唯心浄土とは、浄土への往生を求めてはならないという意味ではない
「唯心浄土」とはどういう意味か。空を真に悟った人であっても、浄土への往生を熱願する心は変わらない。娑婆世界が空であることを十分に知りつつ、深い厭離の念を抱いている。
「唯心浄土」とはどういう意味か。空を真に悟った人であっても、浄土への往生を熱願する心は変わらない。娑婆世界が空であることを十分に知りつつ、深い厭離の念を抱いている。
なぜかといえば、色身そのものは捉えることができず、そこから引き起こされる作用は残るからだ。娑婆世界が引き起こす汚れた煩悩の働き――この部分は空ではない。このようにしてこそ、真の「無生」が正しく理解される。だからこそ「心浄なれば則ち仏土浄し」なのである。浄土に到達したいなら、まず内なる心を清めなければならない。阿弥陀仏と感応したいと願うなら、念仏をいくら唱えただけでは足りない。心が迷いや邪見で満ちている状態で、どうして浄土への往生が求められようか。仏の心は清浄、衆生の心は顛倒――両者が通い合うはずがない。その本性がそもそも異なるのだから。
だから浄土への往生には、明らかで揺るぎない正念が必要なのである。仏と同じ業を求めるのは無理な話だ――それは求めすぎというものだ。仏は三大阿僧祇劫もの長きにわたって修行を積まれた。私たちの修行はいったいどのくらいのものか。だから同じ業であることを求めはしない。大切なのは、少なくとも自分の思いが仏の思いと一致し、それに従うことだ。そもそも、自分の本性が仏の本性と相応しなければ、真の「以心伝心」もありえないではないか。衆生の心は煩悩に汚れて迷い、仏の心は清浄で澄んでいる。どうして両者が相応しようか。問題がお分かりだろうか。まず心を清めることだ。そうして初めて正念が明らかになり、初めて阿弥陀仏の本願があなたを迎え入れてくださる。これが浄土への往生の求め方である。だから「心浄なれば則ち仏土浄し」という教えは、一つの道理を示している。外に求めるなと。
「外に求めるな」とは、まったく求めないという意味ではない。「では外に求めるなというなら、何も求めないでおこう」と考えるかもしれないが、それもまた誤りである。教えは確かに求めることを説いている――ただし内に向かって、信心・願・行を修めるという形で求めるのだ。その方向で求めなさい。日々を表面的な修行に費やすのではない。
つまり「唯心浄土」とは、浄土への往生を求めてはならないという意味ではない。外に向かってそれを追い求めるなという意味である。浄土はあなたの心の中にある。その中で信心・願・念仏を修めれば、感応は自ずとやってくる。よって「唯心浄土」の意味はただ一つ。外に求めるな。
次に、人々が陥りやすい誤りについて少し触れておきたい。存在の観念に縛られた迷いの人は、「生」という言葉を聞いたとたんに、文字通りに受け取ってしまう。浄土への往生を語る人の中にも、有為の法に触れるや否や執着する者がいる――「生」と聞き、有為を見て、外に向かって追い求めるのだ。そのような人は存在に執着している。浄土への往生を求める時、彼はたいてい外に向かって求める。何千回と念仏を唱えても、心の執着――煩悩や邪見――は一向に解消されない。「この心が仏を成す、この心がまさに仏である」と説かれても、その心はただ迷いに流されるままだ。念仏を積み重ねれば、阿弥陀仏との感応が自然と得られると思い込んでいる。しかし決してそうはならない。
共鳴とは念仏の回数を競うことではない。肝要なのは、臨終の瞬間、念いが明晰で揺るぎないかどうかである。すなわち、形に執する人は形に執し、空に執する人は「外に求めるな——だから何も求めない」と言う。これもまた本意ではない。教えは「求めるな」ではなく「外に求めるな」なのである。空に執する人は、ついに一切を求めなくなる。両者ともに偏している。どちらも、生そのものが無生であり、無生そのものが生であることに気づいていない。仏陀が縁起を説かれたのは、法性が空だから——だからこそ縁起が生じる。仏陀が空性を説かれたのは、それが空だから——だからこそ生命は無尽の可能性を宿す。空と有は表裏一体である。
この段は誤りを剔抉している。次節は邪見から生じる弊害を説く。
【この道理を悟らず、みだりに是非を裁き、浄土往生を求める人を怨む——かかる人は測り知れない害をなさん。謗法者となり、邪見の徒となる!】
大乗を歩む私たちもまた、この罠に陥ってはならない。理と行を調和させず、空のみに執着して現象界での行いを蔑ろにすれば、四種の浄土の清浄なる縁起をことごとく転倒させてしまう。また、浄土往生を求める人を見て見くだすなら、それこそが謗法者となる所以である。阿弥陀仏が身を厭わず慈悲を起こして浄土を建立された大恩に背き、衆生の解脱にとっての貴き因縁を自ら失う。これが邪見の徒、邪行者たる所以である——自らを欺き、他を欺くこと。
法華経を尊ぶ者であれば、次の御文が深い印象を残しているであろう。「方便の門を開き、真実の相を示す」と。私たちは皆知っている。内なる無明と妄念を滅するには、実相に目覚めねばならない。顛倒を克服したいと願うなら、道理をわきまえねばならない。誰もが実相を慕う——しかし方便の門を見過ごしてよいはずがない。法華経二十八品を見よ。智者大師みずから、最も肝要な一品は方便品であると仰せられた。方便なくして仮を開きて実を示すことは、全く意味なしと。
方便品には修行の実方便が詳説されている。特に胸を打つ一偈がある。【散乱の心ある人が塔婆や伽藍に入り、ひとたび「南無仏」と唱えれば、すでに仏道に足を踏み入れたのである。】ここに示された善巧方便を暫し拝察されたい。生まれてこのかた仏道を知らぬ人が、何気なく寺の傍を通りかかる。塔の威容を見、仏像を仰ぎ、ふと手を合わせて「南無仏」と口にする——その刹那から、仏への道が始まっている。やがて三宝との縁によって、生々世々に三宝の住まる処に生まれる。三帰を奉じ、五戒を守り、菩薩戒を受け持し、空観を修し、あるいは仏号を唱えて浄土に往生し、ついに仏道を成すのである。
今日、彼が仏道を成すのを見る。しかしそもそも、なぜ彼はそれを成し得たのか。或る日ふと寺院に通りかかり、仏像を見て合掌したからにほかならない。その因縁なくして結果が得られるとお思いか。まさにこれが智者大師の眼目である。実相ばかりを打ち叩いていてはならない。問いは、この最上の方便の門をどう捉えるかである。その門なくしては、実相に参入することは覚束ない。
浄土宗の初代祖師・慧遠大師は、かつて廬山東林寺の住職を務めておられました。ある日、慧遠大師が広い法堂を歩いておられると、1人の学者が訪ねてきました。この学者は聖賢の書を広く読み、儒門でも名高い人物でした。当時の学者は仏典や禅語録に親しむことも多かったのですが、この学者もそうした一人で、少々鼻が高かった様子でした。慧遠大師に出会った彼は言いました。「仏教では一切法が空だと説くではないか。なぜこれほど多くの仏像を祀っているのだ?」慧遠大師は答えられました。「仏像がなければ、あなたが空の理を悟るすべはありません。世俗の三宝がなければ、理体の三宝に入る道はないのです」。
慧遠大師のお言葉は、まさに『法華経』が説く「方便の門を開き、真実の相を示す」教えと、ぴたりと一致します。浄土宗の第十二祖・徹悟禅師(夢東禅師とも呼ばれる)は、幼い頃から聡明で学問を好むお方でした。二十二歳の時、大病を患われ、世の無常を痛感し、名利を追うことにむなしさを覚え、同年出家されました。出家後は目覚ましいご活躍をされ、その伝記には、禅の法脈と教学研究を何の隔たりもなく融合された様子が詳しく記されています。禅の方面では諸方を広く歴参され、臨済宗の名高い禅師のもとで修行を重ねられました。教理の方面では唯識学、天台教学に精通され、『首楞厳経』『法華経』にも通じておられました。
四十歳頃、自身を導いてくださった師父(臨済宗の名高い禅師)が入滅され、後を任されて寺院の管理を託されました。五十歳を前にして浄土教の教えに出遇われ、自ら念仏を唱えると同時に、多くの弟子を導いて念仏の実践を指導されました。そしてついに臨済の道場を去ることを決意されました。立ち去りの準備をされると、同門の兄弟弟子たちは快く思わず、一人がこう言いました。「兄上、師父はあなたに禅の法脈を授けられたのは、それを末永く継承してもらいたかったからです。今あなたが道場を去られるというのなら、一つ問わせていただきます――お答えいただければ、お行きになるのをお許しします」。
その同門の兄弟は言いました。「すべての縁起の法は夢、幻、泡、影の如し。娑婆世界は夢・幻・泡・影のごとく、極楽世界もまた夢・幻・泡・影の如し。だとすれば、受け入れたり捨てたりするものがあるというのか。娑婆を離れることも夢・幻・泡・影、極楽を求めることも夢・幻・泡・影。それなのに、なぜこちらを捨てて向こうを求めようとするのだ」。徹悟禅師は答えられました。「確かにこの二つの世界は無明の闇の中にあり、どちらも夢の中の出来事に過ぎません。だが、二つの夢は同じではない」。そう言って禅師は続けられた。「極楽世界は善き夢、娑婆世界は悪しき夢です。極楽世界はあなたを覚醒させてくれる夢であり、娑婆世界はあなたをさらに迷いの深みへと引きずり込む夢なのです」。
たとえばあなたがたのうち、一人は極楽浄土への往生を求め、もう一人は求めないとしよう。二人とも千年の間夢を見続ける――その点は確かにそうだ。だが、二つの夢がもたらす結果は全く異なる。極楽世界にいる方はその千年を苦しみから解放され、喜びに包まれて過ごす――夢のすべてが安らかで幸福なものばかりだ。娑婆世界で見るあなたの夢は苦しみに満ちている。これが第一の違いだ。第二に、極楽世界の夢に現れるのは仏と菩薩だけだ――そうした夢には覚醒を促す作用、迷いを癒す作用がある。娑婆世界であなたが見る夢は、苦しみの众生生みに満ち、愛と憎しみ、取捨選択、恩と怨みに満ちている。恩を報いようとしても、怨みに報いようとしても、恩は貪欲と執着を生み、怨みは怒りと憎悪を生む。そうして三界をさまよい、輪廻を重ねるたびにますます迷いを深めていく。どちらも夢の如く幻の如し――だが、二つの夢がもたらす結果は天地ほどの違いがある。
どうか私たちが法を学び実践する者が、方便の役割を見失うことのないよう願いたい。先に引用した「方便の門を開き、真実の相を示す」という言葉――方便の門はそれ自体が真実の相ではないが、それを捨ててしまっては、真実の相に到達するすべはない。まさにこのために、こちらの娑婆を捨てて向こうの極楽を求めなければならないのだ。極楽世界と娑婆世界の縁起の法は、私たちにもたらす導きの働きが全く異なる。ここに第二の疑いが晴れる――理と事の問題だ。理の観点から見れば、極楽世界と娑婆世界の本性に違いはない。しかし事の次元では、この二つの国土が私たちにもたらす浄と穢の作用、苦しみと楽しみの働きは、天地ほどの隔たりがある。