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在家修行者 荘春江:如来蔵研究 ― 第3章:心の本来清浄性に関する教えの展開

『大毘婆沙論』や『倶舎論』(Abhidharmakośa)によれば、「心」(citta)という語は「増大する・蓄積する・血統(種族)を受け継ぐ」といった意味合いを持ち、単一の本性を指すものではない広範な一般用語でした(そのため、心の「実体」を探求すること自体が的外れなのです)。ところが、思想が展開するにつれ、心を単一の存在としてとらえる傾向が生まれました。「心王」、「遠くを一人で放浪する旅人」、「外見は汚れていても本性は清らか」といった概念が現れたのです。これらは、私た...

第3章:心性本来清浄の教えの展開(2004年12月12日 改訂版0、2006年3月23日 改訂版2)

3-1. 第1節「声聞経論における心の清浄性の教え」の学習ノート

  1. 「心性本浄(心の本性は本来清らかである)」という教えと、衆生が内に清浄な如来蔵(Tathāgatagarbha)を持っているという教えは、当初はまったく関連のない別の教えでした。しかし、両者の意味合いが重なる部分があったため、次第に如来蔵思想の重要な要素として統合されていきました。

  2. 「心性本浄」の教えの成立に影響を与えた可能性がある、阿含経(Āgama sūtras)に収められた比喩とその意図: a) SA 1246(雑阿含経) / AN 3.100(増支部経典)は、金細工師が金鉱を精錬する比喩を用いて、身・口・意の不善を捨て去り、貪欲・瞋恚・害意を断ち、初禅から第四禅を修め、神通を開発することを示しています。 b) AN 5.23では、金から鉄・銅・錫・鉛・銀の5つの不純物を取り除く比喩を用いて、感官の欲望(欲貪)、悪意(瞋恚)、眠気・鈍重(睡眠)、掉挙・不安(掉悔)、疑いという五蓋を捨て去り、神通を開発することを示しています。 c) AN 5.193では、鉢に入った濁った水が赤・黄・青・褐色に染まっている様子を比喩に、五蓋を捨て去り、経典の義を悟り、弁舌を獲得することを示しています。 d) MA 202(中阿含経) / AN 3.70では、頭を洗う・体を洗う・服を洗う・鏡を磨く・金を精錬するという5つの比喩を用いて、仏・法・僧・戒・天を念じる五念を例示しています。 e) これら4つの箇所に共通する根本的な意図は、煩悩(汚染)を捨てることを奨励する点にあり、「心性が本来清浄である」と主張するための教えではないのです。

  3. 「心性本浄」の教えの理論的根拠: a) 『異部宗輪論』(Śamayabhedoparacanacakra)には、大衆部(Mahāsāṃghika)が「心性は本来清浄であるが、客塵(後から付着する煩悩)によって汚される」と主張していたと記されています。『空荘厳註』(Suññatālaṅkāravṛtti)では、大衆部が善・不善の2種類の性質だけを想定し、「心は本来、善根にも不善根にも固有に結びついていない(無記である)」という理由から「心性本浄」を説いたと説明されています。 b) 『大毘婆沙論』(Mahāvibhāṣā)と『阿毘達磨倶舎論』(Abhidharmakośabhāṣya)によれば、分別説部(Vibhajyavāda)は「心の本性は本来清浄であるが、客塵(後から付着する煩悩)によって汚される」と主張していました。彼らにとって煩悩は外部から付着する「客塵」に過ぎず、心そのものは実体的に無差別な(唯一の)「本来清浄」な、単一で不変の心であるとされています。これは『大毘婆沙論』が「一意識流(意識の単一の連続的な流れ)の教え」と呼ぶものと一致します。

  4. 「心性本浄」の教えの評価: a) 説一切有部(Sarvāstivāda)が伝える経典には、このような教えは一切含まれていません。『順正理論』(Nyāyānusāra)は「経典に見当たらない」とまでは断言しませんが、これを「未了義(不完全な教え)」(neyārtha)に分類しています。 b) 経量部(Sautrāntika)の思想に近い『成実論』(Tattvasiddhi)によれば、仏陀が心を「本来清浄」と説いたのは、「鈍根の衆生」が自分の本性は変えられないと誤解し、「もともと清らかになれない」と思い込んで清浄な心を起こそうとしなくなることを恐れたためだそうです。 c) 『宝性論』(Ratnagotravibhāga)は、衆生に如来蔵を説く5つの理由を挙げており、第一に「心の弱い者(臆病な者)がいるため」と説いています。これは『成実論』が「鈍根の者のため」に説いたという理由と一致するとされています。 d) 「心性本浄」の教えと金を精錬する比喩は、経典の分類上、いずれも『増支部』(Aṅguttara Nikāya)または如来記説(Tathāgata-vyākaraṇa)の部類に収められています。どちらも「特定の衆生に応じた教え」に属し、究極の真理を説くというより、人々を善へと導くことを目的としているため、「未了義」(neyārtha)に分類されるのです。 e) 「心性本浄」の教えは、哲学的な探求や瞑想体験を根拠とするのではなく、一貫して日常的な例えに頼っています。誰にでも理解でき平易な内容である一方、決して深遠な教えではない!比喩だけでは、論理的に妥当な主張を支えることはできないのです。

  5. 「心」の意味の変遷: 『大毘婆沙論』や『倶舎論』(Abhidharmakośa)によれば、「心」(citta)という語は「増大する・蓄積する・血統(種族)を受け継ぐ」といった意味合いを持ち、単一の本性を指すものではない広範な一般用語でした(そのため、心の「実体」を探求すること自体が的外れなのです)。ところが、思想が展開するにつれ、心を単一の存在としてとらえる傾向が生まれました。「心王」、「遠くを一人で放浪する旅人」、「外見は汚れていても本性は清らか」といった概念が現れたのです。これらは、私たちが日常的に心に抱く感覚、すなわち「一期の命が終わっても次の命へと続く何かがある」「煩悩に束縛される時も、解脱して清らかになる時も、その実体は変わらない何かがある」という感覚に合致していました。これが、後の世に「一心」の教理や、意識的な自我(ātman)の教理が生まれる土台となったのです。

3-1. 振り返り質問

3-1-1. 如来蔵の教えと「心性本浄」の教えは、どのような関係にあると考えられますか?

3-1-2. 初期の部派仏教は「心性本浄」についてどのように説いていますか? それらの教えの根拠となる経典・論書には、どのような特徴がありますか?

3-1-3. 「心性本浄」の教えは、どのように評価することができるでしょうか?

3-1-4. 「心」という語が持つ多様な意味合いを、具体的な例を挙げて説明してみてください。

3-2. 学習ノート 第2節:初期大乗仏教における心性の本来清浄性

  1. 初期大乗経典における心性本来清浄の教え(『般若波羅蜜多経』群を代表として):

a) 『原初般若波羅蜜多経』(紀元前50年頃)は、「心性は本来清浄である」という思想を、「この心(菩薩の心)は無心である」という表現で解釈している。心の本性は寂静にして滅尽であり、有と無の対立すら不可得であると説く。究極の悟りの立場から見れば、実在する清浄な心という概念は、これによって否定される。この立場は、後の中観派唯識派のいずれにも一貫して受け継がれた。

b) 『般若波羅蜜多経』における「清浄」とは、一切法の甚深な本性の究極の悟りを指しており、心の本来清浄に限られるわけではない(無生・空・真如といった語と同義である)。これは実践的・段階的な、般若観の平等な法門である。これに対し、如来蔵の自性清浄は、仏陀となる純粋な因であり、清浄と染汚の双方の根底をなす。心を中心とし(あるいは自己を中心とし)、説明的であり、上から下へと向かう法門である(しばしば「降下の門」とも呼ばれる)。したがって、『般若波羅蜜多経』の心性本来清浄の教えが如来蔵思想の成立に寄与した面はあったとしても、それ自体を如来蔵思想とみなすことはできない。

c) 『般若波羅蜜多経』で説かれる「清浄」は「空」と同一である。『大智度論』は「人々が空を恐れるため、清浄と説くのである」と解説している。龍樹のこの説明は、初期大乗の空の教えが、後期大乗の「肯定的」な教えへと展開していった経緯を巧みに示しており、聞き手の根機に応じた法の応用の好例となっている。

d) 初期大乗経典——『般若波羅蜜多経』、『差別意菩薩所問経』、『鴦掘摩羅経』、『阿闍世王経』、『清浄光明三昧経』その他——を広く見渡すと、「心性本来清浄」とは、心が「空」であり「不可得」であることの別名にすぎない。決して、心が荘厳のような清浄な特質を備えていることを意味するのではない。

  1. 「菩提心は本来清浄である」の展開:

a) 大乗仏教の発展の過程において、初期の経典では「菩薩の心」と説かれており、「菩提心(bodhicitta)」という語が定着するようになったのは、それからやや後のことである。

b) 大乗仏教が広く展開するにつれ、仏教世界全体で菩提心がますます重視されるようになり、菩薩の心もそれに応じて菩提心として再構成されるようになった。

c) このように、本来は菩薩が自己の菩薩の心を本来清浄と観じることだったものが、菩提心そのものの本来清浄性へと展開していったのである。

  1. 「一切法は空である」から「心性は本来清浄である」へ、さらに「自性清浄心」へ:初期大乗経典は、一切法が清浄な本性を持つこと、一切法が空であることを繰り返し説いており、法界と真如の意味を表現している。心性の清浄性は、諸法の性質の清浄性の一例にすぎない。後期の大乗経典は、唯識思想に傾くにつれ、心を一切法の根底と捉え、心性の本来清浄性を説くことが多くなった。法界の清浄性と心性の本来清浄性は同じ意味を共有するようになり、如来蔵経典もまた、自性清浄心を説くことが多くなった(p. 195/4)。

3-2. 振り返りの問い

3-2-1. 『般若波羅蜜多経』における「心性本来清浄」の思想は、如来蔵思想とどのように異なるか。 3-2-2. 「菩提心は本来清浄である」という思想が、「菩薩の心は本来清浄である」という思想の展開であることを、どう確かめることができるか。