大庵法師講話集 ― 念仏の行法
深い信心と切実な願いが確立されたなら、次は実践の道へと進みましょう。どのようにしてこの仏号を身に付け、力を込め、さまざまな業力の前でも自心を失わずに済むのでしょうか。その第一歩は、一つの行法に深く根を下ろし、誠心誠意、揺るぎなく仏号を念じ、行の対象を変えずに修めることです。そうした修行を続けるうちに、やがて自然に功夫が練り上げられ、その念佛の熟達も純粋なものとなっていくでしょう。
深い信心と切実な願いが確立されたなら、次は実践の道へと進みましょう。どのようにしてこの仏号を身に付け、力を込め、さまざまな業力の前でも自心を失わずに済むのでしょうか。その第一歩は、一つの行法に深く根を下ろし、誠心誠意、揺るぎなく仏号を念じ、行の対象を変えずに修めることです。そうした修行を続けるうちに、やがて自然に功夫が練り上げられ、その念佛の熟達も純粋なものとなっていくでしょう。
仏陀が説かれた八万四千の法門は、いずれも衆生を救済するための方便です。浄土教における四つの念仏の行法も、また方便の一つに過ぎません。他の修行の道と比べても、念仏の道は最もとり組みやすい方便であり、念仏の行法の中でも、仏号を称える持名が最もとり組みやすく、あらゆる方便の中でも最上の方便とされています。
阿弥陀仏は西方極楽浄土の主でいらっしゃいます。「阿弥陀」はサンスクリット語に由来する語ですが、日本では Āmítuófó と読むべきか、Ēmítuófó と読むべきか、迷う声もあるでしょう。実際のところ、どちらの読み方でも差し支えはありません。如来はすべての衆生の心を明らかに見知っておられます。Āmítuófó と称える者も、Ēmítuófó と称える者も、いずれも浄土に往生することができます。ただし、標準的な読みは Āmítuófó とされています。『華厳経』には、音節「阿(あ)」は四十二字母の最初の字とされ、「無生」の義、すなわち無、空、そして生も死もないことを意味すると説かれています。これは宇宙の根源なる響きとされています。
在家の修行者は、それぞれの能力に応じて朝と夜の修行の習慣を自分なりに定めるとよいでしょう。お寺では、出家の修行者が『楞厳呪』『大悲呪』『十小呪』などを誦経します。もし在家の方が専ら念仏の行を修めるのであれば、朝と夜の修行は簡略化しても構いません。『仏説阿弥陀経』を読み、往生呪を三唱え、仏を讃える偈を誦した後で、仏号を称え始めます。念佛を終えたら、功徳を回向し、三帰依を唱えれば十分です。朝の修行も夜の修行も同じ要領で、その時間は日々の生活や仕事の忙しさに応じて調節すればよいでしょう。
仏号を称えていると、過去の出来事や記憶が次々と浮かび上がり、見当もない雑念が無数に湧いてくることがあります。こうした雑念はいずれも、今生や過去世から残った虚妄な影に過ぎません。実体のない空なるもの、偽りであり、現れたそばから生滅するだけのものです。正しい理解がなければ、「念佛していないときは心が静まっているのに、どうして念佛し始めるとこんなに雑念が湧くのだろう」と悩むこともあるでしょう。しかし、こうした考えは誤りです。雑念は念佛していないときにも常に心の中にあるのですが、ただ気づいていないだけなのです。雑念に気づけるようになったのは、実は良いことなのです。念佛を続けているからこそ、それまで見えていなかった心の動きをはっきりと自覚できるようになった証拠ですから。
念佛の要は、六根を内に収め、途切れることのない清らかな正念を保つことです。六根を落ち着かせ、自分自身のために称え、自分自身のために聞き、心を念佛の念いに専注させ、念じる心と称えられる声とが混然一体となって、互いに支え合うように心がけましょう。雑念が浮かぶのは当然のことです。どれだけ多くの雑念が湧いてこようとも、一字一句をはっきりと称え続けるかぎり、修行は正しい道を進んでいるのです。
六根を落ち着かせられなければ、口だけで念仏を唱えているようなもので、心は猿のように暴れ、馬のように手がつけられず、外の対象にさまよい、雑念に捉われてしまうこともあります。雑念の奔流に流され、意識が次から次へと浮かぶ想念に引きずられ、自分が何を唱えているかも分からなくなり、いつの間にか無心の中立な状態に陥ってしまうでしょう。
「南無阿弥陀仏」と念仏するとき、五欲六塵の想念は自然と起きなくなります。五欲六塵への執着を手放したその瞬間、それがすなわち止観の修行です。もし、清らかで途切れない覚知をもってこの仏号を唱えることができるなら、それが止であり、もしはっきりと唱え、同じくはっきりと聞くことができるなら、それが観です。止の功夫が三昧を生み、観の功夫が智慧を生む。さらに、止と観は相いまって三昧と智慧を育みます。
計数念仏:毎日の目標を定め、最低一万遍を目安としましょう。毎日二時間は阿弥陀仏と静かに交わる時間に充て、その清涼で安らかな気が、自然とあなたの心を浄化するのに身を任せましょう。百万遍の仏号に専心する十日間の閉関修行は、すべての世俗的なわずらわしさを手放し、精進して修行に励む機会です。これは衆生の怠け心や散乱しやすい性向に対処するために設けられた行法です。
十遍計数法とは、十遍の念仏を数える行法です。「南無阿弥陀仏」と唱えながら、最初の一遍ごとに心の中で「一」と数え、二遍目に「二」、十遍まで数えたら、また一からやり直します。この念仏の方法は呼吸と連動させず、純粋に数を数えることに集中するのが特徴です。
私たちは毎日、最低一万遍の仏号を唱えることを勧めます。毎日同じ時間に修行する習慣を確立し、一日一万遍の念仏を日課としましょう。昔、念仏で浄土往生を願った修行者たちは、一日三万遍を最低限の目標としていました。三万遍で済ます人もいれば、五万遍、七万遍、なかには十万遍も唱えた人もいたのです。今の私たちは皆、重い業障を抱え、厳しい生活の圧力にさらされています。ですから、基準を少し下げても構いません。一万遍、三万遍、あるいは五万遍——誰にでも達成できるはずですよね。
なぜ私たちが毎日一万遍の念仏を勧めるのか、理由をお話ししましょう。もし一日に一万遍も念仏を唱えなければ、あなたの心を満たし圧倒するものはすべて輪廻の種となります。仏号を唱えることに慣れ親しむにつれ、これらの習い性の種の力はますます強くなります。臨終のとき、最も強い種が先に現れます——西方極楽浄土の姿がはっきりと見え、きっとあなたはそこに往生できるでしょう。これらはすべて、日々の積み重ねと修行の成果に依るものです。
「この心が仏を成し、この心が仏なり」は念仏の根本原理であり、「六根を収めて不断の浄念を保つ」ことが念仏の実践の方法です。心底から純粋な誠意と切実な願いをもって、本来は外の散乱に走りがちな六根を引き戻し、この聖なる名号に心を留めなさい。真心を込めて念仏を唱えれば、仏号は清らかとなり、唱えるあなた自身の心もまた、偽りなく純粋なものとなります。これが浄念であり、それを途切れることなく保ち続ける状態こそ、不断の浄念の境地です。
修行には正しい心構えが要ります。至誠懇切です!この四文字は何よりも心に留めておくことが大切です!この心構えがなければ念仏を唱えても、修行の効果は大きく損なわれてしまいます。欺く心も、取り繕う心も、一切捨て去った純粋な誠実の心で臨まなければなりません。極楽往生を願う念仏の修行を、何よりも第一に置かなければなりません。
仏法は恭敬を第一に重んじる実践を説いています。印光大師は、著書の『文鈔』の中でこう繰り返し教えておられます。「仏法の利益は、恭敬の心をもってこそ得られるものなのだ」と。一分の恭敬があれば、一分の業障が消え、一分の福徳と智慧が増す。十分の恭敬があれば、十分の業障が消え、十分の福徳と智慧が増す。もし恭敬の心を一切持たずに仏法を実践すれば、その不敬がもたらす報いは、想像もつかないほど恐ろしいものです。
「南無阿弥陀仏」の聖号を、たった一度唱えるだけでも、八十億劫もの長きにわたり生死を繰り返す中で積み重なってきた重い業障を、ことごとく消し去ることができます。この念仏の称名は、軽々しく、いい加減に行なえるような修行ではありません。深い信心、切実な願い、そして至誠の心をもって唱えなければなりません。阿弥陀仏の願力と共鳴するように唱えることでこそ、これほどの重い業障を消し去る力が目覚めるのです。もし信心がまったくなく、口先だけで心を込めず、弱々しく力のない声で唱えるだけでは、これらの業障を消し去ることはできないのです。
南無阿弥陀仏の聖号を唱えることは、ただの虚しい音でも、空気の物理的な振動だけでもありません。その中には、計り知れないほどの深い意味が込められているのです。この聖号を唱えることは、些細なことではありません。そこには計り知れない重みと意味が込められているのです。深い真心から、感謝の心をもって唱えなければなりません。
至誠の心で念仏を唱えるとは、願と行の両方が完全に整っている状態を指します。念仏を唱える心も、その実践自体も、阿弥陀仏のすべての功徳を余すところなく含み込んでいます。つまり、唱えることそのものが修行なのです。願と行がこのように完全に整っているからこそ、今生のうちに必ず極楽浄土に往生できるのです。
「念仏」の「念」という字は、上部に「今」、下部に「心」という成り立ちです。この字は「今の心」を意味し、その心が今、どこに向かっているかが問われるのです。つまり、念仏は口で唱えるものではなく、心で行なうものなのです。
「南無阿弥陀仏」に心を一点の乱れもなく留め、五欲六塵の欲に心を奪われることがなければ、もしこの仏号を、明瞭で途切れない正覚の心をもって、はっきりと区別分明に唱え、自分が唱える声もはっきりと聞くことができれば、無量寿の寂静三昧に入り、無量光の遍照する働きを顕現することができるのです。この実践法は非常に簡単なものですが、あらゆる修行の最も深遠な内容を、たった一つの法に凝縮しています。止観も、三昧も、智慧も、静寂と照覧も、阿弥陀仏の無量光と無量寿も、すべて余すところなく含み込んでいるのです。だからこそ、念仏の修行は、さまたげのない直道であり、私たちの心と本性の核心に、まっすぐに功を積むことができるのです。
念仏を唱え始めたとたんに雑念が浮かんでくることに気づいたら、その雑念に意識を向けてはいけません。「また雑念が出てきた」などと、自分に言い聞かせてもいけません。そうすると、雑念はかえって強くなってしまいます。なぜ雑念が強くなるのか? それは、雑念に意識を集中しすぎることで、かえって雑念に力を与えてしまうからです。雑念に意識を向ければ向けるほど、それは力を増していきます。逆に無視していれば、雑念には力などないのです。ただ、仏号に心を留め続けていればよいのです。
業に縛られた凡夫はみな妄念を抱えている。それは絶え間なく来たり去ったりして、その数は天人とても数えきれないほどである。妄念は虚しく実体がない。浮かぶ雲のようなものである。妄念が生じたとき、それを気にかけ、抑え、追い払おうとすれば、かえって激しくなる ― それはみずから妄念に力を与えているようなものである。妄念を無視し、かかわらなければ、力はない。すべての注意を仏号に向けなさい。空の暗雲を気にかけることはない ― それは自ずから散ってゆくのである。妄念は浮かぶ雲のようなもの、来るものは来させ、去るものは去らせよ。雲が何をしようと、ただ聖号を執持することに専念しなさい。猫が鼠を窺うように、全精神を仏号に集中しなさい。心を一心に名号に留め、自らに称え、自らに聴きなさい。そうすれば、乱れた心は次第に静まり、安らかになってゆく。
ひたすら仏号を称え、称名が次第に純一無雑になってゆけば、能称の心と所称の名は次第に一体となる。そうなれば、多くのことを悟り、多くの煩悩もこの過程のなかで溶けて消えてゆく。これを「妙道に潜行し、巧みに無生に入る」という。仏号を称えるには、単純・謙虚・素朴な心で、至誠懇切に、堅持して称えるのである。狡猾な想念や偽りはすべて捨て去り、修行を変えてはならない。日用の振る舞いのうえでは、ただこの行に専念し、深遠玄妙な理屈の議論に深入りしないこと。
『般舟三昧経』は、行者に七日間あるいは九十日間、坐臥せずに不断に歩行することを求めている。その目的は、現生において仏と面と向かって会うことである。「般舟」とは「諸仏が前に立ち現じる」という意味である。この修行によって大神通力、大智慧をはじめ、多くの功徳を得ることができる。しかしこの経典は、もともと勝れた根機の菩薩を対象としたもので、凡夫を対象としたものではない。
今この時代においては、いたずらに勝れた行を求めるより、むしろ至誠堅固に、一行に深く専念し、菩提心を起こし、常にただ阿弥陀仏の聖号を称えるほうがよい。そもそも仏を称えること自体が禅である。禅は仏の心であり、阿弥陀仏の聖号はすなわち阿弥陀仏の心にほかならない。すでに仏の心に安住しているのに、何の必要があって禅を別個に論じようか。
浄土門のなかで行ずる禅は浄土の禅であり、浄土は禅の浄土である。禅と浄土はそもそも別物ではなく、本来自性一体である。それ故に言われる ―「もし人がただ阿弥陀仏を称えるならば、これを最上甚深微妙の禅と名づける」と。
至誠堅固に仏を称えれば、称えるその刹那に阿弥陀仏の光明が照らす。信は増長して弱まることがない。信心と願心がないまま仏を称えれば、信の根は非常に脆く、その力は顕現することができない。信の根がまだ定まらず、その力がまだ起こらなければ、疑いは必然的に心を占める。しかし、信の根が堅固で信の力が満ちてくれば、疑いには立つ余地がない。それ故に、信を増長し純粋にするには、ただ至誠堅固に仏を称えればよい。
このような人は「老実頭(ラオショウトウ)」と称される。老実頭たる人は、生死の切迫感を深く自覚し、戒律を護持し、一心に仏号を称える。もしその修行がきわめて深まれば、臨終の時を自ら知り、正念分明のままに往生し、極楽浄土に自在に生まれるのである。
「「至誠」「専注」の二文字は、口にするのはたやすいが、実践するのは実に難しいものです!私たちの思惟の一つひとつが、至誠を欠き専注も揺らぎ、人と違うことをしたがり、目立とうとするのです。古いものに飽きて新しいものを好むのは人の常、隣の山の方が高いと思うのも、同時に舟を二艘も三艘も跨ごうとするのも、みな人の性なのです。これらは衆生の悪しき習性であり、自らを至誠・専注の状態に保つことは、並大抵のことではないのです。
真に至誠で専注な境地に至るには、大いなる智慧と深い善根が欠かせません。多くの人は数々の苦い挫折を経て、ようやくその境地に辿り着くものです。
狡知に長けた偽りの心は、水を得た魚のように世間の事を巧みに運び、ひいては世俗的な利益を得る助けとなることもあるでしょう。しかし修行の場では、こうした心は障りとなり、少しの利益も得られなくなってしまいます。特に浄土の道、念仏の行においては、偽りの心は阿弥陀仏の大慈悲の願力と共鳴することができず、浄土に往生することはかないません。
念仏する際には、特別な禅定の境地や瑞相を求めてはなりません。念仏を続ける中で、聖なる名号のうちに安らぎと喜びを見出すことができれば、阿弥陀仏と感応交感し、その喜びの光明があなたの内に現れるでしょう。
もしこの聖なる名号を、途切れることなく安定した流れで唱え続けることができれば、それは阿弥陀仏の名号の絶えざる光明があなたを加持し、支えている証であり、すでに阿弥陀仏と感応交感しているのです。
すべての一念が阿弥陀仏に向かっている限り、この途切れなき唱念の力は求めずとも自然に湧き出てきます。ことわざにあるように:「意図せず植えた柳が、やがて豊かな木陰を落とす」――これは当然の成り行き、自然に起こることなのです。もし特定の禅定の境地や唱念の力を求めるならば、決して得ることはできません。ただ、捉われのない心で、頭に火がついたような切迫した思いで、生死の急を深く自覚し、「途切れなき唱念の力」を求めないときにかぎり、自然にその力を成就するのです。
定課を立てる際には、修行に充てる時間と、完遂する念仏の回数の両方を計画しておきましょう。
家事の最中にも、仏名を日常の動作に織り込むことができます。野菜を洗うときは「阿弥陀仏」と唱え、切るときは包丁を入れるたびに「阿弥陀仏、阿弥陀仏」と、フライパンに油を注ぐときは「阿弥陀仏、阿弥陀仏、阿弥陀仏」と唱えるのです。こうして料理の全過程を阿弥陀仏と共に行えば、出来上がりは格別に美味しくなるものです。
集団で念仏する際、最初に聞くべきは自分の声であり、その後に皆の唱える声が聞こえてくるべきです。自分の声が聞こえず、皆の声だけが聞こえるのでは、正しい念仏とは言えません。念仏は自分のために唱え、自身の声を聞くためのもので、他人に見せるためのものではないのです。だからこそ、自分のために唱え、自身の声を聞くことが、何よりも重要なのです。
機縁が備わり、条件が整えば、真言を唱えることは補助的な修行として役立つこともあるでしょう。しかし、主と従の優先関係を常に明確にしておかねばなりません。念仏の道を実践しているならば、阿弥陀仏の名号を唱えることが主たる修行であり、真言唱念はあくまで従の修行です。この優先順位を常に心に留めておくことが大切です。
念仏の道を実践するにあたって、外面的な行いにおいては、他の修行や複雑な観想をあまり加えるのはよろしくありません。ただ至誠と専注をもって仏名を唱えるだけでよいのです。自分のために唱え、自身の声を聞き、心を唱えることに集中し、はっきりと唱え、はっきりと聞く――それだけで十分なのです。次々と観想を加えれば、自分で自分に障りを招くだけです。」
念仏修行の際は、唱えるにあたって観想を加えないでください。心を念仏に一心に集中し、自ら唱え、自ら聞き入れることで、念ずる心と仏号の音が互いに支え合う関係で結ばれるようにしましょう。仏号は心から発し、口から声となり、耳で聞かれる――これが一つの完全な循環です。このように唱えましょう。注意を散らさないよう、阿弥陀仏の三十二相八十種好を観想しながら仏号を唱えることは避けてください。
浄土門の修行において、最も避けるべき過ちは他の行いを雑行として混じることです。では雑行とは具体的に何を指すのでしょうか。覚明妙行菩薩はお書きになった『西方浄土指南』の中で、次のように説かれています。他の経典を読誦すること、他の真言を唱持すること、様々な法要に参加すること、ささいな禅の話や難解な禅の公案・問答を議論することを好むこと、吉凶の話や神・幽霊の話に触れること――これらすべてが雑行に該当します。
雑行を交えて功徳を回向すれば、浄土に往生できないわけではありませんが、往生の可能性は大きく減じてしまいます。専修を貫けば、雑念が生じて正念を失うことがなく、阿弥陀仏の本願に適い、浄土の教えに背かず、仏の説かれた言葉に従うことができます。だからこそ専修が勧められているのです。すなわち、専修する者は十人いれば十人、百人いれば百人、万人いれば万人、ことごとく往生できると説かれているのです。
念仏を唱える際は、「私は一人で念じている、孤独だ、誰も私のことを気にかけてくれない、自分に頼るしかない」などと思ってはなりません。むしろ今この瞬間、次のように思うようにしましょう。「十方の諸仏は、慈しみ深い母親がたった一人のわが子をいたわるように、私をいたわってくださいます。私は仏を念じていますが、仏は私をそれ以上に深くいたわってくださいます。まさに、子が母を思い、母が子を思うようなものなのです」。このような心境で念仏すれば、仏との絆が深まり、心が安らぎ、より確かな安心感を得られるのです。
二つの土の世尊――すなわち私たちが住むこの世界の釈迦如来と、西方極楽浄土の阿弥陀如来――は、常に私たちに正念を保ち、聖号を唱えるよう勧めてくださっています。信心と願いの心をもって仏号を唱えることによってのみ、遠回りをせず、まっすぐに速やかに極楽浄土に往生することができます。散り散りになった雑行や、まとまりのない善行と比べれば、この道は比類のないものです。
衆生の心をもって仏を憶念し、仏を唱えるのが念仏です。「憶念」とは、阿弥陀仏の光明、相好、威神、本願、方便、智慧、そして本願力によって顕現する西方極楽浄土のあらゆる荘厳を、心の中に思い浮かべ、留め続けることです。これらはすべて「憶念」に含まれます。次に「念」という字について見てみましょう。「念」は「今」の上に「心」が置かれた成り立ちで、「今この瞬間の一念の心をもって聖号を唱える」という意味が込められているのです。
礼仏は、天親菩薩が説かれた五念門の一つで、阿弥陀仏を礼拝する身の行いです。礼仏の意義は計り知れないほど深いものです。仏の三十二相八十種好は、仏の法身に備わる円満な功徳の表れです。仏に礼拝することで、阿弥陀仏の三十二相八十種好が私たちの心の奥深くに刻まれていくのです。
仏に礼拝する際は、身をもって阿弥陀仏を礼拝し、口をもって阿弥陀仏の聖号を称え、心をもって阿弥陀仏を憶念します。こうして身・口・意の三業が阿弥陀仏と密接につながっていくのです。私たちの心の中に形成される心境と阿弥陀仏の姿は、すなわち浄土そのものです。この姿は私たちと深い縁を結び、やがて礼仏を続けてきた者が生涯を終えるとき、その人が積み重ねてきた心境は、阿弥陀仏の浄土と必ず響き合うことになるのです。
阿弥陀仏は法界全体を体現されたお方であり、十方三世(過去・現在・未来)のあまねく諸仏を代表することができるため、阿弥陀仏に礼拝することは、十方三世のすべての諸仏に礼拝することと全く等しいのです。得られる功徳も同一であり、少しも違いはありません。