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虚空は有限、心は無限

以上二つの要点を踏まえ、「世界」の概念をさらに探求していきたい。世界には境界があるが、虚空は限りない。私たち衆生が住む世界はいずれも、自らの業(カルマ)が生み出したもので、煩悩に汚れた業によってもたらされた穢土(えど)にほかならない。衆生の業には大きな差があるため、こうした世界の数、形、住処(すみか)、寿命はことごとく異なる。したがって、世界は無数にあると言える。

以上二つの要点を踏まえ、「世界」の概念をさらに探求していきたい。世界には境界があるが、虚空は限りない。私たち衆生が住む世界はいずれも、自らの業(カルマ)が生み出したもので、煩悩に汚れた業によってもたらされた穢土(えど)にほかならない。衆生の業には大きな差があるため、こうした世界の数、形、住処(すみか)、寿命はことごとく異なる。したがって、世界は無数にあると言える。

今日、天文学者は電波望遠鏡を用い、何光年も彼方の世界を次々と発見している。地球や太陽系、天の川銀河(ミルキーウェイ)だけでなく、我々の銀河を超えた銀河系外の恒星系や巨大な銀河も数多く存在する。それらの世界の中で、個々の惑星は常に破壊と生成を繰り返している。これは目も眩むような、測り知れない、果てしない光景であり、世界の数が実に無限であることを示している。

しかし虚空に比べれば、世界はまだまだ及ばない。虚空は境界を欠くが、世界には境界があるからだ。

なぜそうなのか。『首楞嚴経』には次のように説かれている。「塵の数ほどの穢土は、ことごとく虚空から生じる」と。ここで「穢れた」とは、凡夫の汚れた業によって現れた仏土(kshetras)を指す。塵のように数多いこれらの無量の世界は、いずれも虚空から生じたものである。明らかに虚空はこうした世界よりはるかに広大である。なぜならこれらは虚空に依存して存在する以上、世界に境界があり虚空に境界がないことが自明だからだ。

次の一節はさらに興味深い。「虚空には境界があるが、心の本性は無限である」。

私たちはふつう、虚空を考え得る最も広大なものだと思い込んでいる。しかし、虚空より大きいものが本当にあるのだろうか。自分たちを過小評価してはならない。今この瞬間の私たちの心の本性こそが、虚空よりはるかに広大なのだ。それでも虚空は、衆生の汚れた業が現出した知覚上の領域にすぎず、条件付けられた現象でしかない。一方、私たちの心の本性は条件付けられておらず、汚れてもいない——それこそが真に無限なのである。

だから『首楞嚴経』には次のように説かれている。「大覚の内に虚空が生じる様は、海に一つの泡が生まれるようなものだ」と。

虚空は何に依存して存在するのか。それは私たち自身の心に本来備わる覚りの本性の内に生じるものにほかならない。したがって、私たちの根本的な本性——すなわち覚りの自性——は虚空よりも比類なく大きい。百倍や数十倍どころか、到底比較にならないほどだ。これが「海の中に一つの泡が生まれる」という比喩の意味である。この比喩に従えば、私たちの心の本性は広大な大海のごとく、虚空はただ浮かぶ小さな泡にすぎない——到底比較にならない。

別の比喩では、虚空全体が一つの孤雲のようなもので、私たちの心の本性は広大無辺な宇宙空間のごとく説かれている。無限の宇宙空間こそが私たちの心の本性であり、虚空はその中に漂う一つの雲にすぎない。

私たちはあまりにも長い間、迷いの闇をさまよってきた。もし佛陀がこの真理を説いてくださらなかったなら、私たち衆生は生涯いくら頭を悩ませても、到底思い至ることはできなかっただろう。私たちは心から佛陀の御徳に感謝せねばならない。なぜなら佛陀は、この真理の全体を私たちに明かしてくださったからである。

これが『首楞嚴経』が「七処徴心(しちしょちょうしん)」と「十番顯見(じゅうばんけんげん)」を説かれる理由である。これらはすべて、今この瞬間の私たちの想念の本性を直接的に指し示すための工夫なのだ。

大首楞嚴三昧は世間の法(ダルマ)ではない。『首楞嚴経』には「甚深微妙、不動の世尊よ、首楞嚴の王はこの世に稀れなり」と説かれているのである。

ゆえに、虚空には境界があるが、心の本性は無限である——これこそが私たちの生命の真の尊厳に他ならない。この教えは、十方を横に遍満し、空間を超える視点から説かれたものである。

時を越えて、つぎのように説かれている―「現在には限りあり、過去・未来は無辺なり」と。眼前のことにいうならば、時は留まらない。「いま」と言う刹那に、その「いま」はすでに過ぎ去っている。つねに変化し続けているからである。時は妄念のうえに成り立っている―一念の起こりが現在をなし、その止滅が過去をなし、未生が未来をなす。こうして三時は成立する。「現在」と言うとき、その現在は留まることなく、まさに刹那ごとに転変している。

この刹那刹那の流転と変化によって、我々は深く迷っている。我々の心はつねに外へ外へと散乱し、自らの念が一刹那ごとにどう生じ、住し、変じ、滅しているかを観照しない―奔流のごとくすみやかであるために。あまりにも速いために、火縄にたとえられる。火の点は元来ばらばらであるが、きわめて速く回転させると、もはや個々の点は見えず、堅固な光の環のように見える。よって『楞厳経』が五蘊を説くに、識蘊は奔流のごとくに流転するがゆえに、遠くから見れば静かに映ると説いている。遠望すれば穏やかに見えるが、実はきわめて迅速である。このようにして、我々衆生の行蘊における刹那刹那の変化は、まさにこのとおりである―奔流のごとく、滝の轟くがごとくである。

では、果たして老化を止めることができようか。死を退けることができようか。これが晩課において「ただ無常を念ぜよ」と教えられる所以である。一刹那ごとに老い、一刹那ごとに死んでいる。深い出離の志を起こし、道業に励む決意をなすべきではないだろうか。しかるに我々は日々、衣食と身体の保養にばかり奔走し、百二十歳まで生き長らえるかのように振る舞っている。決してそのようなことはあるまい。だから「現在には限りあり」―無常にして留まらず―であり、過去・未来と対比してその広大さが顕かになるのである。

我々はしばしば「無始無終」という―過去がいつ始まったか知らず、未来がいつ終わるかを知らない、という意味で。なぜ、無始無終なのか。これもまた、煩悩に染まった心のうえに立てられた概念である。たとえば夢にたとえてみよう―夢が始まるとき、正確にいつ始まったか特定しがたい。誰かが「いつ夢に入ったか」と尋ねれば、あなたは首を横に振り、「分からない」と答えるだろう。

もし自覚していたならば、夢には入っていない。まさに知らざるがゆえに、夢のなかに迷い込んだのである。したがって、刹那にして留まらぬ現在にくらべて、過去・未来は無辺に見える。しかし、これらの無辺にして無始無終の過去・未来劫は、自心の本性とくらべてどうか。くらべてみれば、過去・未来には限りがあり、心性には限りがない。

なぜこのように言うのか。過去も未来も、みな心のなすところだからである。「心生ずれば諸法生じ、心滅すれば諸法滅す」。この一念の生滅なくして、過去なく未来もない。よって心性とくらべれば、限りあるは過去・未来にして、限りなきは心性である。