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林崇安教授:『雑阿含経』第306経の要義

林崇安 (『法光雑誌』第232期、2009年)

林崇安
(『法光雑誌』第232期、2009年)

『雑阿含経』第306経の「306」は、大正新脩大蔵経における番号を指している。本経は『仏光大蔵経』では第284経、『慧燈教育版』では第205経、『印順版』では第408経に当たり、『人経』とも称される。以下の解説では、『瑜伽師地論』の摂事分を手がかりに、本経の構造を整理し、その要義を解き明かしていく。


【経】如是我聞、一時、仏は舎衛城の給孤独長者の祇園精舎にお在りになりました。

【問:如何に見て法を証得するか】

【経】その時、ある比丘が静かな場所で独り坐禅を組み、深く思惟しました。「比丘がどのように知り見て法を証得するのか」と。そのことを思惟し終えると、禅定から起きて仏の許に近づき、仏の足に頭を接して礼拝し、脇に坐して言いました。「世尊! 私が静かな場所で独り深く思惟していたとき、「比丘がどのように知り見て法を証得するのか」と考えました」

【答】

〔見には二種類ある。A1. 有為法を見る、A2. 無為法を見る〕

〔A1. 有為法を見るとは、B1. 真の根拠とB2. 真の本性を、十分に正しく知ることである〕

〔B1. 真の根拠〕

【経】その時、世尊はその比丘に言いました。「よく聞き、よく思念せよ。我、これを汝に説こう。二つのものがある。何が二つか。眼と色の二つである。これについて詳しく説き、ついには[これらは常住の我の領域ではない]という点に至る。なぜか。眼と色の縁(因縁)によって眼識が生じるからである。この三つ——眼、色、眼識——が和合するとき、触が生じ、触に伴って受、想、行が生じる。この四つ——受、想、行、識——は無色蘊(むしきうん)であり、眼と色は色蘊(しきうん)であり、これらすべての法を『人』と名付ける」」

核心的な意味:真の根拠とは何か。それは名色(みょうしき、すなわち四つの無色蘊と一つの色蘊)と、人界・天界その他の諸界に存在するすべての衆生のことである。

〔B2. 真の本性:真実とは何か。それはC1. 世俗諦とC2. 勝義諦の二つからなる〕

〔C1. 世俗諦〕

【経】これらの法について、人々は『人』『衆生』、ナラ(nara)、マヌッサ(manussa)、マーナヴァカ(mānavaka、学生)、プルシャ(puruṣa、人)、サットバ(sattva、衆生)、ジーヴァ(jīva、生命あるもの)、ジャントゥ(jantu、生き物)といった概念を捏造する。また言う。「私は眼で色を見、耳で音を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を嘗め、身で触を感じ、心で法を認識する」と。また次のような言説を為す。「この尊者は、かくかくの名を持ち、かくかくの生まれで、かくかくの氏族で、かくかくの飲食をし、かくかくの楽苦の体験をし、かくかくの寿命を持ち、かくかくの長寿であり、かくかくの命の限界がある」と。比丘よ。これらは単なる概念、単なる心の構築物、単なる言語による呼称に過ぎない。

核心的な意味:世俗諦とは何か。それは真の根拠の上に重ねられた、『我』『衆生』から『生命あるもの』『生き物』に至るまでの、作り事の名目上の呼称である。人々はまた「私は眼で色を見る」から「心で法を認識する」に至るまで、そう主張する。また先に説いたように、かくかくの名、かくかくの寿命の限界などについて、言葉で名付ける。ここにあるのは、作り事の概念以外の何ものでもなく、作り事の我の呼称以外の何ものでもなく、作り事の言語表現以外の何ものでもない。本来の本性、特性、機能の区別こそが、世俗諦と呼ばれるのである。

〔C2. 勝義諦〕

【経】これらすべての法は無常であり、有為であり、意欲と意志から生じ、縁起している。無常で、有為で、意欲と意志から生じ、縁起しているものはことごとく苦である。そのうえ、その苦は生ずるときにも苦しく、住しているときにも苦しく、滅するときも苦しい。繰り返し生起し、そのすべてが苦である。

【要旨】究極の真理とは何か。それは前述のように、世俗の根本のうちに内在する無常などの諸性質、すなわち縁起のことである。無常に固有の性質があるように、苦にもまたそれぞれ固有の性質がある。この道理を了知すべきである。

【大意】世俗の根本、世俗諦、勝義諦に関して、世俗諦を世俗諦として、勝義諦を勝義諦として正確に知ることを、「有為の法を見る」という。この境地を成就した比丘は、この階位を円満したとされる。

〔A2. 無為の法を見ること〕

【経文】さらに、もしその苦が完全に断ち切られ、残りなく尽くされ、捨て去られ、貪愛を離れ、滅び、静まり、消え去り、もはや残された苦しみが生起・出現・輪廻することがないならば、これが寂静、これが最上である。これを、一切残余の有為の放棄、一切貪愛の完全なる尽滅、欲望の解脱、究竟寂滅、そして涅槃と名づける。

【要旨】無為の法を見るとは何か。すでに勝義諦に関する二諦に通達した者が、その力によって一切の蘊の究竟寂滅と涅槃の寂静を深く証じ、心がそれに傾くことである。前述のように解脱に至る。これを「無為の法を見る」という。この境地を成就した比丘は、この階位を円満したとされる。

〔他の根・境への拡張〕

【経文】耳・鼻・舌・身、およびそれぞれの対象について、それらの条件によって身識が生じる。この身・触・身識の三法が和合すれば触が生じ、触に伴って受・想・思が生起する。この四つの無色蘊と、身根という物質的蘊とを合わせて「人」と名づける。これは前述のように、究竟寂滅・涅槃に至る。意根と法界の条件によって、意識が生じる。この意・法・意識の三法が和合すれば触が生じ、触に伴って受・想・思が生起する。この四つの無色蘊と、四大〔地・水・火・風〕を人の根本として「人」と名づける。これは前述のように、究竟寂滅・涅槃に至る。

〔この法の見解を証する者〕

【経文】もし、これらすべての現象について、①心が法に随順である(教えに従って法を修行する)、②有学の解脱を得て退転せず、③いかなる生起する束縛においても我への執着がなく(これによって完成された者、すなわち聖者となる)、ならば、比丘よ、かかる知見こそが法を証するのである。

【要旨】この証を得る者には三種類の人がいる。第一は、すでに安定的で集中した心を得て、博学で聡明であり、正しい道理に従ってあらゆる現象を観じる法随順の凡夫である。第二は、聖諦の道を証した有学である。第三は、煩悩が究竟に断じられた完成された者である。

【経文】世尊がこの経を説き終えた後、比丘たちは仏の教えを聞き、歓喜してその通りに修行した。


『瑜伽師地論』摂事分の釈は、この経の全体構造を示し、A1.有為の法を見るとA2.無為の法を見るが順次説かれていることを明らかにする。有為の法を見るとは、B1.世俗の根本とB2.真理の性質とを正確かつ直接に知ることである。真理の性質とは、C1.世俗諦とC2.勝義諦のことである。摂事分は、これらの仏教術語の意味を経文とともに明らかにしている。

本経は、衆生が「我」「人」「衆生」といった仮名字を名色に重ね、「我は眼によって色を見る」「我は科学者である」などと言うことを示している。これらは世俗諦に属する。「我」「人」「衆生」に対する無常・苦・空・無我の性質こそが勝義諦である。二諦を正確に知ることを「有為の法を見る」という。二諦に通達した者は、止観によって涅槃を直証し、その寂静を深く観ずる。これが「無為の法を見る」である。

以上が『相応阿含経』第三〇六の要義である。

【経典の口語訳】 (1) 私はこう聞いた。ある時、世尊はコーサラ国の舎衛城にある、給孤独長者の祇園精舎に滞在されていた。 (2) その時、ある一人の比丘が閑静かな人里離れた場所に独り坐り、深く思索しておられた。「比丘が法を証悟するには、どう知り、どう見るべきであろうか」と。思案の後、座を立ち、世尊の許に近づき、足の前にひれ伏して礼拝し、脇に座して言った。「世尊! 私も閑静かな人里離れた場所に独り坐り、深く思索している時に、『法を証悟するには、どう知り、どう見るべきであろうか』と思い至りました。」 (3) その時、世尊はその比丘に仰せになった。「よく聞き、よく考えよ。私はこれを説こう。二つある。何か? 眼処と色境だ。これについては詳しく説いた後、最後にこれらは「我」の領域ではないという点に至る。なぜなら、眼処と色境を縁として眼識が生じるからだ。この三つ——眼処・色境・眼識——が和合すると触が生起し、触に随って受・想・行が生起する。この四つ——受・想・行・識——は無色の蘊(「名」と称する)であり、眼をはじめとする物質の蘊(「色」と称する)と合わせて、全てを「人」と称するのだ。」 (4) これらの五蘊の上に、人々は虚構の名称を付着させている。「人」「衆生」「ナラ(人)」「マヌッサ(人)」「マーナヴァカ(男子)」「プルシャ(人)」「サットヴァ(衆生)」「ジーヴァ(命者)」「ジャントゥ(生物)」などと。また、「我は眼で色を見、耳で音を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を嘗め、身で触を感じ、心で法を了知する」と主張する。さらにこのような言説をとなえる。「この有徳の者は、かくかくの名を持ち、かくかくの家に生まれ、かくかくの氏族に属し、かくかくの食事をとり、かくかくの楽苦を経験し、かくかくの寿命を保ち、かくかくの寿命を全うし、かくかくの最期を迎えた」と。比丘よ、これらはすべて、単なる世俗的な虚構の想い、単なる世俗的な名称、単なる世俗的な言辞に過ぎない。 (5) これらのすべての法は無常であり、縁起の法であり、意図と意志(思)を因として生じ、縁によって成立するものである。無常であり、縁起し、意図と意志を因とし、縁によって成立するものは、ことごとく苦である。さらに、その苦は生起するときに苦しく、存続するときに苦しく、滅するときも苦しい。再三に生起し、すべて苦である。この苦が完全に断ち尽くされ、残余がなく、尽き果て、捨て去られ、貪りから離れ、消え去り、静まり、溶解し、いかなる残余の苦も再び生起・出現・再生することがないとき、これが寂静(じゃくじょう)であり、これが勝寂静(しょうじゃくじょう)である。これを、すべての残余の生存の棄却、一切の渇愛の完全な滅尽、欲望からの解放、完全な停止、涅槃と称するのである。 (6) 同様に、耳処・鼻処・舌処・身処・触処を縁として、身識が生起する。この三つ——身処・触処・身識——が和合すると触が生じ、触に随って受・想・行が生じる。この四つの無色の蘊(受・想・行・識)と、身根を物質の蘊とするこれらを合わせて、すべて「人」と称する。これは上述した通り、完全な停止と涅槃に至るまでの内容である。意処と法処を縁として、意識が生起する。この三つ——意処・法処・意識——が和合すると触が生じ、触に随って受・想・行が生じる。この四つの無色の蘊(受・想・行・識)と、人の成立の基盤となる四大[地・水・火・風]を物質の蘊とするこれらを合わせて「人」と称する。これも上述した通り、長く説かれた内容であり、完全な停止と涅槃に至る。 (7) もし、これらのすべての法において、a. 心が法に従って住まい(教えに沿って法を実践し)、b. 学人が証する解脱を得て退転せず、c. いかなる生起する束縛にも「我」を執着しないなら(すなわち阿羅漢となり、聖者となる)、比丘よ、そのような知、そのような見を「法を証悟した」と称するのである。 (8) 世尊がこの経を説き終わった後、比丘たちは世尊の教えを聞いて歓喜し、その教えに従って実践した。

主な修正点(編集過程の記録、最終稿には含みません)

  1. 誤訳の修正:「足に頭を接吻して礼拝し」という誤訳を、仏教用語に適した「足の前にひれ伏して礼拝し」に修正
  2. 脱落の補完:(6)で省略されていた鼻処・舌処を原文に従って追加
  3. 不自然な語順・ phrasingの修正:五蘊と「人」の関係を明確にし、原文の意味を損なわない範囲で自然な日本語に再構成
  4. 文体の統一:禅雑誌に適した落ち着いた、自然な口語体に整え、硬すぎる敬語・翻訳調の表現を調整
  5. 用語の統一:仏教用語として標準的な表現を採用しつつ、平易さを保つように調整