框によりかかった。簡の心は澄んでいたが、口がきけなかった。心の中で観世音を念じた。しばらくして人影が言った、「あなたの精進のうわさを聞き、試みに参った。顔色が変わらなかったので、これ以上迫ることはしない」。人影は壁の中に戻った。簡は急がず起き上がり、洗面し口を漱ぎ、読経し、何事もなかったかのように再び眠りに就いた。夢の中で人影が再び現れて言った、「私は漢の末からここに住んでおり、数百年になる。私の性は剛直で、多くのことに耐えられない。しかしあなたは品行端正で真実の善人なので、特別に許しましょう」。その後、怪異は完全に止んだ。簡はそこに安穏に何年も暮らした。彼が留守の間は、他の誰もこれらの部屋に住むことができなかった。また、斉の武帝の御世、劉紀の母が病気になった時、何万遍も観音を称えた。僧が夢に現れて言った、「天寿は尽きているが、あなたの功徳によって寿命が六十日延びるであろう」。夢のとおりになった。
△ 周と隋
○ 僧実禅師 俗姓は程、咸陽武陵の出身である。二重瞳を持ち、眼光は鋭く澄んでいた。腋下には鳳卵の相があり、七相がすべて具わっていた。容姿は比類なく、名声は長安・洛陽の両京に轟いていた。道に対する悟りは天性のもので、その教化は天下に広がっていた。 北周の太祖文帝はこう言われた。「師の才能と徳は深く大きい。僧侶も俗人もともに守り、教えと礼を広めるべきである」。自ら招聘して僧実を三蔵国師に任命した。僧実は虚礼を旨とした辞退をせず、静かにそれを受けた。こうして王朝は柱石となるべき人物と、全体の規範を得た。北周の政治は、彼の清らかな人柄を頼りとするようになった。前例のない厚いもてなしをして、帝は彼から帰依の戒を受けられた。
ある朝、僧実は僧衆に告げた。「急いで香と灯明を整え、法要を営み、観世音を称えなさい。江南にあるある寺の講堂が崩れようとしているのを救うためである」。 まさにそのとき、揚都の講堂では法会が開かれており、数百の僧侶と俗人が集まっていた。西北の方から異香が漂い、天上の楽が空に響いた。一同は驚いて外に飛び出し、全員がその音を聞いた。講堂は忽然と崩れ落ちたが、集まった人々は誰一人傷つかなかった。梁の帝がこれを聞き、周の朝廷に使者をやって確かめさせたところ、僧実の言った通りだった。
○ 洪曼僧 姓は梁、安定の出身である。十五歳のとき、まだ俗人だった彼は病に罹って両足が不自由になった。三年間、ひたすら『観音経』を読み続けた。 ある日、一人の僧が現れ、前に立って水瓶を捧げ、何も語らなかった。洪曼は尋ねた。「先生はどちらから来られたのですか」。僧は答えた。「檀越が私を呼んでおられたので、参ったのです」。洪曼は頭を垂れて尋ねた。「前世でどんな業を造ったのか、この病を患うことになったのは」。僧は言った。「前世で生き物を縛って閉じ込めた報いが、今残っているのだ。目を閉じなさい。今、治してあげる」。 洪曼は言われた通り目を閉じると、両膝から六、七寸ほどの釘が抜き取られるのを感じた。終わって目を開けると、僧に礼を言って感謝しようとしたが、僧はすでにいなかった。立ち上がって歩いてみると、以前と同じようにできた。これは観音の現れだと悟った。 このことをきっかけに、彼は観音一途に帰依し、生涯妻を迎えることはなかった。その後、自ら禅定に入るようになり、三日や七日坐ったまま動かないこともあった。開皇元年、髪を剃って出家し、九度寺に住んだ。貞観十三年、八十三歳で遷化した。
○ 慧恭法師 慧恭法師は益州・成都の出身で、俗姓は周であった。周の末、仏教が破毀された折、同寺の慧直と深く契りを結んだ。直は真っ先に長安に上り、講説を聞きに通った。恭は遠く涇陽の地まで旅をして、道を求めた。直は都で諸経論を学び、ことごとく通達すると帰還し、益州で教えを説いた。その学徳は群を抜いており、僧はもとより俗衆からも敬重された。
恭はその後、南方から帰って来た。二人は再会を喜び、夜を徹して語り合った。三十余年もの別れだったので、語るべきことは尽きることがなかった。直の言葉は泉が湧くように次々と出てきたが、恭は終始一言も口にしなかった。直が問うた。「長年別れていたのについに再会できたのは、何という喜びか。しかるにあなたは一言も発しない。何も得るところがなかったのか」と。恭が答えた。「私はそもそも愚鈍な性質で、何も会得していないのです」と。直が言った。「何も会得していないとしても、せめて経の一篇でも読めたではないか」と。恭が言った。「観音経一巻を読めるのみです」と。
直は口調を厳しくして言った。「観音経は幼い子でも読める。大人のあなたが、なぜそこで止まるのか。あなたは若くして出家し、私とともに誓いを立て、道の果を証そうとしたのだ。三十余年たって、たった一巻の経を読んだだけか。これは愚鈍ではない、怠惰だ。私はあなたとの交友を絶つ。去れ、これ以上私を困らせないでくれ」と。恭が言った。「たとえ経が小さくとも、これはまことに仏の金口から説かれたものです。敬えば無量の功徳があり、軽んじれば無量の罪を招く。どうか今は怒りを鎮めてください。一度だけ、あなたの前で読誦してみせましょう。その後は二度と会わないことにしましょう」と。
直は声高に笑って言った。「観音経は法華経の普門品だ。私は百遍以上も講じてきた。どうしてあなた、私の前で読み上げようというのか」と。恭が言った。「世俗の書に言う、『人能弘道、非道弘人』と。どうか真心をもって仏の説きし言葉を聞いてください。人があるがゆえに法を捨てることがありましょうか」と。
彼は庭に壇を設け、中央に高座を据えると、壇を数周回って礼拝し、それから高座に登った。直はやむを得ず、軒下に置かれた胡牀に腰かけて聴いた。恭が経題を唱え始めるや、たちまち不思議な香りが堂内いっぱいに満ちた。本文を読み始めると、空から天楽が鳴り響き、四種の花が降り注いだ。音楽は清らかに響き渡り、空いっぱいに広がり、花はそっと舞い落ちて、やがて地面をすっかり覆った。経を読み終えると、恭は自ら壇を下り、読経の結願の儀を執り行った。そうして初めて、音楽と花が収まった。
直は恭の足元にひれ伏し、涙を流して詫びた。「慧直は臭秽の腐屍に過ぎません。よくも天日の下を歩いていられたものです。どうかしばらく留まって、私を導いてください」と。恭は言った。「これは私の力ではない。諸仏の威力によるものです」と。その日、直は衣の埃を払い、深く頭を下げて礼拝すると、川下へと去って行った。
観音菩薩慈叢集 第二巻
△ 唐(五代附録)
○ 潭蔵大師
潭蔵大師の俗姓は楊で、弘農華陰の出身だ。名門の士族の家に生まれ、幼いころから清らかに俗世を離れた心を養っていた。十五歳のとき、占い師に「若くして亡くなる」と告げられ、悲しみにくれた両親はすぐに縁談を整えた。だがこれは彼の望んだことではなかったうえに、このままでは親の言いなりにせざるを得ないと恐れ、彼は山野へと逃れた。誰かがこの苦境から救い出してくれると願いながら、かつて足を踏み入れたことのない人里離れた荒野をさまよい、行くあても分からぬまま、ただ観音菩薩の御名を胸に抱き続けた。しばらく歩いていると、肌の黒い男が二頭の牛を引いているのに出会った。彼は男に出身地を尋ね、一晩の宿を乞うた。男は答えた。「西に寺がある。すぐに着くだろう」。間もなく鐘の音が聞こえ、ふと目の前に寺院が現れた。彼はその場で得度し、ずっと胸に抱いていた志を遂げた。僧たちは門まで彼を見送ったが、百歩ほど歩いたところで振り返ると、寺はもう消えていた。夜が明けて初めて、この地が聖なる境であること、自分は大菩薩の威神力によって導かれてきたのだと知った。
○ 法常大師
法常大師の俗姓は張で、南陽白水の出身だ。教理の研鑽を深め、教えと実践の両方で非常に造詣が深いと広く称賛されていた。『摂大乗論(大乗の要旨)』を中心に学び、『涅槃経』を厚く敬っていた。昼夜六時を欠かさず修行と読経に励み、少しも気を緩めることがなかった。全身を白い衣冠で包んだ大の神王が眷属を引き連れ、法常が仏を绕步するたびにその周りを回った。在家・出家の修行者たちが時々これを目撃し、密かに法常への敬慕を深めていった。
ある夜遅く、仏殿の壁画に描かれた天人楽師が一斉に踊り始めたことがある。また別の夜にも、仏殿に外から観音菩薩が入って来て、虚空に昇っていった。その姿は非常に荘厳で、瓔珞や宝飾品で飾られ、珍しい輝く光を放ち、しばらくその場にとどまった後に消えていった。五年後、ちょうど明け方、東から普賢菩薩が現れるのを彼は目にした。地面から五六丈の高さの虚空に浮かんでいた。これらはみな、法常が一途に修行に励んだことに応えた瑞兆だった。
○ 普明大師
普明はもともとの名を法浄とし、俗姓は朱氏、会稽の出身であった。幼少時より他の子供と気質が異なり、常に仏名を唱え、無駄な雑談をすることはなく、ただ法を敬うことを何より大切にしていた。陳の太建十四年、天台山を訪れ、智顗大師(智者大師)に師事した。昼夜を問わず大師に仕え、その教えを衷心より受け、倦むことはなかった。特に禅法を志し、方等懺悔・般舟三昧・観音懺悔を修め、『法華経』を誦経した。智顗に従って廬山の東林寺に赴いた際、陶侃が感得した瑞像が安置された楼閣の中で観音懺悔の法を修めた。当時は十一月の厳冬、綿入れの衣を着ることもなく、厳しい寒さに耐えながら修行を続けた。すると一人の僧が彼の前に現れ、言った。「お前の名は法浄、吉い名前ではない。普明と改めるがよい。この名は清らかに明るく、三世を照らすであろう」。懺悔の法を修め終えた後、このことを智顗に報告すると、智顗は答えた。「これは見えない世界からの啓示である。古い名を捨て、新たな名を取るがよい」。
○ 静智大師
静智大師は俗姓を趙氏とし、雍州高陵の出身であった。両親は善行を重ねる家柄であり、長らく子に恵まれなかった。方々に祈願し、世の欲に疲れ、ついに辛い物と肉食を永久に断った。静智が生まれた後、七・八歳の時より阿弥陀仏の想念行を好み、経典に基づいて学び修め、自然に出家を志すようになった。貞観の初め、光化寺に隠遁すること十余年、僧房には住まず、茅屋で起居した。四方から集まった弟子は二百人を超えた。一日の六時(身・口・意の三業)の修行を欠かさず、一分一秒も無駄にすることはなかった。或る時、鼻の中を塞ぐ瘜肉ができ、種々の治療を施しても効き目がなかった。一人の僧が『般若心経』を一万遍唱えるように勧めたところ、瘜肉は自然に消え落ちた。
○ 志勤大師
志勤大師は俗姓を朱氏とし、幼少時より他を利する心を抱いていた。人々の集まりの中にいる時は、いつも言葉を尽くして調和を促し、その誠実と勤勉さ故に、行うことすべてが霊的な加護を受けていた。母が重い病に倒れた際、母に代わって観音菩薩の名を唱えた。すると、屋敷の庭の木々の葉の上に化仏の姿が現れ、一家一同がそれを見守る中、母の病は癒えた。
○ 法通大師
法通は俗姓を管とし、京兆扈陰の出身である。幼くして出家したが、極めて体が弱かった。風に吹かれただけでも倒れてしまいそうなほど脆弱で、錦に包まれたかのようだった。同門の修行者たちはしばしば彼を侮った。法通はそのたびに涙した。
ある日、観音像の前に立つと、深い思いを込めて誓願した。「菩薩の聖なる智慧は、誠心からの願いをすべて叶えてくださると聞いています。どうか私を導き、支えてくださいませ。このような侮りを受ける身から逃れさせてください」と。
それからというもの、法通は『観音経』を昼夜休むことなく唱え続けた。一年余りたったある日、故郷に戻り母と再会した。朝食の後、庭の木陰でうたた寝をしていた。すると間もなく、口から涎が溢れ出し、その量は三升にも達した。母は何か取り憑かれたのだと恐れ、慌てて彼を揺り起こした。訳を尋ねると、法通は答えた。「今、人が来て私にロバ三頭分の筋肉を持ってきてくれたんです。まだ一頭分を食べただけで、起こされたので、残りの二頭分は失ってしまいました」と。
それ以来、法通の体中に力が湧き上がり、勇ましく逞しくなり、皮膚や肉も堅靭になった。大きな木材や巨石を軽々と持ち上げ、まるで何も持っていないかのようだった。寺には観という名の僧がいて、誰もが認める寺一番の力持ちだった。法通はこっそり観の袈裟を柱の下に滑り込ませた。観はびくとも動かせず、妖怪の仕業だと怯えた。法通は笑いながら梁を持ち上げ、袈裟をずるりと引き抜いた。観は目を丸くし、すっかり感服した。
また、五百斤を超える大きな石臼もあった。法通はそれを背に負い、南山から寺まで運んできたという。今もそこにあり、水を溜めるのに使われている。隋の高祖も彼を非常に尊崇した。
○ 智者大師智顕
智者大師智顕は、遼州虎鳴寺に住んでいた。幼くして出家し、清らかで厳しい戒律を守り、性格はまっすぐで屈することがなかった。坐禅にのみ打ち込み、その悟りの深さを知る者はいなかったという。
後日、十人余りの僧侶や在家信者と共に旅をしていたところ、突厥の盗賊に襲われ、全員が捕らえられた。だが智顗だけは、その場から忽然と姿を消していた。後で皆が彼と合流し、訳を尋ねると、智顗は静かに答えた。「観音の名を唱えていたので、盗賊たちは私を見ることができなかったのです」と。
○ 智者大師元康
元康は俗姓が伝わっていない。貞観の時代に都に上り、学問を究めた。もともとは山林や荒野で修行生活を送っていた。常に観音の名を唱え、深い智慧を求めて祈り続けていた。その願いに応えるかのように、ある日、八つに枝分かれした角を持つ一頭の鹿が彼の前に現れた。その姿は非常に異様だったが、元康が撫でるとすぐに驯れ、飼うことにした。長旅の際にはその鹿に乗って移動したが、少しも疲れた様子を見せなかった。元康の弁舌は非常によく、その噂が皇帝の耳に入ると、勅命により安国寺に赴き、中観派の三論を講ずるように命じられた。中道の原理を解き明かす註疏を著し、別に『玄枢』二巻を撰して、中観派の『中論』や『百論』の核心を余すところなく解き明かした。
○ 三蔵法師玄奘
三蔵法師玄奘は、本名を恵輝といい、俗姓は陳だった。その家系は漢代の太丘にあった陳寔(字は仲弓)に遡る。父の恵英は性格が清らかで、行いが修められた人だった。玄奘が生まれたとき、母は白い衣を着て西へ向かう彼の夢を見た。母が問うた。「お前は私の子だというのに、どこへ行くのか?」彼は答えた。「法を求めに行くのです」。これは将来、遠い異邦へ旅立つことになる瑞兆だったという。
十一歳のとき、兄の僧・常戒のもとで日々深い法義を学び、同時に問答の術も修めた。彼は堂々と毅然として、世間の俗流に決して流されなかった。十三歳で講壇に立ち、言葉と道理を兼ね備えた説法を自在に行ったので、その名声はますます広まった。
二十九歳のとき、彼は自らこう考えた。「学問の価値はその深さと広がりにあり、教義の要は明確かつ透徹した理解にある。一か所で学ぶだけでは、わが志を遂げることはできない。命をかけて西天に旅することを誓わなければ、どうして仏陀の説かれた本来の教えをこの身をもって確かめ、そこから聖なる妙義を徹することができようか」と。こうして彼は姑蔵(こぞう)に向けて旅立ち、敦煌に至り、玉門関を出て広漠とした砂漠へと入った。―― 糧を携え、供といっては、ただ一人の影だけだった。
彼の前に広がっていたのは、八百余里にも及ぶ、何もない砂の大原だった。天には鳥一匹いない、地には獣一頭いない、水もなければ草もなかった。一心に観音菩薩の名と『般若心経』を唱えながら、彼は西北へとひたすら進んだ。周囲は空漠として、人も馬も生き死にの境にあった。夜には星のように輝く火を焚き、昼には砂を巻き上げる烈風が、雨のように肌を刺した。水は一滴も唇に触れることなく、四夜五日が過ぎた頃には、口も喉も焼けつくように乾き、一歩も進めなくなり、まさに命が尽きようというありさまで、砂の中に倒れたまま、声を潜めて観音菩薩の名を唱え続けた。どんなに苦しいときも、少しも唱えるのをやめなかった。彼は菩薩に祈り、こう願った。「今回の旅は、富を求めるものでも、名声を求めるものでもありません。ただ無上の菩提心と、真の法を得るためのものです。菩薩の慈悲はあらゆる衆生を包み、その本願は苦しみを救うことにあると存じます。どうか、この苦しみに気づいてください」と。祈りながら、彼の心は少しも揺らぐことがなかった。
五夜目の真夜中、急に涼しい風が体に吹き付け、冷水に浴びたかのように清々しく、肌に染み渡った。視界がはっきりとし、馬はふらつきながらも立ち上がった。数里進むと、数畝の緑の草地が現れた。彼は馬から降り、満足するまで草を食べさせた。近くに池があり、水は甘く、鏡のように澄んでいた。一口飲むと、命が蘇り、人も馬もすっかり元気を取り戻した。この草と水は、此前になかったものだと彼は悟った。―― これは自分の誠心から生まれ、菩薩が慈悲を与えてくれたものに違いない、と。こうして彼は砂漠を越え、高昌の国にたどり着いた。国王は丁寧な礼儀をもって出迎え、玄奘がさらに先へ進みたいと申し出ると、西域まで送るために次々と護衛を派遣してくれた。大師はインドの五つの地域をすべて巡歴し、十八年をかけ、百三十五か国を訪れた。どんな苦難に遭っても、けがも病もなく乗り越えることができた。これは彼の過去世からの願いの力と、菩薩の慈悲による加護のおかげである。
○ 智玄禅师 智玄は字を後覚(こうかく)と申し、俗姓は陳だった。眉州洪雅の出身である。経論を説くときには、僧侶も俗人も聴衆が途切れることがなく、門前に履き物が日に日に増えていった。また世俗の学問の典籍や諸子百家の書を学び、すべてに精通していた。もともと自分の訛りを悩んでいたので、象耳山で大悲呪を唱えていると、夢の中に一人の神僧が現れ、彼の舌を切り取って新しい舌と取り替えてくれた。翌朝には、突然都の標準語を話せるようになっていた。
○ 文宗皇帝の太和年間:
文宗皇帝はかつて、宮中の厨房に命じて鶏卵を茹でさせたことがある。すると、卵の集まりの中から、突然「観音菩薩!」という叫び声が上がった。皇帝はただちに詔を出し、鶏卵の使用を禁止した。 また、蛤とマテ貝を非常に好んで食べていた。沿岸の役人たちは長らく、これらを貢ぎ物として献上するよう命じられており、それが民衆にもたらす負担は非常に大きかった。 ある日、これらをたっぷりと盛った皿が皇帝の食卓に運ばれてきた。その中に一つ、どうしても殻が開かない蛤があった。皇帝は何か特別なことが起こると感じ、線香を焚いてその蛤に祈りを捧げた。すると、蛤は菩薩の姿へと変わった──梵像の相好を備え、威厳があり美しい姿だった。 皇帝はそれを金が埋め込まれた白檀の箱に入れ、錦の布で覆って興善寺に下賜し、適切な儀式をもって崇敬するよう命じた。それから集まった群臣たちに問いかけた。「この瑞兆はいかなる意味を持つのか」と。 宰相の李徳裕が答えた。「私ごときが言えることではありません。ただ、これは陛下の光ある徳のなせる業であると知るのみです。仏法の奥義については──承るに、終南山の恒政禅師は法を深く悟り、学識が広く、記憶力も人並み外れているそうです」。 皇帝は恒政を宮中に召還して問い質した。禅師は答えた。「この貧僧が聞くところでは、現象が無駄に感応することはありません。これは陛下の信心を目覚めさせるためのものです。経にはこうあります。『この姿で救うべき衆生には、この姿で現れて法を説く』と」。 皇帝が言った。「私は菩薩の姿は見たが、法は聞いていない」。 恒政が答えた。「陛下はこれをただの出来事だと思われますか、それとも瑞兆だと思われますか。信じますか、それとも信じませんか?」 皇帝が言った。「これは素晴らしい瑞兆だ。私は深く信じている」。 恒政が言った。「ならば、陛下はすでに法を聞いておられます」。 皇帝は大変喜び、かつてない喜びを得た。全国の寺院がそれぞれ観音菩薩の像を安置するよう詔を出し、この特別な恵みに報いた。
○ 菩薩僧伽
僧伽は、葱嶺の北の何国からやって来た。弟子の慧厳とともに臨淮に到着し、信義坊の住人に土地を譲ってほしいと申し出て、その場所に印をつけ、「ここに寺院を建立する」と宣言した。地面を掘ってみると、古い石碑が出土した──そこは斉朝の相際寺の跡だった。また、金色の仏像も見つかった。その衣の裾の部分には「普照王仏」という銘が刻まれていた。 地元の人々は驚いて言った。「彼は天眼でこのことを予知していたのか。とても断れやしない」。 僧伽があるとき、何婆の家に一泊したことがある。突然、彼の体がベッドの両側から三尺以上もはみ出して伸び、居合わせた人々を驚愕させた。その直後、十一面観音の姿を現した。一家一同が喜び、信心と崇敬の念は倍増し、自らの家を寺として寄進した。 中宗皇帝の景龍二年、この寺は「普照王」と書かれた勅額を下賜された。景龍四年の庚戌の年、僧伽は病に倒れ、正座したまま入寂した。その顔色は生きているかのようで、ただ目を閉じていただけだった。俗世での年齢は八十三歳で、出家してからの年数は分かっていない。故国で三十年、唐の地で五十三年を過ごし、多くの奇瑞を現した。 皇帝は悲しみ憔悴し、群臣に葬礼に列するよう命じた。街は参列する庶民で溢れかえった。皇帝は万回禅師に問いかけた。「この僧伽という僧は、いかなる者なのか」と。 万回が答えた。「彼は観音菩薩の応現です。経にはこうもあるではありませんか。『比丘の姿で救うべき衆生には、比丘の姿で現れる』と」。
咸通年間、徐州の鎮兵庞勋(ホウクン)が桂管の任を捨て、路上で略奪をほしいままにし、ついに泗州を攻めて城を囲んだ。僧伽が塔上に現れた。敵軍は一斉に深い眠りに陥り、城中の軍勢が撃って出ると、賊兵は恐慌して敗走した。泗州の民がこれを朝廷に奏上し、僧伽は追号されて「證聖大師」の号を賜った。その後、僧伽は塔上に小沙弥の姿でしばしば現れ、一州の人々は仰ぎ見て敬った。また吉凶の奇瑞を示された。順風を祈れば順風が得られ、子を祈れば子が授けられた。親しく礼拝する者でも、僧伽の御姿をまったく見ぬことがあると言われる。微笑んでいれば吉祥、見えなければ不吉とされる。この済度の功力は、まことに測り知れない。その後、後周の世宗が江南を征討された時、軍勢が泗水の北の地を初めて攻撃しようとした際、僧伽が州の人々の夢に現れ、敵を軽んじるなと告げられた。州刺史に伝えられたが、誰も信じなかった。すると各家とも同じ夢を見て、これを報告すると、城は降った。一州の人民はことごとく僧伽の加護によって命を救われた。天下のいたるところ、新しい寺院を建立する時、必ず僧伽の真影を安置し、「僧伽大聖和尚」と記した額を掲げ、願いを捧げる者はよく叶えられるという。
○岸禅師
岸禅師は并州の人であった。浄土往生を真の本懐とされ、方等懺法を修し、倦むことなく精励された。少し病を得られた時も、観想の修行を休まず続けていたところ、空中に観世音菩薩と大勢至菩薩が現れ、長い間消えずにいらした。岸禅師は郷中の画家をことごとく招かれたが、誰もその御姿を写し取ることができなかった。すると突然二人の者が現れ、「都から五台山に向かうところです。菩薩像を描くことに巧みで、お力になりたい」と言った。描き終わると、岸禅師は履物二足を贈られたが、二人は忽然と消え失せた。岸禅師は浄土との縁が熟されたことを知られた。弟子たちに告げられた。「私は浄土に往生する。お前たちは誰か同行するか。」一人の童子が稽首して申し上げた。「私も師に従って参ります。」岸禅師は童子に、両親に暇乞いをしてくるように言われた。両親は童子が冗談を言っているのだと思ったが、童子は沐浴し浄衣に着替えて念仏堂に入り、仏号を称えてそのまま亡くなった。岸禅師は童子をしかられた。「どうして私より先に行くのか。」そこで筆を執って二菩薩を讃える偈を作られた。
観世音菩薩 遠方より来たりて迎え奉り 大勢至菩薩 隔たりより扶けて迎え奉る 宝瓶は宝冠の上に照り輝きて 化仏は眉の前に光り耀く 十方の仏国土を共に遍歴し 蓮華を手にして九品往生の衆生を待つ 願はくは慈悲の手を挙げて導き給え 我らを率いて共に西に往かんことを
偈を誦し終わって、弟子たちに別れを告げ、念仏堂に入り、弟子たちに仏号を念じさせるように言われた。正坐のまま八十歳で亡くなられた。
○法朗大師
法朗は姑蘇の出身である。観音呪を誦し、その霊験は何度も示された。龍朔二年、城陽公主が重い病に伏した。誰かが皇帝に「法朗は秘呪を誦することができ、多くの病を癒してきました」と奏上した。皇帝は彼を宮中に召し、壇を設けて法朗に呪を誦させた。二晩にして公主は回復した。公主は寺の扁額を「観音寺」に改めるよう願い出て、法朗はその寺に住むこととなった。
○ 僧玄
僧玄は并州の出身である。九十六歳のとき、『安楽集』を著わし『観経』を講説していた道綽大師に遇い、阿弥陀仏の御名を称える心を起こした。命が尽きようとしていることを畏れ、毎日千遍仏に礼拝し、阿弥陀仏の御名を八万遍称えた。五年間、この一心の修行を懈怠しなかった。重病に臥したとき、弟子たちに告げて言った。「阿弥陀仏が、芳ばしい衣を私に授けるために来たってくださった。観音菩薩と大勢至菩薩が阿弥陀仏の御前に並び立ち、化仏が空を埋め尽くしている。ここから西はことごとく浄土である」。かくのごとく言い終えて入滅した。
○ 懐玉
懐玉の俗姓は高で、丹丘の出身である。戒律を厳持し、寸分の譲歩もなき清廉の人として知られた。一日に一食のみを摂り、長く坐禅を組み、身に蚤・虱のわくままに任せた。持つところは綿の衣一枚のみ、ひたすら懺法の修行に励んだ。日課は阿弥陀仏の御名を五万遍称え、『阿弥陀経』を全巻読誦するもので、生涯に通算三十万遍に及んだ。天宝元年六月九日、忽然として西方浄土の聖像が恒河の沙数の如く現れた。銀の台を捧持する男が窓より入った。懐玉は言った。「私は金台に値する者である」と。銀台は退いた。懐玉は一層精進を重ねたところ、仏光が室に満ちた。十三日、丑の刻(午前一~三時)、仏の白毫光が再び現れ、聖衆が室内に満ちた。懐玉は言った。「妙香を嗅ぎしとき、それが我が臨終の時である」と。偈を述べて終えると、室に異香が満ちた。海会の聖衆が顕れ、阿弥陀仏・観音菩薩・大勢至菩薩が紫磨金色の御身をまとい、金剛台に乗り相共に迎えに来た。懐玉は微笑して入滅した。その肉身は今日に至るまで伝えられている。
○ 神智
神智は婺州義烏の出身である。俗姓は李。幼くして清浄な道心を懐き、出家の志を抱いていた。雲巌寺に入って維孝禅師に師事し、一食の日課を守った。大悲呪を誦し、常に呪力により水に加持して万病を治すに用いた。その水を飲む者の多くは平癒した。民衆が群をなして訪れ、日々数えきれないほどの杯を受けた。世人より大悲僧と称せられるようになった。大中年中、都に上った。このとき宰相裴休の娘が鬼神に憑かれていた。神智が七日間にわたり呪を誦したところ、娘は平癒した。その後奏請したところ、寺に「大中聖寿」の扁額を賜った。
○ 董雄
貞観の世、河東の人、董雄あり。大理寺の主簿たり。少壮より仏法に帰依し、十年にわたり菜食を守る。貞観十四年、李仙童の獄に連坐す。帝甚だ怒り、韋聰に命じて厳しく鞫問せしむ。主簿の李敬玄及び官人王忻ら数十人、同じく獄に連ぬ。雄、『法華経普門品』を一日三十回読誦す。
ある夜、坐して経を誦ずるに、鎖忽然として解け、地に墜つ。雄驚き、敬玄・忻に告ぐ。二人の来て見るに、鎖は地上に在り、全く損ぜられず。然れども鈎と体と相去ること数尺。守衛を呼ぶ。
是夜、直に当たれる御史の張守一、吏に命じて再び鎖めさせ、燈を照らして見せしむるに、鎖は実に開けずして、分離して離れ居たり。怪しみて、復た鎖め、紙を以て封じ、立ち去る。雄、読誦を旧の如く続ける。五更に至りて、鎖また鏗然と解けて落ちたり。雄、之を他の人に告ぐ。明旦、敬玄に白す。検するに紙の封は旧の如し、然れども鎖自らかつれて離れ居たり。
敬玄、かつて仏法を信ぜず。其の妻経を読む毎に、嘗て曰えらく「何ぞ自ら惑わされて、この夷神の書を読み給うか」と。雄の事を見て、始めて不信の誤を悟り、仏は真に大聖なることを知りぬ。王忻もまた八大菩薩の名号を誦し、三万遍を畢んぬ。其の鎖もまた昼に開けて、雄が如し。皆之を怪しみ、未だ幾ばくならずして共に赦免せらる。
○徐善才
徐善才、礼泉県の人なり。
斎戒を精しく保ち、『観音経』一千余遍を読誦す。常に京師の延興寺に於いて修福す。武徳二年十一月、事に因りて郷里に歸らんとし、途次道に胡賊に遇い、捉えられ引き去られ、邠州の南境に至る。賊、凶暴惨虐、既に漢人数千を擒にせり。手足を縛りて洪雅に趣かしめ、則ち人を遣わして一人ずつ斬らしむ。其の頭みな崖より落つ。
善才、己より前の者の死するを見て、亦まさに至らんと知る。惟だ観音を一心に念じ、暫時も停息せず。其の時至り、刃まさに落つべしとするに、心中に静まりて明白なるものあり。申の刻に斬られたるに、初更に至りて渓の奥の樹の上に坐するを覚ゆ。崖の縁より三百歩余を隔つ。
「なぜ自分はここにいるのか?」と彼は思った。しばらくして、はっと気づいた——まさに今日、殺されたばかりなのだ。それなのに、ここに無傷のまま、木の中にいる。手を伸ばして頭の頂に触れてみると——首筋には微かな痛みがあるが、傷はない。観音の聖号を絶え間なく唱え続けたおかげで、身体も命も救われたのだと、ただちに悟った。その日はちょうど十五日、月は明るく照っていた。衣もなく、食もない。寒い空腹の日々が数日経った後、夜明け方に木から降り、小川に沿って東へ二里ほど行くと、渓谷の半ばに半ば埋もれるようにして羊の皮の外套と長靴があった。身に纏う。さらに一里も進むと、桃と棗が一箱、青いもの、赤いもの、淡い色のものが、ちょうど摘みたてのように合わせて一升余りも入っていた。思う存分食べた。観音の御加護なくして、まさか真冬にどうして新鮮な桃や棗があり得ようか。十分に温まり休んでから、彼は南の斜面を登り、南岸に出て振り返ると、山賊の営地は数里先にあり、人と家畜の騒めきがいまだ収まっていない。家路を急ぎ、およそ五十里を歩いた。賊たちが遠くへ去ったと知った時、心身ともにゆるりと安らいだ。木陰に休み、結跏趺坐して唱え始めると、いつの間にか眠りに落ちた。四更(午前一時から三時)にはっと目を覚まし、目を開けると、大きな蒼い狼が目の前にうずくまり、鼻面を彼の鼻に押しつけているのが見えた。善財は再び目を閉じ、念じた。「もし汝が真に前世からの怨敵ならば、この身を食らって因縁を済ませよ。共に怨みを放下し、共に慈心を起て。もし汝が観音ならば、どうか弟子を救い給い、安らぎをたまえ」。念じ終わって目を開けると、狼は跡形もなく消え失せていた。
かかる事蹟は、まさに諸仏慈悲の根本が縁に応じて広く伸展し、限りなき利益をもたらすさまを示している。今日、称名しても効験がないのは、概ね心が散乱しているからか、あるいは過去・現世の悪業がのしかかっているためである。帰宅した善財は、残りの桃と棗を僧俗に見せたが、彼の語るところの真なることを疑う者は一人もいなかった。
○ 慈蔵
慈蔵禅師は俗姓を金といった。父の武林は正一品の高官であった。位高きにあり、最も重要な政策議論を一任されていたが、後嗣に恵まれず、年を経るごとに憂いは深まるばかりであった。日頃から仏法に帰依していた彼は、神助を求めて観音経千部の写経を発願し、たとえ一子を得ることがあるなら、成長の後出家して衆生済度のために尽力せんことを祈った。夢に答えがあった——星が懐に落ちてきて、妻は身ごもった。妻は四月八日の吉日に出産し、僧俗ともにこの稀有の奇瑞を喜んだ。少年が成長するにつれ、世の栄華に倦み、すべての事象は無常にして、ついには空に帰するものであることを深く悟った。貞観年間に出家した。二体の菩薩が天より降りて、親しく彼に戒を授けられた。仏法を広く弘め、人と天人双方に利益を及ぼした——父の祈りは、ここに空しからざりき。
○ 自覚
自覚は博陵郡望都の出身であった。幼いころから世俗の塵を嫌い、戒律・経典・論書を九年かけて学び、その奥義をことごとく究めた。のちに平山の国境近く、沖林山と名付けた草庵に住んだ。周囲は深い山林と幽かな渓谷で、至るところに虎狼の足跡が残っていた。野の果実や草木を採って食とし、暁に一日一度だけ食事をした。仏道に入ってからは、諸仏が説かれた四十八大願を自らに誓い立てた。第一は常に大悲観世音菩薩の御前に住むこと、第二はかの菩薩の金像を鋳造し本堂を建てることだった。願いを発するとすぐに、多くの寄進者が現れ、純金で像を鋳造した。像の高さは四十九尺、仏像の面立ちは静謐で尊厳に満ちていた。一年後には本堂も完成した。
ある夜、彼が壇の前で読経をしていると三更(深夜十二時頃)になったとき、純金の色をした二筋の光明が現れた。光明の中から阿弥陀仏が、観音菩薩と大勢至菩薩を脇侍として姿を現された。仏は金の腕を伸ばし、自覚の名を呼びながら雲の間からゆっくりと降臨し、その手を自覚の頭に置いて言われた。 「願いを堅持して退ってはならない。懈怠慢心を起こしてはならない。まず衆生の利益を優先せよ。お前が行くところ、私は必ず付き従う。心の赴くままに行動せよ」 言い終わると、雲は散り、香気も跡形もなく消え去った。
願いを果たした自覚は山林に帰り、生涯を終える場所を選んだ。貞元十一年(795)二月十五日の夜、半ばの姿をした神人が毘沙門天の姿を現し、言った。 「師匠、今年中に涅槃に入られます」 自覚は手を挙げて感謝し、答えた。 「死出・死入りは定められた命の中にある。承知いたしました」 同年六月十四日、静寂の中に涅槃に入った。
○ 僧仁
僧仁は俗姓を石とし、沛郡陳留の出身であった。自身の血を墨として経典を书写した。『大悲経』を読誦し、観音菩薩の四十二の手印を学ぶなかで、施無畏印に至ってもまだ疑いが残った。そこで壇を設け、十日間祈祷を続けた。すると真の印契が空中に現れ、両の手がはっきりと見えたため、画家に命じて描かせた。これを嘲笑する者もいたが、僧仁はますます祈祷に精を出した。画家が筆を銅の器で洗うと、水中に奇妙な花が現れ、茎も根も花弁も葉もみな鮮明だった。見ていた人々は驚嘆した。僧仁は合計二百八十三巻の血書経を書写した。また高さ三十五尺の毘盧遮那殿を描き、門の幅は一丈六尺とし、大悲の功徳を描いた三巻を制作した。さらに自ら大悲経の疏を六巻書いたが、これらはすべて箱や箪笥に納めて保管された。咸通十二年(871)七月十日に逝去し、諡を広慧(広い智慧)と号し、塔を念定(心の観察)と名付けられた。
○ 慧日
慧日師、俗姓は辛、東萊の人。中宗の御代に出家す。後に義浄三蔵に遇ひ、西域に往かんことを決す。船出して海上三年に及び、東南の海諸国——崑崙・仏歯・獅子国等、凡そ遍く歴て、印度に至る。茲に聖跡を拝礼し、梵本の書を求め、碩学に参問すること併せて十三年なり。法を得、既に他を利せんことを欲し、拄杖を執りて帰途に就く。孤影隻身、雪嶺と西域の諸蕃とを渡る。更に四年の行程、艱苦多かりしかば、この世への厭離いよいよ深し。何れの国何れの処に苦なき楽有らんや。何の教何の行、最も速かに仏道を成さんか。印度の僧徒学者に遍く問ふに、皆浄土の門を称揚し、如来の金口によりて証誠あり、一生の径路と為り、此の身尽きなば必ず極楽国土に生れて、弥陀如来に親しく奉仕すべきことを説く。慧日深く敬信して領受す。
乃ち北天竺の犍陀羅国に至り、王都の東北に大なる山あり、其の頂に観音像立てり。心誠にして祈り請ふ者は、其の像時に現ずと。慧日地に頭を伏して七日に及び、命終らんまでの断食を誓ふ。第七の夜、未だ夜半に至らざるに、観音空中に現じ、其の身紫金の色、十丈余の高さ、寶蓮華の上に座す。右手を垂れて慧日の頂に按じ、曰く*「汝法を行じて自他の利を成さんことを欲するか。西方の浄土、極楽国土、阿弥陀如来の国——衆生に仏名を称え、経典を読誦し、功徳を回向して彼土に生ずることを勧むべし。汝若し彼に至らば、仏と我等を見て、甚だ大なる利益を得ん。汝自ら知るべし、浄土の門は余の行に勝れたること。」*言畢りて乃ち姿を消す。慧日断食によりて既に疲弊せしも、其の言によりて力を得たり。遂に七十余国を歴ること十八年、開元七年(七一九)に長安に至り、皇帝に仏の真容・梵夾等の法宝を献ず。皇帝聖心を開かれ、慈愍三蔵の号を賜はる。慧日終身浄土の行を勤修し、『浄土往生集』を撰述して世に行はる。其の教、善導・少康と相並び、同じく法門を古今に弘めたり。
○ 長沙の兵卒
長沙の呉氏の兵、蛮の征伐に従軍す。平生漁猟を業とし、偶々白き鼈を獲て、之を美味として食す。忽ち全身に瘡発し、潰爛して止まず、眉毛鬚鬢、手足の指、手の甲等皆脱落す。然れども遂に死せず、安南の市の丐食となる。一の僧之を憐れみ、曰く*「心を翻して大悲呪を誦せよ。我汝に之を口授せん。精勤修習せば、必ず勝報あるべし。」*其の兵、教の如く呪を受く、一心に誦す。其の瘡漸く平癒し、指も再生し、遂に全快す。乃ち頭を剃りて僧と為る。
○ 欧陽燦
欧陽粲は徐州の医師であった。在家にあっては常に大悲呪を誦していた。ある日、城内に出かけたが、帰りが遅くなったところ、雷鳴と稲妻を伴う大雨に見舞われた。帰路の半ば、山と林の間を抜ける道に出た。木々は深く茂り、谷は暗く、猛獣が多かった。粲の恐怖は増すばかりで、雨はいっそう激しさを増した。忽然、十歩ほど先に巨大な生き物が現れた。一丈余りの長さがあり、真っ白で、手足は判然とせず、ただ前方を先導していた。粲は恐怖に捕らわれた。大声で呪文を誦そうとしたが、口が塞がれて声が出なかった。そこで一心に心の中で誦じていると、まもなくその生き物は消え失せた。家に近づく頃、雨は小降りとなり、やがて止んだ。
○ 徐戭
麟徳年間(664–665)、都の永興坊の徐戭は魚を捕って生計を立てていた。重病に罹り、死んだように意識を失い、全身は赤く変じ、痛みは火で焼かれるようであった。彼は言った。「目にしたのは、ただ私を焼きに来る火の車だけであった。役人どもは私が魚を多く取り過ぎたことを責め、私に罪を受けさせて罰せようとした」と。数日間、彼は生死の境をさまよった。親族たちは彼に功徳を積むよう勧めたので、彼は観音像二躯を造らせ、家中に肉と酒を断つよう命じた。ほどなく彼は回復した。
○ 道一
白雲の禅師道一は、その出自が明らかでない。後晋の天福四年(939)、天柱山の西北の麓に草庵を結び、粗末な麻衣をまとい、山野の食物に頼って暮らし、その行いは俗塵を遠く離れたものであった。ある夕暮れ、前方の峰から天に向かって光が射すのを見た。その光の源までたどってゆくと、名も知れぬ珍しい木材があった。これを持ち帰り、彫刻師孔仁前に託して観音菩薩像を造らせた。その夜、夢の中に白衣の人物が現れ、告げて曰く、「像は明日まさに完成せん。洛陽より一人の僧が仏の古き舎利を携えて来たらん。その僧にそれを乞い求めよ」と。まもなく、夢の通りに一人の僧が現れた。道一は舎利を乞い、三粒を得て、像の頭上の宝冠に安置した。その後、舎利はしばしば宝冠より清らかな白光を放ち、像の奇瑞は広く世に知られるところとなった。
○ 智覚
禅師は余杭の王氏にお生まれになった。若くして華亭の鎮将として在任中、公金をもって捕えられた生き物を放ったことがあり、罪により死刑を宣告された。刑吏が到来した時も、容色は変わらなかった。呉越の文穆王はこれを奇とし、罪を減じて出家を許された。その後龍冊寺に住し、衆のために刻苦精進し、一日に一度のみ食し、久しく臥さず坐した。天台の趙禅師より法を嗣ぎ、初め雪竇に留まり、のちに西湖に帰った。建隆二年(961)、忠懿王の招きにより、永明寺の第二祖となられた。在寺十五年、常衆二千あり、智覚の号を賜った。夜は餓鬼に施食し、朝は生き物を放つ。一日の六時にわたり散華行道し、日に百八の威儀を修め、懈怠することがなかった。余暇には法華経を読誦し、通計一万三千巻に及び、別号を抱一子(一を抱く者)という。以前の観想中に観音より口に甘露を注がれ、大いなる弁才を得られた。宗鏡録百二十巻を著し、天台・華厳・法相三宗の諍いを和合調停された。その詩偈は百万の言に及び、海外にも伝わった。高麗王は弟子の礼を以て書状を寄せられ、金糸で織った袈裟・水晶の数珠・金色の水瓶を献ぜられた。開宝八年(975)に入滅された。荼毘の折り、雨のごとく舎利が降り、浄慈山に塔廟が建てられた。
○ 慧叡
浙江省寧波府の沖合に、インド南部の補陀洛迦山に似たる山があり、観音菩薩がしばしば出現された。大中年間(847–860)、西域より一人の僧が来たり、補陀洛迦窟に至り、十指を焼尽して祈ったところ、菩薩の奇瑞の御姿を親しく拝し、勝要の法を授けられた。ここにこの地の名が伝わるようになった。のちに、日本の僧慧叡が五台山よりこの地に至り、菩薩の画像を携えて本国へ持ち帰ろうとした。舟が窟の前に至ると、いかなる方法を講じても前に進むことができなかった。山麓の張氏宅に画像を留め置いたところ、張氏は度々奇瑞を拝し、家を捨てて観音堂とされた。地方の軍監がこれを聞き、属官を使わして画像を城中に迎え入れ、民の加護を祈らせた。のちに積中と名のつく僧が、良材を求めて密室に籠もり、一月を費やして像を彫刻したが、その僧は再び姿を現さなかった。今日そこに安置されている像はまさにこれである。元豊三年(1080)、王舜風が三韓への使者として遣わされた。舟が窟に至るや、突然黒風が吹き起こり、大亀が出て船を山に押し寄せた。舜風が祈ると、菩薩が出現された。船は穏やかとなり、彼は安らかに帰還した。朝廷に全てを奏上し、金と絹を賜り、寺院を海滄山の陽面に移し、『宝陀』の額を賜うた。祈雨晴天の願いはいつも応ぜられた。
○ 岑文本
岑文本は普門品をしばしば読誦した。ある時、舟で呉江を渡っていたところ、舟が転覆し、彼は波に漂いながら岸に流れ着いた。のちに、家で精進潔斎の宴を催したとき、一人の僧が言った。「天下はまもなく乱れるであろう。あなたは幸いにして災難に遭遇することはなく、必ず一位人臣を極めるであろう。」果たして、太宗の朝に中書令(中書省の長)に任ぜられた。
△ 宋
○ 懿禅師は俗姓を胡、字を長招とし、温州永嘉の出身である。あらゆる経論を講じ、自ら注釈書を数多く著わした。四明の育王寺に滞在していたとき、国清寺の上部にある壇に登る夢を見た。そこには荘厳を尽くした法座が据えられ、「文殊台」と刻まれていた。欄干と障壁が巡らされ、中に入るすべはなかった。間もなく、観世音菩薩が堂から静かに歩み出てくるのを見た。二人が挨拶を交わしていると、忽然として自分の全身が観音と一体化し、もはや二人の区別がつかなくなった。ハッと目を覚ますと、その日から法を説く力が尽きることがなくなった。 ある人は次のように彼を評している。 「普門の智慧に入り、あらゆる命を救う慈悲を乗り物とする。上は仏の悟りと一致して最上の境地を証し、下はすべての衆生と一体となって凡夫も聖者も分かち合う。この心を修めた者こそ、ほかならぬ観音そのものなのだ」
○ 宗円禅師は俗姓を龔、高密の出身である。孤高で剛直、妥協することのない性格で、一般人が気軽に近づくことはできなかった。毎日、観音普門品の一部を読誦していた。かつて名高い観相者が、彼の寿命が短いことを告げ、普門品を唱えて寿命を延ばすよう勧めた。太平興国五年十月、自身の入滅の日を予言し、大工に鹿の角をかたどった座を作らせた。たびたび大工を急かしては、「明日の昼までに必要だ」と告げた。予言通り、翌日の正午にその座に座ったまま入滅した。享年八十三。 遺著に『洛西文集』、輓歌五十編が残された。その一つにこう詠まれている。
世に百歳の翁は存在せず、
百年は墓中の塵となるのみ。
我は今八十三、自ら哀歌を歌い、
願わくば一枚の紙衣に包まれて葬られん。
後に棺を開くと、その顔は生者と変わらないほど生々しかった。弟子の淡然馥明が、山中の洞窟に改めて埋葬した。
○ 寂中禅師は俗姓を邱、永嘉の出身である。両親は子宝に恵まれぬまま仏祠に祈り続けていた。ある夜、二人は同じ夢を見た。一人の僧が現れ、健やかな男児を授ける、と言う。その僧は言った。「洛希禅師が、この子をあなたがたに託して育てるように、と」 母親は子を身ごもってからというもの、肉や辛いものを一切口にしなくなった。幼い頃から仏像を見るたびに、敬虔に礼拝していた。八歳で開元寺に入り、朝廷の恩恵を受けて得度した。その後南湖に赴き、光志禅師の下で学んだ。激しい学修の負担がたたって病を患った。観音三昧を実践すると、観世音菩薩が光を放ち、彼の頭頂に水を注いでくださった。たちまち病は癒えた。 これを機に、天台の教えと観法を完全に悟り、迷いの一切が晴れた。師の光志は彼を高く評価し、たびたび自身に代わって法座に上がらせた。雪竇の顕禅師が彼の様子を見て感嘆し、「四明の法脈、ついに継ぐ者を得た」と評した。
○ 王固。元祐二年夏の四月、袁州は旱魃に見舞われ、雨が全く降らなかった。太守の王固は、牟平山の舎利塔に祈りを捧げるため参籠した。すると崖から光が放たれ、金や宝で荘厳された白衣菩薩が姿を現した。彼はまた、ナツメほどの大きさの五色の舎利を得た。その舎利の中には、小さな亭閣や楼殿が透けて見えていた。 その夜、陽山の塔を参拝すると、泗州菩薩、維摩居士、羅漢たちが左右に整列しているのが見えた。間もなく、大地を潤す大雨が降り出した。州政府はこの出来事を朝廷に上奏した。すると勅命により、牟平の塔は「崇慶塔」、陽山の塔は「祥慶塔」と名付けられた。
○ 閭皷蘆禅師(俗姓は周、銭塘の人)、法名は清弁。少年の頃、経典暗誦の試験に合格して出家し、法明寺の慧賢禅師より天台の教観を受けた。かつて重病に臥したが、薬石効なく、ひたすら観音の聖号を称えた。夢に一人の婦人が現れ、鑿(のみ)で胸を開き、心臓を抜き取って新しいものと置き換え、手で按摩した──その場で病は癒えた。それ以来、読誦したものは一切忘れず、筆は自在に運ばれ、著作はいずれも典雅であった。皆、これは文殊菩薩──弁舌の菩薩──の奇瑞であると言った。
○ 杭州・雷峰寺の慧才禅師。元豊元年の三月、僧俗一千余人に菩薩戒を伝授された。その中に霊致・円照の両師がいた。正式な伝戒の儀式の最中、観音像が光を放ち、大講堂は明るく照らされた。浄寺の守一禅師──法珍ともいう──が『戒光の記』を著した。その碑文は米芾が揮毫し、弁才禅師が龍井に建立した。
○ 副宰相の辺之白。元豊二年、都より臨川に赴く途中、暑気に感じて病を得た。夢に白衣の人が現れ、水を振りかけると、頭頂から踵まで涼風が走り、目を覚ますと全く爽やかになっていた。そこで古今に伝わる観音応験の逸話を集め、四巻の『観音応験集』を編纂して世に広く流布した。
○ 菩薩の聖籤。乾竺寺には百本、円通寺には百三十本の籤があり、禍福を占うのに用いられる。その応験はこだまの如く迅速である。伝えられるところでは、これらの籤は菩薩の応現によって作られたとされる。
○ 学士の張康。久しく善行に勤しみ、仏前にて『大悲呪』を十万遍読誦し、浄土往生を誓願した。六十歳を過ぎて病に臥し、一心に仏号を称えた。家族に告げて言う、「西方の浄土はこの堂の前にあります。阿弥陀仏は蓮華の上に座し、幼い翁児が金の地で仏に拝んでいます」と。言い終えるや、仏号を称えて往生した。翁児とは彼の孫で、三歳の時に亡くなった子である。
○ 吉安の王氏女。日々『阿弥陀経』『金剛経』『観音経』を読み、仏号を称えて解脱を求めた。継母と共に浄土の修行を行っていた。病に臥した時、僧を招いて浄土の観法を教えてもらい、ふいに袍を求め、吉祥卧の姿勢で横たわり、観音の持つ旛を取って静かに亡くなった。その母が床に灰を敷いて往生を験したところ、数々の蓮華が灰を突き抜けて咲いたのが見えた。
○ 遵式禅師、台州臨海の人。学行高く古風にして、名は両浙に並ぶ者なし。専ら浄土に帰依す。かつて般舟三昧(常行道念仏の三昧)九十日に及び、その苦しみ甚だしく血を吐けり。堂に入るに及びて足裏の皮破れ、死すとも止まじと誓う。夢のごとく観音菩薩の指を下ろして口に入れ、数匹の虫を引き出だし、指先より甘露を注ぎて口に満たしたまう。身心清凉となり、病い去る。『浄土決疑集』『往生浄土懺儀』を著わし、いずれも世に行わる。天聖年間遷化の日に、香を焚き仏に礼し、諸仏に請うてみずから浄土の主となることを証したまう。その夕べに坐化し、人は霊鷲峰より大星の落つるを見たり。世に慈雲懺主と称せらる。後年明照懺堂を建つるに、一梁挙ぐ一瓦置くごとに、大悲呪七遍を誦ず。この堂、兵火を経るもひとり恙なきは、誓力の致す所なり。
○ 谷定明禅師、臨済宗第十五世の嗣なり。遷化のとき弟子に告げて曰く、「観音菩薩来たり、蓮華を捧ぐ」と。すなわち坐化し、遺骸を闍維するに、舌根・牙・数珠は焼け残り、なお無数の五色舎利あり。史臣魏氏その碑銘を作り、『四会語録』世に行わる。
○ 明教契嵩禅師、藤州鐔津の李氏。七歳にして出家し、具足戒を受けたる後、つねに小観音像を佩び、日ごとに聖号十万遍を称す。経史子集の書を遍く記憶し、洞山聡禅師より法を受く。潜子と号す。一室虚寂たり、門を閉じて著述す。『輔教編』を著し十余万言、儒仏一貫の旨を明かす。また『祖図』『正宗記』を著わす。書を担いて都に至り、州官御史王素の力を借り、仁宗皇帝に進呈す。皇帝深くこれを称賛し、伝法院に命じて校刊せしめたまう。明教の号を賜り、その著は蔵経に入る。忠勤韓公・文忠欧陽公、ともにこれを推重し、名は四海に流布す。涅槃し火葬するに、六根の中眼・舌・童真の三つ焼け残り、頂骨・数珠を合わせれば五つの舎利なり。得たる舎利は紅白相半し、浄光明にして大豆の如し。永安寺の左に塔を建つ。弟子、その著を輯めて『鐔津集』とす。
○ 張孝純。孫あり、五歳にして歩行すること能わず。或人之に曰く、「この頃淮甸の野人あり、足の疾に患うこと久しきも、観音の号を称するを怠らざる者あり。観音、彼に現じて四言の偈を遺したまう」と。
大智慧は心より起こり 心中求むる無し 一切義を円成して 過去も現在も無し
農民が丸百日その偈を唱え続けたところ、長年の持病が癒えた。そこで張小春は孫と乳母に戒を守らせ、二、三か月の間偈を唱えさせたところ、子は以前どおりに歩けるようになった。足や脚に患いのある子がこれを唱えれば、皆癒えたという。
○ 湖州思安鎮に住む翟積は、五十歳になっても子宝に恵まれなかったため、観音像を描いて心から祈った。新たに身ごもった妻が、夢に白衣の女性が美しく光り輝く童子をのせた盆を持って来るのを見た。喜んでその子を抱き上げようとしたが、牛が間に立ちふさがって手が届かなかった。ほどなく男児を出産したが、子は生後一か月で亡くなった。翟積は以前にも増して熱心に祈った。これを聞いた者が、「あなたの息子は牛肉を好んでいた。それが原因ではないのか」と告げた。翟積は深く心を動かされ、家中の者とともに二度と牛肉を食らわぬと誓った。再び夢に白衣の女性が子を連れて来た。今度はその子を腕に抱くことができた。妻が男児を出産し、無事成人した。
○ 毗陵の出身、徐質可は、かつて府試に及第して都に上り、殿試を受けたが、失敗して帰郷した。ある夜、夢に白衣の人物が現れて、「あなたには及第の陰徳が足りない」と告げた。徐が「家は貧しく、施す術もありません」と答えると、人物は「医学を学ぶがよい。智慧を授けよう」と言った。徐は目が覚めてその教えに従い、果たして古代の名医扁鵲・華佗の医術を会得した。患者の身分を問わず、診察し、治療し、薬を施して報酬を取らず、救った者の数は数え切れなかった。後に再び府試に及第して都に上った。平望に船を泊めていると、以前の夢の白衣の人物が再び現れ、偈を授けた。
「薬を施す功徳は偉大なり。陳と楼の間、殿上に賽を振れば、六は五と成る」
徐は意味が分からず、そのまま書き留めた。紹興年間壬申の年、殿試で第六位で及第した。首席の者が資格を剥奪されたため、五位に繰り上がった。上は陳祖衍、下は楼采であり、初めてあの偈の意味が分かった。
○ 嘉興の出身、鮑平、字は新之は、学識才覚に恵まれていたが、何度も科挙に失敗したため、儒仏の教えに心を傾けるようになった。ある日、茅湖のほとりを散策していたところ、村の寺にたどり着き、雨ざらしにされて濡れそぼつ観音像が立っているのを見た。財布から銀十両を取り出し、住職を呼んで建物の修築の費用として渡した。住職は、金額があまりに少ないので、この大きな工事はやり遂げられないと言った。鮑平は松布四匹と衣類七点を持って戻った。その中には新たに仕立てた麻裏の衣も含まれていた。従者がその衣を自分にも分けてほしいと請うた。鮑平は「聖像が無事であれば、私が裸になろうと何の妨げがあろう」と答えた。住職は涙して言った、「銀や布を施すのは大した事ではない。真に買うことのできないのはその心である」と。工事が完成すると、鮑平は寺に一泊し、夢に伽藍神が告げた、「お前の子孫は代々禄を継ぐであろう」と。その後、子の鮑卞も孫の鮑定芳も共に最高位の試験に及第し、高官に上った。
○ 周世衡は、かつて鄱陽の役人を務めていたが、職を辞した後は観音菩薩に深く帰依して仕えた。慶元元年、二百巻の経典を筆写し、人々に読誦してもらうと誓願を立てた。戒律を守り、丁寧に筆写を続け、二十巻を書き終えたまさに次の巻に筆を入れようとしたとき、数十羽のカラスが屋根に集まり、追い払っても去ろうとしなかった。立ち上がって観音菩薩像の前に祈りを捧げ、外に出てカラスを追い払うと、その中に矢に当たって血を流している個体がいた。残りのカラスはそれを助けようと矢を抜こうとするが叶わず、悲しげに鳴いていた。周はすぐに宝勝如来と救苦観音の名を唱え、筆をそのカラスに向けた。すると矢は自ずと抜け落ち、カラスは空に飛び立った。周が驚いている間に、矢は天窓を抜けて仏壇の脇に落ちてきた。なんと奇異なことだろう。
○ 楊良は、建昌の歩兵であった。淳熙の末期、病に倒れると、二人の役人が召喚の文書を携えて彼を冥府の法廷へと引き立てるのが見えた。閻魔大王が問うた。「お前は生涯でどんな功徳を積んだのか?」楊良が答えた。「私は使い走りの雑兵で、命じられた仕事は必ず期日までに果たしました。」大王は言った。「そんなことは聞いていない。他に、人に知られていない善い行いはなかったのか?」楊良は自分が冥府にいることを悟り、答えた。「私がしているのは、ただ観音経を読誦することだけです。」大王はさらに問うた。「他にはないのか?」「私のような身分の低い者に、大した功徳などあるはずがありません。ただ自分の分を守り、誰も傷つけなかっただけです。」大王は彼の功徳の記録を調べさせたが、彼の言った通りだったので、生還を許した。
○ 林翁という老人がいた。福州の南台寺が新しい観音菩薩像を鋳造したとき、大工たちが古い木像を捨てようとしていたので、林翁はそれを家に持ち帰って供養したいと願い出た。後日、海に船で出ていたところ、船が破損して海に落ちてしまった。命の危険を感じた林翁は、観音菩薩に救いを求めた。「どうかお救いください!」すると間もなく、彼の体はひとりでに浮かび上がり、流れてきた板にしがみついて乗ることができた。空から落ちてくるかと思うような高波が押し寄せたが、流れに任せて数百里も漂流した末、小さな入り江にたどり着いた。そこには、行方不明になっていた貨物の入った箱があり、十分な量の品物が入っていたので、故郷に持ち帰ることができた。これも、ひとえに観音菩薩の加護のなせる業であろう。
○ 千手千眼観音菩薩讃(四明尊者 作、『大悲経』に拠る) 敬して過去の正法如来、そして今ここに臨みたる観音菩薩に礼拝申し上げる。菩薩は功徳円満、慈悲広大、一身の中に千手千眼を現じ、すべての実相を観照し、あまねく衆生を護り育て、悟りの道を求める広大な心を起こしたまう。菩薩は衆生に円満無上の神呪を授け、永遠に悪道を離れ、仏の前に生まれ変わることを叶えたまう。五逆の重罪、治る見込みがなく体を縛り付ける病、すべてを払い除けたまう。現世で三昧と弁才を求める者には、望みのままにすべての願いを叶えたまう。速やかに三乗を証し、早く仏国に到れるよう導きたまう。菩薩の威神と功徳は、言葉を尽くしても称え尽くせない。さればこそ、一心に帰依し、頭を垂れて礼拝する。
○ 礼観音文
身口意の三業を清め、一心五体を地に伏して、広大感応の観音菩薩、十方の慈父に帰依したてまつる。聞くところによれば、菩薩は聞・思・修の三慧によりて三昧に入られ、二種の契合、四種の不可思議、十四の無畏、十九の説法、七難消除・二求成就の威神力、三十二の応身、無量の功徳を具せられたまう。大威神力を具し、大誓願を起こして、九界・六道・四生に遍く赴き給う。生死の流転の中、百千万億那由他劫——恒河の沙数の如し——善巧方便を行じ、休息なく一切衆生を済度したまえり。ここに謹んで請い奉る、必ず加護を垂れたまえ。
我、某甲、かくのごとく自らを省みる。宿世の善縁ありて仏の教法に値い、身形は出家すれども、心は道に染まず。愚痴にして邪見を抱き、六根鈍くして塞がる。内外の経論を学ぶといえども、章句の奥義を窺うこと能わず。しかのみならず、功徳浅く命短きを恐れ、空しく出家門に入り、生死を徒に過ごさんことを恐るるなり。
今、心を洗いて血涙を流し、至誠を尽くして叩頭したてまつる。日夜、聖顔を念じ、聖名を称え、聖像に礼拝す。願わくは天耳一切を聞こしめし、慈悲能く苦を済い給う菩薩、哀れみもて我に加護を垂れ給わん。大光明我が身心を照らし、甘露我が頭に灌がんことを。多生の罪障を洗い除き、千生の垢穢を清めて、身心清浄にして諸魔障礙みな除かれ、昼夜坐臥、菩薩の大光明を放ち給うを見ん。我が智慧の本性を覚ましたまえ。
願わくは我、某甲、かくのごとく、直ちに行願を開展し、智慧鋭利にして、一切経文よく記誦し、一切法理自然明了し、大辯才・大智慧・長寿・大安楽を得んことを。参禅の道において魔障なからんことを。無生法忍を悟り、生々世々に菩薩行を履み、以て四恩を報じ、三界に功徳を回向し、法界一切衆生をして円満の智慧の種を得しめんことを。
○ 仁宗皇帝。御名は循、真宗皇帝の皇子なり。天聖元年、皇帝は常に玉冠に観音像を嵌めたるものを戴き給う。侍臣、玉の重さ堪え難きを以て、改めさせんと申し上げき。帝曰く、「三公百官は下より朕に拜す——天下の最も徳ある賢臣なり。朕、焉んぞその拜を受くるを得んや。君臣の礼のみあり。此の冠を戴くは、菩薩に返礼せんがためなり」と。
○ 英宗皇帝。御名は宗実、仁宗の兄なり。治平二年、杭州刺史沈文通、奏したてまつらく、天竺寺の観音菩薩は、後晋の世より今に治平に至るまでの間、国家を陰翊し民を恵み、古今奇瑞顕著なること多しと。宰相曽公亮、其事蹟を詳細に具陳し、帝「大悲応現観音閣」の額を賜う。
○ 曾公亮(そうこうりょう)、字は明中(めいちゅう)、泉州出身。母親の喪に服して帰郷の途中、円達(えんだつ)という名の僧が、銭塘への船旅に同道することになった。円達が天竺寺に参拝しようと門をくぐったとき、白い平服を着た女性が彼にこう言った。「曾公は57歳で中書門下平章事に就くことになります。そして座の高い僧さん、あなたもまさにその年に朝廷から大師の号を授かるでしょう。」言い終わるやいなや、女性は姿を消した。曾公亮が57歳になったとき、本当に宰相となり、円達は曾公の推薦で大師の号を賜った。
○ 孝宗(こうそう)皇帝。名は慎(しん)。高宗皇帝の皇太子に立てられ、のちに即位された。隆興元年(りゅうこうぜんねん)の7月、皇帝は宣徳殿で斎を行い、菩薩への讃歌を作られた。「ああ、菩薩よ。本来は究極的に覚り尽くした存在でありながら、なお説法によって世の導き手となってくださる。その光はあまねく全てを照らし漏れなく、等しい慈悲の心で全てを見守ってくださる。呼びかけければ必ずお救いくださる、その不思議は人の思考を超えている」。またあるとき、天竺寺に参拝した際、歩行の形の観音像を目にし、湘堂禅師を呼んで尋ねられた。「菩薩が手に念珠を持っておられますが、何をお唱えになっているのですか?」禅師は答えた。「他を求めるよりは、自分自身を尋ねる方がよい」。皇帝は大変喜ばれた。
○ 理宗(りそう)皇帝。名は昀(いん)。寧宗皇帝の甥にあたり、即位された。淳祐元年(じゅんゆうぜんねん)、皇帝は夢の中で、竹と岩石の間に坐す観音菩薩を見られた。目が覚めた後、その光景を絵に描かせ、石に刻ませ、次のような勅讃をしたためられた。「菩薩の霊力は計り知れない——姿を隠したり現したり、そのあり方は測り知ることができない。その功徳には限りがない——祈りに応じてくださる速さは、雷光のようである。時節にかなった雨が降り豊年となりますように——どうか我が民を守りたまえ。武器を収め刑罰をやめますように——どうかこの国が栄えますように」。また「広(こう)・大(たい)・感(かん)・応(おう)」の4文字を書いて、菩薩の名の上に掲げた。さらに『般若心経』1巻を写経し、上天竺寺に賜って石に刻ませられた。
○ 真徳秀(しんとくしゅう)、字は景元(けいげん)、もとの姓は沈(ちん)。孝宗皇帝の名(慎)を避けるため、姓を真に改めた。端平(たんぺい)の時代に国政に参与し、没後に文忠(ぶんちゅう)の諡を贈られ、西山(せいざん)先生と称された。かつて『普門品』(ふもんぽん)の跋文(ばつぶん)を書いたが、その中にこうある。「唐の時代、役人の李敖(りこう)が薬山惟儼(やくざんいげん)禅師に尋ねた。『黒い風が船を吹き飛ばし、人を幽冥の国に落とすというのは、どういう意味ですか?』禅師は言った。『この李敖の小僧め、なぜそんなことを聞く』李敖は驚き、その表情に怒りが表れた。禅師は微笑んで言った。『そのような瞋恚の心を起こすことこそ、人を鬼の国に吹き飛ばす黒い風なのだ』。ああ、薬山は本当に人を導く優れた先生だった」。
こうした話から私たちは知ることができる。燃え上がる欲望は火の底無し沼であり、貪りに沈むことは苦しみの海である。心が清らかであれば、猛火も涼しい水たまりに変わる。ほんの少しの覚醒の瞬間に、迷いの舟は向こう岸にたどり着く。災難や苦しみに縛られていても、心が安らかであればどこにいても平安だ。恐れはない。まるで自分を縛っていた鎖が自然にほどけたかのようだ。残酷な人がやってきて迫害しても、その悪意をやり過ごせばよい。私の中に怒りや恨みはない。まるで荒れ狂う野獣が自ら逃げ去ったようだ。この経典を読み、こうした教えを心に抱く人は、普陀洛迦山の観音菩薩が本当に衆生のために救いの手を差し伸べてくださっていることを知る。そしてこの言葉は、決して空しいうそではない。
△ 元代
○ 孟潤尊者。孟潤は字を漁港といい、嘉禾の人、顧氏の族である。母は彼を懐妊した時も出生の時も、並びなき奇瑞の夢を見た。14歳にして出家し、刻苦勉学のためか怪しき病に侵された。そこで観音懺法を四十九日間修したところ、神応を受け、病は平癒し、心は倍加して明徹となった。遂に大徳となり、得桑寺・天竺寺の法席に登り、門下千余の徒を有した。曾て法華三昧と大悲呪の三昧を行じたところ、奇瑞感応は枚挙に遑がない程であった。それ故に、その隠れた徳と密かな悟りは、浅識の者には容易には窺い知れなかった。
○ 真浄尊者。真浄は字を如菴といい、華亭の姚氏の子である。母は白き月が懐に落入する夢を見て、之を妊娠した。ある奇僧が彼女に告げて曰く、「この子は海月禅師の再生である」と。9歳にして出家し、無極法師に法を嗣ぎ、その教えを悉く吸収した。元朝の泰定年間、丞相托歓の推薦により下天竺寺の住持に任ぜられた。それ以前、真浄は重き病に罹っていたが、夢に白衣菩薩(観音)が瓶より水を彼の口に注ぎ入れて曰く、「汝は自ずから癒えるであろう」と告げた。元皇帝は彼の法を大いに敬重し、「仏心広演」の称号を贈り、紫の金襴袈裟を賜った。彼が遷化して荼毘に付された時、彼の舌根は焼け残っていた。常に法華経を擁護していたからである。
○ 弘済尊者。弘済は字を通州、法名を天庵といい、余姚の人、姚氏の族である。幼少にして出家し、法華経・金光明経等の懺法を行じたところ、奇瑞が生じた。元朝泰定の元年、万寿寺と円覚寺の住持を務めた。翌年、塩官の海岸の崩壊が始まり、在地の居民を脅かした。潮は迅く猛威を振るい、人々はこの土地が魚鼈の栖となることを恐れた。丞相托歓は深く憂慮し、弘済に上天竺寺の菩薩に祈請するよう依頼した。その夜、海岸に水陸法会を厳修した。弘済は慈悲三昧に入り、手に砂を執り大悲呪を唱え、大衆を率いてこの砂を崩壊した海岸一帯に撒き散らした。彼の足跡の至る所、汀は再び堅固となった。これを目撃した人々は皆、彼を神人の如く敬慕した。
○ 念常禅師。法名は海悟といい、華亭の人、黄氏の族である。母は楊氏の女にして観音菩薩に祈り、濃眉の老僧がその家に一宿する夢を見て、之を妊娠した。生誕の時、奇瑞の光が室に満ち、微かな異香が漂った。幼時平江の円明寺に出家し、広く諸宗の教典を学び、希愚稽禅師より法を嗣いだ。帝師に寵愛され、金書の大蔵経を書写する僧団に加えられた。22巻の『仏祖統紀』を編纂し、世に広く流布し、当時「沙門の班固・司馬遷」と称された。
○ 円章尊者。字は無名、千源禅師とも称され、蕭山の人、董氏の族であり、母は何氏である。若き頃病に罹った。母は観音に祈り、もし病癒せば出家せしめんと誓い、始めて健康を回復した。九流の学と諸子百家に精通し、霊芝法師に律学を学び、中峰禅師より心印を受けた。天龍寺に隠棲し、毎日二匹の蛇が来て彼の法座に巻きついた。禅師はこれらに三帰五戒を説かれた。蛇は頭を上下に動かし礼拝の舞をなして去った。それ以来、その名声は遠近に広まった。朝廷は特に上等の香、紫の袈裟を賜い、「普応妙弁」の称号を贈った。中原の人々も遠方異国より来る人々も、ことごとく彼を敬仰した。
△ 明代
○ 明の太宗皇帝御製 大慈大悲観世音菩薩讃 観音すでに妙なる円覚を証し、 入流にして己を忘れ聞くところを忘る。聞くより覚りに入り、覚れる所は空なり。 清き宝珠の如き智慧は円満なる三昧を成し、 その慈悲の力は仏と斉し。 神力自在にして自然に造らず、その功徳 百宝の荘厳、種々の摩尼の光を耀かす。 普陀洛迦の山上には満月の面を現じ、 摩尼の眼、蓮華の瞳子。 迦陵頻伽の瓶の水は滄海波を融かし、 柳の枝、一葉ごとに春風の中に生まれ、 世を出でてその妙用限りなし、 三十二身に随応し、衆生の方便に赴く。 四種無畏、功徳尊く高く、 その名を讃ずるは鐘を敲くに似たり。 感応は壁に隔つる声の如く響渡り、 障碍あることなく、ことごとく覚りの耳に達す。 迷に沈める者を救い、惑える者の眼を開きて、 大慈悲力は真に敬崇すべきなり。 恒河の砂の如く、その加護の数は限りなし、 機に随い縁に随い、各々その用をなす。 法界悉く遍満し、その福徳は満ちて、 動静相離れて、二相の迹は杳として無し。 妙なる光明、寂静、本性を明らかにし、 智慧の光は普遍に七宝の丹光を照らす。 能くこの理を徹見する者は、十方の空なることを見る。
○ 魚籃観音画像の讃 文憲公宋濂
余、観音の応験記を閲するに、唐の元和十二年、渭水の西の金砂灘に、美しき少女あり、筐を擔ひ魚を鬻げり。土地の男子、競ひて之を妻とせんとす。女子曰く、「我能く経を講ず。一夜にして普門品を誦する者あらば、我をして其の妻と為さしめよ」と。明け方に及び、二十人能く之を行ふ。女子曰く、「一身豈多くの夫に對すべきならんや。請ふ金剛経に改めよ、亦前の如くすべし」と。其の半ばのみ能く之を行ふ。復た辞し、重ねて法華経に改め、三日の期限を立て。馬氏の子のみ能く之を行ふ。女子、之をして婚礼の禮を備へ、之を迎ふるに、室に入るに及びて忽ち死し、屍骸瞬時にして腐爛し遺す所なし。之を急ぎ葬る。数日を経て、一僧馬氏の子を伴ひて墓を開き、中を看るに、唯だ黄金寶玉の骨のみ遺れり。僧曰く、「是れ観音の応化、汝を化度せんと欲するなり」と。言ひ畢りて空中に飛揚し去る。其れより陝西の人、経を諷誦する者多し。武陽の劉氏、蒯の人呉福に命じ、金碧を以て其の図像を畫かしめ、毎月朔望に展拜せしむ。余に其の事を記するを請ふ。因りて之を書き、仍て此の讃を繋ぐ。
「大菩薩、一切衆生に慈悲あり、 五欲に執着して解脱を求めず。 是の故に女身を應現し、端厳にして愛敬あり、 恰かも貪著の物を以て、善門に引入したまふ。 瞬息にして忽ち壊れ去り、 紅蓮の如き時は、芳華美麗なること人を醉わしむ。 今や腐臭して、蟯蛆の囓る所と為れり。 世間の諸相は本來空寂、 衆生愚癡にして虚を以て実と為す。 飛蛾の燈火に赴くが如く、競ひて止むことなし。 若し其の終に遇はずんば、争でか能く止むを得んや。 是の真實の相は、圓滿にして大空に同じ、 醜陋美麗あることなし、孰か能く之を壊さん。 菩薩の精神は天上の月の如く、 浄穢を揀擇せず、平等に照らす。 歸依する者は皆大益あり、 願はくは我等倶に一切智海(sarvajna)に歸せん。」
○ 劉古顕。古顕は黄州の人なり。侍衛親軍左衛の軍籍に在り、嘗て内官鄭和に従ひ使者として諸の海外の国に渡れり。滄海を渡るに、古顕、偶爾蹉跌して船より墜つ。風強く船の行くこと疾く、人なほ之に及ばずして援引することを得ず。鄭和一人の水手に命じて桅梢に攀ぢ上り望ましむ。遠く波間に一人浮沈し、數十里の外に去れり、其れ必ず生くるに及ばざるを知る。少時にして、古顕船の旁に至る。水手大いに喜び、縄を以て速やかに引上げたり。一の大魚長十餘丈、船の旁より徐に去れり。衆皆之を怪しむ。古顕曰く、「我の溺れざしは此の魚の力なり。彼我を背負ひて此に至るに、沈まんと欲するや、數の魚其の鰭と鰓蓋を以て我を扶け上げ、遂に一滴の水も嚥まざりき」と。水手古顕に問ふ、「子が生平何の善を行ひて、此の奇瑞を受くるか」と。曰く、「我ただ観音経を諷誦するのみ」と。
○ 暹禅師は法諱を鼓庵と号し、俗姓は陸氏、母は金氏でした。母が夢に五彩の雲の中に観音菩薩が現れるのを見て、間もなく師が生まれました。20歳(弱冠)で髪を剃り戒を受け、天庵・法海の両師に従って天台宗の大小の章疏をことごとく修め、弁舌は泉が湧く如くでした。華厳・賢首の両大徳にも参学し、修行の名声がますます高まりました。龍首・延福などの寺の住持を務め、四方の学人が集い、教化して導きました。晩年は専ら西方浄土への往生を願い、瑞祥を見せて遷化しました。
○ 宝瑾禅師は法諱を碧峰と号し、永寿の出身で、俗姓は石氏です。父は郷里の長老として知られ、母は張氏で、常に善行を積んで倦むことがありませんでした。托鉢の僧が張氏に観音像を授け、「この像を大切に持っていれば、智慧の子を産むでしょう」と言いました。間もなく師が生まれ、部屋中が白光に満ちました。6歳の時に曇珂法師に師事し、髪を剃って具足戒を受け、性相二教の教えを究め尽くしました。やがて西蜀の如海禅師から特に伝法の奥義を受け継ぎ、凌霄庵を建てて弟子たちを住まわせると、檀那が続々と集まりました。元の順帝から法衣を賜り、「光明清浄」の号を授かりました。明の洪武3年、勅命により京師に召され、皇帝の前で奏上したところ帝の意にかなって大いに褒美を賜り、12韻の詩を授かりました。その詩には「玄門は全く証され、我はすでに正覚を得たり」とあります。行く先々で有情を救い、まるで生きた仏が現れたようでした。
○ 圓登尊者は字を大有と申し、姑蘇の出身です。母は陶氏で、圓登が生まれる前に観音菩薩に祈ったところ、子を授かりました。幼い頃から聡く敏達で優れた資質を持ち、南京の浄覚法師に師事しました。仏教の経典も儒教の古典も広く学び、漏れがありませんでした。水西寺の住持を務め、『観幻内篇外篇』を著し、儒仏の教えを一貫した思想体系にまとめました。学士の宋濂が彼を明の太祖洪武帝に推薦したところ、帝は厚遇し、勅命により翰林学士として登用しました。
○ 孟禅師〔原本、名に一字欠く〕は俗名を智火と申し、日本の志州の出身です。母は普門菩薩(観世音)に祈ったところ、金光を呑む夢を見て懐妊し、生まれた時には部屋中が瑞光に満ちました。9歳で出家し、律師の慈灌に弟子入りし、20歳で具足戒を受けました。後に怡山宗禅師に参禅したところ、怡山禅師は「我が宗には他に示すべき法はない」と仰いました。師は刻苦して参禅を続け、目を閉じて眠らないほどの修行をしました。高峰禅師の言葉を聞いて大悟し、偈に「漫に虚空の骨を打砕く」と詠んだところ、高峰禅師がその悟りを印可しました。南禅・善瑞光・兜率・普陀などの名刹の住持を務め、「正覚」の号を賜り、三代にわたり教化を広め、名は四海に響き渡り、日本の人々にとって大きな名誉となりました。
○ 程浄比丘尼は字を石修と申し、広州府固崗の出身で、俗姓は張氏です。幼い頃から菜食の戒を守り、品行清潔で、郷里の真範庵の庵主に師事しました。剃髪した後は、専ら『涅槃経』などの大乗経典を誦し、特に師に仕えることを怠りませんでした。中年で具足戒を受け、しばしば私のところに来て戒律について尋ねました。常に浄土に心を寄せ、阿弥陀仏の名を口に唱え心に念じて絶やすことがありませんでした。慈悲深く寛容で、振る舞いは衆人の模範となり、温和で忍耐強く人々を教化したので、僧俗問わず敬われました。私は思うに、彼女は本願の力に乗ってこの世に現れた菩薩だったのでしょう。ある時、人々に勧めて栴檀の千手千眼大悲観音菩薩像を作らせ、鳳城の大悲庵に安置しようとしました。翌年、軽い病を得て、自身の命の終わりを予知し、弟子に丁寧に遺訓を残し、外護の檀越に別れを告げました。弟子たちに「千手千眼大悲観音菩薩が私を迎えに来てくださいました。皆も恭敬してお迎えしなさい。私は去ります」と言い、目を閉じて遷化し、享年59歳でした。
△ Qing
○ 智嵩 智嵩は字を霊越と申し、端州肇慶県梁山の出身です。丁亥の年、兵が梁山を攻めて智嵩を捕え、糧食を運ばせました。その際、手から念珠を奪いました。智嵩が拒んだので、兵は刃を抜いて智嵩を斬りました。智嵩はすぐに観音菩薩に叫んで救助を求めました。刃が降りた時、兵の袖に引っかかって智嵩の首に届かず、難を逃れました。ここから観音大士の神通力は響よりも速く応じることがわかります。智嵩の弟子の士驥は、当時山上の荊棘の中に隠れ、一心に大悲呪を唱えていました。兵は野原を捜索して村民を捕えようと、荊棘の中に槍を突き刺しました。槍が士驥に届こうとした時、兵は自ら山から転げ落ちました。経には「還って自らその身に至る」とありますが、誠に空言ではありません。
○ 張明達
明達は順徳の出身であった。父の殷亮は南海の士であった。母は鄧氏の出で、数回の死産を繰り返していたため、観世音大菩薩に祈り捧げた結果、懐妊した。菩薩の成道の日の朝に生まれた。この日は、俗に清浄な精進料理を整えて祝う風習がある。母と侍女たちが清らかな供物を整え、奉献し終えたが、東の空はまだ明けていなかった。少し休もうと横になったところ、知らず知らずのうちにすでに出産していた。子が泣き声を上げたので、皆が駆けつけて見ると、室内が一面に光に満ちていた。皆驚いた。鄧氏は姑に申し上げた。「この子の生まれ方は普通の子供とは異なります。吉祥の瑞相ではないでしょうか」と。五歳に満たないうちに、母は亡くなった。祖母の虞氏は、我が末の子に接するように深い慈しみを込めて彼を育てた。十四歳のとき、祖母は病床にあって、銀数錠を密かに遺した。その年は戊子の年で、飢えた人が多かった。明達は遺された銀を人々に施し、数名の旅人の命を救った。その後、貪欲な隣人が父に讒言し、密かに家財を蕩尽したと誣告した。明達は弁解しなかった。またあるとき、乞食が訪れたが、明達は財が尽きて応じられなかった。翌日、乞食は飢えと寒さで死んだ。明達はこの知らせを聞き、密かに思いを巡らして言った。「あの人の危急を救うことができなかった。まさか私の功徳が薄すぎるがゆえの罪でしょうか」。そこで身を捨てて王家に転生し、広く施を行い、衆生の願いを満たそうと誓った。郷里の観音岩に登り、痛切な誠を以て菩薩に礼拝し、証明と擁護を請い、百仞の崖から身を投げた。どのようにしてか、忽然と山麓の石の上に坐しており、何の傷もなかった。菩薩の慈悲の加護により大落下という難を免れたのだと悟った。そして、探しに来た人々の勧めに従い帰宅した。それ以来、菜食を守り、出家の志を起こした。ただ父のみが仏法を信じず、その意向を伝えることは難しかった。十七歳のとき、宿縁が熟し、永らく抱いていた志を父に打ち明けた。父は大いに怒り、厳しく叱責した。明達は退き愁いに暮れ、ただひたすら菩薩の聖号を称えるのみであった。そこで祖父に願い出た。祖父はその志が揺るがないのを見て、父に許すよう諭したが、父はそれでもなお難色を示した。十数日後の夜半、白衣の人が夢にあらわれて言った。「仏弟子よ、今すぐに行け、この好機を逃すな」と。明達ははっとして起き上がり、門を出た。その刻、街の門戸はすべて大きく開いていた。雨が降って暗く、前方の道は見分けられなかった。蛍が数匹、そばを飛び交うのみであった。蛍に従って進んでいった。十数里ほど行くと、蛍の光は次第に消えた。そこで鼎湖の師のもとで出家し、開雄と命名された。間もなく、突然重い病にかかった。ある日、顔色と精神がまったく変わり、呼吸が止まって戻らなかった。見た者は皆、もう生き返るまいと思った。開雄はひたすら正念を保ち続けたところ、久しぶりでついに甦り、次第に回復した。豈(あに)菩薩の
s unseen protection? He then solemnly commissioned a painting of the Thousand-Handed Holy Image for veneration. During the painting, an altar was set up and dhāraṇīs recited; the artist bathed and changed garments each day. The painter also covered his breath with paper, the pigments contained no ox-hide glue or ink, and each item of paper and brush was consecrated with mantra rites. On the night the image was completed, it radiated great light, illuminating the forest and walls beyond the altar in shimmering gold. All who saw it marveled. Xiong, reflecting that from birth until leaving the household life he had repeatedly received the Bodhisattva's boundless protection — a grace beyond words — earnestly requested his master to record these events in this collection, so that all sentient beings throughout the world might know that the Bodhisattva's wondrous virtue is inconceivable, that she never fails to respond to sincere thought, and that she is truly a vessel and a ferry across the sea of suffering.
○ Pan Guozhang
Guozhang was a native of Shunde, Guangzhou. He had taken refuge in the Three Jewels and was a merchant at Guangli in Duanzhou. In the upheaval of the bingxu year, when wars erupted in every direction, he boarded a boat to return home. At Sanshui, the boat encountered wind and capsized. He single-mindedly recited the Bodhisattva's name. Being unable to swim, he sank straight to the bottom of the sea. Vast and boundless, the waters offered no horizon — yet he held fast to his recitation with all his heart, walking step by step along the seabed. In due course he reached the shore, the travel money he had carried still clutched in his hand. Looking back, he realized he had indeed been submerged in the sea. How extraordinary! Truly the divine power of the Bodhisattva is beyond thought and imagination. It was also because his mind held no second thought, forgetting both self and object entirely, so that he did not even feel the water touching his lips or breath. Is this not a partial accord with "entering the flow and forgetting the object"? Zhang later left home at Riqin Mountain near Shaoshi, and received the courtesy name Xuan □.
○ Huang Keming
Keming was the son of a wealthy family in Dongguan. Early in the Qing, he was sailing toward Wuyang [Guangzhou] when he was set upon by pirates at sea, taken to their lair, and chained to a door panel. The pirates went off on another raid, leaving a woman to guard him. Now, Keming's family had invited monks to recite the Universal Gate Chapter, and that night the pirate woman saw an unusual, auspicious light beside him. When morning came she questioned him, and Keming silently knew it must be divine protection. When the woman stepped out to a neighbor's house, he hoisted the door panel onto his back and fled. Climbing out of the lair and up a ridge, he met a woodcutter and begged him to break the panel and free him from the lock. After traveling several dozen li, he reached open ground.
○ Liu Leishu
見えざる擁護を受けられたのかと深く感じ入り、厳かに千手聖像の絵を発して礼拝供養することにした。制作にあたっては壇を設けて真言を誦し、画師は日々沐浴して衣を改めた。画師は息を紙で覆い、絵具には牛皮膠や墨を含まず、紙と筆の一品一品をことごとく真言の修法によって加持した。像が完成した夜、大光明を放ち、壇の彼方の森や壁を金色の揺らめきで照らした。見た者はみな驚嘆した。熊氏は、生まれてから出家するまで幾度も菩薩の無辺の加護を受け、その恩恵は言葉に尽くしがたいと深く感じ入り、師に懇ろに頼んでこの録にこれらの事蹟を記していただいたのも、世界中の一切衆生が、菩薩の妙徳は思議し得ないこと、誠心には必ず感応されること、苦海を渡る真の船筏であることを知らしめんためである。
○ 潘国章
国章は広州順徳の人であった。三宝に帰依し、端州広利の商人であった。丙戌の年の動乱で、四方に戦火が起ったため、船に乗って帰郷した。三水に至ったとき、舟は風に遭って転覆した。ただ一心に菩薩の名号を称えた。水泳ができなかったため、まっすぐに海底まで沈んでいった。広漠として果てしなく、水には涯が見えなかったが、かれは全心をこめて称名を続け、海底を一歩一歩歩いていった。やがて岸にたどり着いたが、手にした旅銭はそのまま握りしめていた。振り返ってみると、なるほど自分は海中にもぐっていたのである。なんとも奇特なことではないか。まことに菩薩の神通力は思念の及ぶところではない。これはまた、かれの心に二念がなく、自己と対象をまったく忘れ、唇も息も水に触れることを感じなかったからである。これは「流れに入りて対象を忘れる」と少し契合するのではなかろうか。国章は後に少室の近くの旦欽山において出家し、法名を玄□と賜った。
○ 黄克明
克明は東莞の富豪の子であった。清の初期、烏陽〔広州〕へ向かう途中、海上で海賊に襲撃され、本拠に拉致され、扉板に繋がれた。海賊は別の襲撃に出かけ、女一人を残してかれを見張らせた。ところで克明の家族はかねて『普門品』の読誦を僧に頼んでいたため、その夜、海賊の女はかれのそばに奇瑞の光を見た。朝になって女がかれに問うたので、克明はひそかに神助に違いないと知った。女が隣の家へ立った隙に、かれは扉板を背に負うて逃げ出した。賊窟を抜け出て尾根を登ったところ、樵夫に出会ったので、扉板を割り砕いて鎖を外してくれるよう頼んだ。数十里を歩いて開けた土地に出た。
○ 劉雷墅
雷枢は広州順徳の出身で、父は刑曹郎中の鍾雷である。順治丁亥の秋、香山へ向かって航海中、海上で海賊に捕らえられた。脅しても金を毟り取れぬとみた海賊は、彼を海へ投げ込んだ。雷枢は幼い頃から家訓により三宝を篤く敬い信じるよう教えられて育ち、今や観音菩薩よりほかに頼れるものはないと心に決めた。そこで一心に観音の名を唱えた。両手は縛られ、死の苦しみのなか海底へ沈もうという時、称名の声はいよいよ切迫した。突然、足の親指が砂に触れた。しばらく漂ったのち、次第に浅瀬へと辿り着いた――まさに経に説かれる通りである。「大水に流されても、その名を唱えれば、浅瀬に至ることができる」。これは決して嘘ではない。すると海賊に見つかり、再び船へ引き上げられた。数日間とどめ置き、家族からの連絡を待って身代金を取るつもりであった。海賊たちはその後も川沿いで殺戮と略奪を続けたが、雷枢は少しの害も受けなかった。五六日して猛烈な嵐が起こり、海賊船は錨を下ろす場所もなくなった。海賊たちは心を動かされ、彼を解放してこう言った。「これはお前の家が精進斎戒を守っているおかげに違いない」。さらに、雷枢は幼い頃にも一度誘拐されたことがある――辰の刻から午の刻まで連れ去られていたが、解放されたのはひとえに菩薩の力によるものであった。乱世にあって災禍に遭った者は数え切れないほどいたが、雷枢の家だけは難を逃れた。これこそ彼の深く揺るがぬ信仰の果報ではなかろうか。
○ 邵以珍
以珍は広州府の学者で、仏教に深く帰依していた。戊子の年、省城(広州)に駐屯する新兵が市場で品物を強要した。商人たちが言い返すと、兵士たちは新任の李知事に、「民衆が反乱を企てており、襟の短い衣を合図にしている」と訴え出た。嶺南の風習では、下着の多くが短い襟造りである。城は封鎖されて逮捕が行われ、短い襟を見につけている者は誰であれ斬首され、李知事は一切の弁明を許さなかった。すでに数十人が斬首されていた。以珍も処刑の列に並ばされていたが、一心に菩薩の名を唱え続けた。彼の番が回ってきた時、殺戮は止んだ。そして冤罪で捕らえられていた者たちも皆、助かった。以珍は私に、この出来事を本集に収録してほしいと頼んだ。
○ 鄧玲尼
鄧玲尼は広州番禺の出身で、俗姓は鄧、母は洪氏である。清の初頭に出家し、朝夕の礼拝と念誦を欠かさず、浄土を深く願い、菩薩の御名を唱え続けてやまなかった。庚寅の年七月二十三日、礼拝と念誦に夜を徹した時、周囲は静まり返り、彼女はまったくの独りであった。夢うつつの中、掌に何かを握っているような気がし、我知らずそれを口へ運んで飲み込んだ。飲み込んでから拳を開くと、まだ三粒が手に残っていた――鮮紅で、辰砂のような形であった。それ以来、彼女は完全に食事を断ち、空腹も渇きも感じなくなった。今も変わらず、礼拝と念誦を丁寧に続けている。現在は時折旬の果物を少し口にする程度で、穀物は一切口にしていない。身は以前と変わらず、気力はかえって旺盛である。現在は広州の燕京庵に住している。
○ 黄国勝
国勝は広州新興の学者で、裕福な家の生まれである。五十になっても子がなかった。戊子の年に五戒を受け、肉食を断ち、とりわけ篤く菩薩を礼拝した。毎朝夕、沐浴して衣を替え、百拝を捧げては菩薩の名を唱えた。俗事に追われて時間の足りない時でも、日課を欠かしたことはない。三年たたないうちに、妻と側室が日を置かずそれぞれ男児を産み、子どもたちは成長するにつれ聡明さを示した。経に説かれる通りである。「功徳と智慧ある子を授かる」――まさにこのことである。
○ 何龍江
龍江は広州番禺の県学の生員で、知天命の年(五十歳)を過ぎても子がなく、すでに諦めかけていた。己未の年、龍江は私を自邸の庭園に招き、夏を過ごすことになった。私は彼に六斎日の文と千手千眼大慈大悲菩薩の画像を贈った。龍江は別室を設けて菩薩を安置し供養すると、朝夕、篤く礼拝した。毎朝、茶や湯を口にする前に必ず礼拝を済ませる――その誠実さは並大抵のものではなかった。数ヶ月後、夢の中で菩薩が自ら赤い衣の童子を授けるのを見た。翌日、彼は喜んで私に報せた。「感応がありました」。翌年、果たして男児が生まれ、その後三年続けて三人の子を得た。
○ 麦川生
川生は順義(順徳)の梅村の出身で、六斎日を守っていた。康熙甲辰年の八月初二日、隣県を通りかかった際、道中で賊に捕らえられ、賊窟に連れ去られた。四本の鉄鎖で首と足を縛られ、暗室に閉じ込められて、銀百両の身代金を要求された。生はただちに日夜一心に菩薩の名号を黙念し、少しの懈怠もなかった。
四日経って、賊は食べ物を持ってきたが、箸を渡さず、外へ出て竹の棒を探してこさせた。生が一本の竹を持ってくると、賊はそれを折って与えてから、戸を閉めて去った。賊は一日に数回様子を見に来たが、この日は鍵を紛失し、外から覗き込むばかりであった。生は竹を割って錠を外そうと試み、三つを相次いで開けることに成功した。首の錠だけは動かなかった。生はすでに菩薩の加護があったことを知り、さらに熱心に祈った。八日目に再び竹で試みると、錠はかちりと音を立てて外れた。逃げたいと思ったが、賊に気づかれるのを恐れ、躊躇した。
捕らえられた時、手元に指ほどの長さの生姜を一枚持っていたが、半分は賊に既に奪われていた。生は残りの生姜で筈杯(こうはい)を作り、菩薩に祈願した。「弟子はすでに慈悲の加護を蒙り、束縛が忽然と解かれました。今、逃れんと欲しますが、監視の者に捕えられれば生き延びる道はございません。今、去ることが許されるならば、五度続けて陽杯を得て、私の疑いと恐れを払ってくださいませ」と。祈り終わったその時、果たしてその通りになった。
生は屋根に上って周囲を見渡すと、川向こうに舅の家が見えた。生は素早くそちらへ走った。外の賊が気づき、叫び声を上げた。生は川を飛び越え、対岸に達したところで再び賊の手下に阻まれた。生は両肘で彼らを押し分けて突き進んだ。猪が羊の群れに突っ込むようであり、誰一人として引き留めることはできなかった。生は舅の家に駆け込むと、賊はこれを包囲して身柄を渡すよう求めた。舅が賊に告げて言うには、「生の家は貧しい。十日の猶予をいただき、できる限りの銀を用意しましょう」と。
その翌日に、官軍が突然やって来て攻撃を開始した。賊は散り散りに逃げ去った。生は開けた道筋を辿り、一銭も費やすことなく無事に帰宅した。経典に説かれる「その名を称えれば、ただちに解脱を得る」――誠に偽りではない。
さらに、生には字を蓮峰という叔父がおり、長く蔬食の戒を守っていた。その年の正月、羊城(広州)へ旅した時のこと、川で渡し船に乗っていたところ、賊が襲いかかってきた。五十余人の男女が捕らえられ、賊窟へ引きずり戻された。山峰を越える途中、賊は板を座にしてしばらく休息した。蓮峰は後ろから板を引き抜き、それと一緒に穴の中へ転落した。彼はすぐさま村はずれの空き家へ駆け込み、壊れた竹の蚕箔を被って身を隠した。
賊は付近の村を捜索し、村人に向けて触れを出した。「鬚の男が汝らの村へ逃げた。すぐに引き渡さねば、一軒も残さず焼き払ってしまうぞ」と。蓮峰はこれを耳にし、畏れおののいた。熱心に一度菩薩の名号を念ずるごとに、自分の鬚の毛を数本ずつ抜き、遂には全て抜き去ったが、何の痛痒も感じなかった。突然、どこか別の所から人が来て告げた。「鬚の男はすでに山の向こうへ去った」と。
盗賊は散り散りになった。蓮峰は空き小屋から出て、持ち主にこれまでのいきさつを話した。持ち主は彼に衣服と帽子を与え、古い知りあいであることを告げ、舟を雇って故郷へ送り届けた。盛とその叔父は菩薩の広大な恩徳が到底報じ尽くせるものではないと深く感じ、ぜひ二人の述懐をこの集に加えてほしいと私に頼んできた。
○ 彭一成 一成は南海・佛山の出身で、帰依して六斎日を守っていた。康熙丁未の十二月、武陽[広州]から帰る途中だった。舟には合わせて六人が乗っていた。途中で暴風雨に遭い、舟は転覆した。泳ぎの得意だった他の者たちはなんとか岸にたどり着いたが、一成だけは舟の中に閉じ込められて出られなかった。彼は一心にひたすら菩薩の御名を唱え続けた。たちまち腹の半分まで水が満ち、水を飲み込みながらも唱え続けた。突然、誰かに手を引かれて水面へ引き上げられた。続いて舟の天幕を掴み、流れに身を任せて岸まで漂着した。岸の人々はみな彼に尋ねた:「さっき、白い衣の人物が急いで天幕のところへ来て舟に乗るのが見えた。今いるのはあなただけだ。あの人は溺れてしまったのか?」 一成は答えた:「ほかに誰もいなかった。私だけです。」何度も問いただすうちに、あの白い衣の姿が一成を救いに来られた菩薩だと人々は気づいた。一成はみずからこの顛末を書き記し、本集への収録を依頼してきた。
○ 鄧承昭 承昭、字は士鳳。番禺(広州)の出身で、長年帰依しており、戒を授かっていた。康熙戊申の五月、長男の嫁の黄氏が突然喉に二つの膿瘍を患った。半月もの間、物も飲み食いできなかった。身体は痩せ細り、精神も錯乱し、腫れと痛みが耐え難いものだった。医者を呼んで膿瘍を切開してもらったが、膿と血は出たものの、すぐに腫れと痛みが前にも増して激しくなった。十日余り苦しんだが、どんな薬も効かなかった。ちょうど私は舟で山に帰る途中、彼の家の前を通った。趙は出迎えて言った:「長男の妻が今、喉の潰瘍に苦しみ、たいそう辛い思いをしています。名医に脈を見てもらったところ、毒が心腎に入り込んでしまい、もはや薬では治せないと言われました。もはや一日か二日が持ちますまい。運命は決まっているとわかってはいても、悲しまずにはおれません。先生に、定まった業を持つ者でも救う方法はございますでしょうか?」 私は言った:「観音菩薩の大いなる威力は測り知れず、衆生に無畏を与えることができます。しばしば夢の中で人々に経や陀羅尼を授け、それらを唱える者は病気の中でも危難の中でも速やかに解脱を得られます。」 趙は尋ねた:「その経と方法をうかがえますでしょうか?」 私は従者に救命観音経の十句を書き取らせ、彼に渡した。彼は家に持ち帰り、妻に教えてくれる者をつけた。二、三度読ませると、妻自身も暗唱できるようになった。また、その文を病床のそばに貼った。その夜、病人が見ると、文字がどれも一寸ほどの大きさに見えた。翌日には身体がすっきりし、心も落ち着いた。真夜中まで唱え続けると、潰瘍がひとりでに破れ、膿と血がどっと流れ出た。彼女は叫んだ:「治りました!」そして口をすすぐ水を求め、起き上がって菩薩に拝礼し、以前と変わらずすっかり回復した。一家は喜びに沸き、菩薩の慈悲の力がかくも速やかに応えてくださったことに深く感嘆した。
○ 観音慈林集の記
予、年まさに十八にして、父母相ついで遷化す。常に蓼莪の詩を諷するに、ただ慈烏に恥ずるのみ。蔬素は亡者の益となるを聞き、肉味及び辛きを断つ。三年『壇経』を読むに、忽ち深く契合する所あり。即ち人能く仏となるべきを知る。乃ち出家して世を離れ、道を以て祖先の霊を利さんことを冀う。朝夕に代わりて礼拝し、盂蘭盆節ごとに必ず供養すと雖も、心安んぜず、至誠のなお足らざるを恥ず。
乃ち丁酉の歳春、洋白を用い、千手千眼大悲聖像を描き、高さ七尺。膠を用いず、香水を以て彩色を調じ、画工をして日に沐浴更衣せしむ。像成るに及び、衣鉢の余を竭くして僧衆を聚む。まず大悲懺法の意旨を講明し、乃ち二十一日を分けて礼懺せしむ。
其の感応あること、菩薩の身は金光を放ち、手中の青蓮華・紅蓮華ともに白光を屢々放つあり。緇素ならびに見証し、希有の奇瑞なり。予、心に欣ひ安んじ、菩薩の慈力により、父母必ず苦趣を脱せしめられたることを信ず。
其の後、像前に礼懺するに随い、蓮華の間より白光常に涌出し、観る者みな浄信を発起す。菩薩の恩は海のごとし、身を碎くと雖も報い難し。乃ち蔵経を検索し、諸伝記を参訂し、見聞く所に因り此の集を編輯す。其の無量なる恩の万一に酬ゆことを冀うのみ。
見る者聞く者、ともに般若の宝筏に登れ。帰依敬慕する者、ともに無畏の慈林に入り、永く苦趣を離れ、端しく楽邦に向かえ。是を以て識と為す。
— 康熙戊申の夏 鼎湖沙門弘贊 敬識す