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一日のうちにあなたがしていること、すべてが長寿に逆行している

この縁には二種類の助けがある。二つとは何か。一つは近縁――解脱が速やかに訪れ、悟りが早い。もう一つは遠因遠縁であり、長い歳月を経てようやく解脱を得る。速さが違うのだ。衆生はそれぞれ自因を携えているため、縁は常に因とともにある。因がなければ、縁はただ助けることしかできない――あなたの代わりに成し遂げることはできない。因が主である。どのような根器を持とうと、何に応じようと、それから縁が助けに入る。根がすでに熟していれば、縁に一度遇うだけで成就する。それを近因縁と呼ぶ。善根の...

【この「縁」には二種類ある。二つとは何か。一つは近縁であり、これによって速やかに解脱を得る。もう一つは遠縁であり、長い時間を経てのちに解脱を得る。】

この縁には二種類の助けがある。二つとは何か。一つは近縁――解脱が速やかに訪れ、悟りが早い。もう一つは遠因遠縁であり、長い歳月を経てようやく解脱を得る。速さが違うのだ。衆生はそれぞれ自因を携えているため、縁は常に因とともにある。因がなければ、縁はただ助けることしかできない――あなたの代わりに成し遂げることはできない。因が主である。どのような根器を持とうと、何に応じようと、それから縁が助けに入る。根がすでに熟していれば、縁に一度遇うだけで成就する。それを近因縁と呼ぶ。善根の力がまだ足りない場合は、修行を通じて次第に成熟していく――まさに私たち自身がここで修行しているように。長い歳月を経てようやく解脱が得られる。それを遠縁、遠因遠縁と呼ぶ。

それはちょうど、私たちがここで共に学んでいるありさまに似ている――同じように見えて、同じクラスの同級生なのだから。たとえばこのクラスに五十人いるとしよう。必ず一番になる者がいれば、必ず最後にとどまる者もいる。五十人全員が一等になることはできないし、五十人全員が遅れをとるわけでもない――必ずばらつきがある。因のばらつき、縁のばらつき、そしてその後の展開も――すべてが違う。

世間に出た私たちの同級生を御覧なさい。自ら富と栄誉を築き上げ、事業が本当に花開く者は、おおむね学校の成績が一番だった者ではない。昔の同級生を振り返ってみればわかるはずだ。

授業中ずっと聞いていなかった者、騒がしくて腕白だった「優等生」ではなかった者――社会に出ると、がらりと変わる。退学になった者が本物の事業を打ち立て、いつも一番だった本の虫は、社会では何の役にも立たず、生涯そのままで行き詰まる。

これは何を示しているのか。速さが違うということだ。仏事を進める縁でさえ、因縁を通じて現れる。仏教を信じていない者ですら、世間に出れば、やはりそれぞれの因縁が動いている。因は、たとえば事業を興すことかもしれないが、それには正しい縁に遇わなければならない。その縁がなければ、功を奏さない。同じ努力、同じ商売であっても、実際のところ結果は同じにならない。

私の弟子を一人例に挙げよう。彼は深センで靴を作っている。兄の方だ。弟はすぐ隣の広州番禺にいる。工場は似通っている。靴作りの技術もまったく同じだ。台湾にいた頃、二人は一緒に働いていた。大陸に来てから分かれ、それぞれ自分の工場を経営している。以前は同じ仕事だったが、福報も、物事の進め方も、もう同じではない。

結局、一人は店じまいせざるを得なかった――続けていけなかったのだ。もう一方は大きく成長し、拡大を続けている。縁が違う。外なる縁が違えば、その奥にある因も違う。一人は三宝に深い信心を抱き、もう一人は三宝を激しく謗る。「仏教を信じることが単純にすぐれている」という意味ではない――そういうことを言っているのではない。いずれにせよ、仏教への信心には必ず加持の力が宿る。与えることの手放せる者は、受け取ることができる。手放そうとしない者には、何一つとして入ってはこない。与えれば受け取る。手放せば得る。手放してこそ受け取るのだ。手放さないなら、何を得るというのか。世俗の道理にしたがっても、そういうものだ。

世間を超えた法においても、同じ道理が成り立つ。仏法は世間の中にあり、悟りは世間を離れてはいない。因縁には近いもあれば、遠いもある。修行には精進もあれば、懈怠もある。

普寿寺での因縁を、どこかの小さな寺院、あるいは上海のある寺院――名前は伏せておくが、同じ比丘尼寺院だ――の因縁と比べてみれば、同じではない。そこで仏事をしたいと思う者が、のちに機が熟して仏道を志し、世を厭い出て修行したいと思っても、その道は遠い。普寿寺にはそのような外面の縁がひとつも存在しない。それが一つの情況だ。

誰もが長生きしたいと願っている。長生きしてどうするのか。道を修めるためか。そうであれば、もう少し長く修行の時間が得られるのは良いことだ。このように考えてみればよい。人は長生きしたいと願いながら、日頃やっていることは長寿の正反対のことばかりだ。

私はかつて、台北の多くの法友――私に帰依した弟子たち――にこう話した。「もう少し長生きしたかったら、あなた方が一日何をしているかを見てごらん。長寿に資することは何もない。たとえば八時間労働に出れば、もうへとへとだ。退勤すれば自分の時間だ――とばかりに、バーへ、茶館へ、ダンスホールへ繰り出し、十一時、十二時、一時、二時まで飲み騒ぐ。帰宅してもろくに眠らず、翌日はまた同じことを繰り返す。これでどうして長寿になどなれようか。消耗が激しすぎる。一方では長生きしたいと言いながら、他方では出て行って自分をすり減らす。どうして長寿が叶うだろうか」。

ここ普寿寺では、このようにして長寿を保つ。なぜか。外の縁に一切関わらないからだ。一日に何座も坐るとはいえ、負担は限られており――身体への負荷も小さい。