六月炎天飞雪
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六月炎天の飛雪
# 真夏六月の雪
宜興龍池の永寧は、蜀州太平の無用先寛禅師の法嗣である。幻虚子と号し、俗姓は朱、淮東の通州の人であった。
幼い頃から永寧は並外れて聡明だった。六歳で村の学堂に入り、手にした経典は一読でその意を汲み取った。九歳のとき、郷里の県にある理荷寺にて出家した。ほどなく、河南王の王通がその才能を見出し、若年ながらも度牒を取り計らってくれた。
その後、永寧は諸方を歴訪し、次々と禅席を訪ね歩いたが、求めるものにはついに巡り会えなかった。一時は蕉子山に安居し、参禅に打ち込んだ。眠気に襲われれば座から飛び降りて砂や煉瓦を運び、あるいは宙に吊るした板の上に坐った。五年に及ぶこの厳しい修行でも、なお悟りは開けなかった。そこで淮西の太湖山に赴き、無用先寛禅師に参じた。
無用先寛禅師は孤高峻厳の家風で知られ、たいていの者は容易に近づけなかった。永寧が初めて参じ、門前に立ったとき、師は一瞥しただけで鋭く叱責し、追い返した。永寧は閉ざされた門に向かって拝するほかなかった。やがて、師はようやく彼を中へ入れた。
無用先寛禅師が問うた。「どこから来た」
永寧が答えた。「通州より参りました」
無用先寛禅師が言った。「近ごろ淮海の潮はどうだ」
永寧が答えた。「日を衝き天を呑み、余す一滴もございません」
無用先寛禅師が言った。「的を射ておらん」
[つまり、答えが要点を外れていたということである。]
永寧が言った。「では和尚様、ご自身でお示しください」
無用先寛禅師は大喝して、彼を方丈から追い出した。
永寧はこの問答をどうしても忘れられず、惑乱と不安のなか、一晩中眠れずにいた。
しばらくして、ふたたび師の室を訪れ、教えを請うた。
無用先寛禅師は雲門の須弥山の公案を提起した。
ある僧が雲門文偃に問うた。「一念も起こさねば、なお過失はありましょうか」
雲門が答えた。「須弥山」
無用先寛禅師が公案を言い終える前に、永寧の内なる何かがばりと裂けた。永寧は急いで師の前に進み出た。
無用先寛禅師は鋭く一撃して迫った。「趙州の『無』はどうだ」
永寧はその場で即座に偈を呈した。
> 趙州の狗に仏性は無し、
> 森羅万象、命を乞う。
> 底無き籃に死せる蛇、
> 加うるも減らすも、余りなく足らぬも無し。
言い終わるや否や、無用先寛禅師は雷鳴のような一喝を浴びせた。
永寧が問うた。「その一喝はどういう意味でしょうか」
無用先寛禅師が言った。「冬瓜山の麓で天秤棒を呑め――清風を捉えてその皮を剥げ」
これを聞いて、永寧の全身にどっと汗が噴き出した。「今日、はじめて師家の道が見えました」
悟りの後、永寧はさらに三年間、無用先寛禅師のもとに留まり、親しく侍した。そののち、師は端厳懿禅師が彼のために書いた頂相の讃を嗣法の証として授け、次のような予言を残した。「汝の因縁は浙江にある。龍に遇う処に住せよ。池を得る処に家とせよ」
永寧は果然としてこの予言を果たし、ついに宜興の龍池に説法の座を開いた。そこで彼は切り立った崖面に小さな草庵を営んだ――壁は刃で切り落としたように垂直で、木を伐って板道を設け、空中に懸けた板の上に暮らし、三年のあいだ一歩も外へ出なかった。
大元の皇帝は永寧の深い道行を敬い、弘教普済禅師(教えを弘め、普く済度す)の号を賜り、首都に召し出して龍光殿の法座に昇らせた。皇帝は深く感銘を受け、さらに金襴の法衣と、佛心了悟禅師(仏心を悟り証す)の称号を授けた。
大明・洪武己酉の歳、1369年、臨終にあたり、永寧は弟子たちに命じて舎利を納める龕を前もって切り立った崖の頂上まで運び上げさせた。それから筆を求め、書き遺した。
> 七十八年、朴を守る、
> 顕然たる失態、万人の目に明らか。
> 海底の土牛は覆り、
> 灼熱の六月天に雪が飛ぶ。
筆を置いて後、安祥として瑞相を現じ、世を去った。享年七十八。