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中品上生を望むなら、戒を捨てることはできない

中品上生の位は、この世で培った因行から生じるものである。主に声聞の性根を持つ者が、戒を受け、戒を守る功徳を礎にその位を得る。五戒・八戒をはじめとする小乗の戒を、一点の違犯もなく守り抜かなければならない。

中品上生の位は、この世で培った因行から生じるものである。主に声聞の性根を持つ者が、戒を受け、戒を守る功徳を礎にその位を得る。五戒・八戒をはじめとする小乗の戒を、一点の違犯もなく守り抜かなければならない。

したがって、中品上生を望むなら、絶対に戒を捨ててはならない。近年、五戒を受けた在家の修行者の中に、後になって戒を捨てる者がいると聞くが、これほどまでに迷い乱れたことがあろうか。五戒を投げ捨てて、どうして中品上生を願うことができようか。だから一度五戒を受けたなら、瞳を守るよりも大切に護り抜きなさい。これこそが中品上生への資格そのものである。

第二に、五逆の重罪を犯さず、あらゆる過失と障りを遠ざけなければならない。五逆の大罪はもちろん、十悪の軽い過失も犯さぬよう努めなければならない。そして、戒を守る功徳を極楽浄土への往生のために回向しなさい。今はまさに末法の世で、衆生の心性はますます粗雑になり、その振る舞いは礼儀も規範も顧みないものになっているからこそ、戒行の尊さが一層輝きを増すのである。皆さん、戒を守り抜かなければならない。念仏の実践者が戒を守る必要はないと唱えるなら、その言葉は天魔の子孫のものに違いない。仏教の正法は常に戒を守ることを説くものです。

臨終の際、阿弥陀仏は比丘の僧衆を伴ってお現れになる。この修行者は声聞の性根を持つがゆえに、菩薩の群れではなく、比丘たちの姿を目にするのである。阿弥陀仏の放つ光明がこの修行者の身を照らし、声聞の法を説き、出家の生活を称賛して仰せになるのである。「なんと珍しく尊いことか!諸仏の教えに従って、家を出てすべての過失を捨てることができたとは」と、出家の功徳を讃えられるのである。

仏が法を説かれるとき、必ず世間悉檀の利がある。すなわち衆生に喜びと悦びをもたらすことである。衆生が喜びを抱いてこそ、説かれた法を真に受け入れることができる。喜びが彼らの善根を覚醒させるのである。少しずつ法に近づき、棒と喝を受け入れる準備が整ってこそ、厳しい叱責が功を奏するのである。まだ縁が結ばれていないのに、どうして手やみに罵ることができようか。かえって恨みを抱くだけである。だから常に人を称え、共に喜ぶ心を保たなければならない。

このような念仏の実践者は、仏の称賛を聞いて大いに喜ぶ。自分が蓮華の台の上に座っているのに気づく。蓮華に座り、頭を下げて仏に拝したその瞬間、再び頭を上げる前にも、すでに極楽浄土に到着しているのである。なんと速いことか。あなた方は尋ねるかもしれない:極楽浄土はそもそもどこにあるのか、と。もし百億の仏土を隔てたはるか彼方にあるというのなら、そんな広大な空間を光速を超える速さで旅したとしても、頭を下げてから上げるまでの間に到着できるはずがない。これは極楽浄土が今この瞬間、ここにあることを示しているのではないか。浄土は娑婆世界を離れるものではない——ただ空間の次元が異なるだけなのだ。

実のところ、その者はほぼ瞬時に、まさに今この瞬間に到着する。到着したとたん、彼の上品中生の蓮華はすみやかに開く。蓮華が開くと、彼は本質的相と従属的相の両方に基づいて説かれる法を聞くことができる。彼が聞く法は自身の習性に沿ったものである。なぜなら彼は常に声聞の教えを好み、親しんできたからだ。ゆえに到着した彼は、苦・集・滅・道の四聖諦の法を聞くのである。これを聞いた彼は直ちに阿羅漢果を証す。声聞乗の究極の目標が阿羅漢であるからだ。すなわち見惑・思惑の煩悩を断ち、生死の輪廻に永別し、もはや未来の存在を受けることはなく、清浄な戒行を成就した者が阿羅漢である。かくして彼は阿羅漢果を証したのである。

阿羅漢果を証した彼は三明を現じる。すなわち宿命明、漏尽明、天眼明の三つである。また六神通と八解脱を得る。八解脱とは、八禅定を成就した状態を指す。

この上品中生の位にあって、彼は阿羅漢果を証している。ただし「阿羅漢」という呼称は、煩悩が断たれた度合いに応じて付けられるものである。極楽浄土に到着したならば、決して阿羅漢の位にとどまることはない。必ず大乗の法に向かい、大乗の道を直進して仏果を証すであろう。

それでは『観無量寿経』は上品中生をどのように説いているか。次の通りである。

「もし衆生があって、五戒八戒を受持し、種々の戒を修め、五逆の重罪を犯さず、数多くの過失や煩いから離れている者があれば」 ここに述べられているのは、戒を守る実践者のことである。

五戒を受持するというのは、在家の者が殺生・偸盗・邪婬・妄語・飲酒の五つの禁戒を守ることを意味する。八戒もまた同様である。種々の戒を修めるというのは、出家者の戒律も含まれる。具体的には、沙弥の十戒、そして比丘・比丘尼の具足戒である。五逆の重罪を犯すことなく、また数多くの過失からも離れている。要するに、日々の行いにおいて戒を守り、よくそれを修めている者のことである。

そしてこのような戒行の積んだ功徳を、浄土への往生のために回向する。命終わりの際に、阿弥陀仏が比丘衆を伴って到来される。中品の三類は声聞の器量に属するため、「一切の法は心より生ずる」という原理もまた彼らに当てはまる。ここで現われるのは、大勢の菩薩が来臨するのではなく、仏に随侍する比丘たちである。その時、阿弥陀仏は光を放ち、同時に法を説き、出家して道を修める行者の功徳を称える。この浄業の行者は阿弥陀仏の放つ光を目にし、法を聞き、導かれて往生する様子を見ると、心は喜びに満たされる。彼は自らの識が蓮華の台座に入り込むのを見て、阿弥陀仏に従って往生する。『観無量寿経』のこれらの記述から、これは釈迦牟尼仏の涅槃後、戒を守る小乗の凡夫を指していることが確認される。

彼が修めた因をみよ。経文には戒を守ることだけが記されており、煩悩を断じたことには一切触れられていない。もし煩悩を断つことを語るなら、道を修めねばならない。すなわち外凡の位から内凡の位に至るまでの修行である。内凡の位には七方便の位があり、この段階で見惑を断つことは、四十里の急流を切り裂くのに喩えられ、初果を証するに至るのである。初果を証した後は、さらに七回人天の界に生を受け、二果・三果を証し、次いで五淨居天で中禅定を修め、九次第定を成就するのである。この過程は極めて難しい。

したがって経文が煩悩を断つことに一切言及せず、戒を守ることだけを説いていることから、これは仏の涅槃後、戒を守る小乗の凡夫を指すのであって、小乗の聖者ではないことが明らかである。