一仏乗の最も勝れた要諦はどこにあるのか?
一仏乗とは、衆生が直面する諸困難に対して仏の智慧と洞察を活かし、最も円満な功徳を成就できる道を指す。したがって、理観の焦点は自心の本性に安住することにある。これに対し、実修行動は、煩悩を調伏し、霊的な成長を促す生命の働きを指す。
一仏乗とは、衆生が直面する諸困難に対して仏の智慧と洞察を活かし、最も円満な功徳を成就できる道を指す。したがって、理観の焦点は自心の本性に安住することにある。これに対し、実修行動は、煩悩を調伏し、霊的な成長を促す生命の働きを指す。
道友の皆さん、一仏乗の最も勝れた要諦がどこにあるのか、ご存じでしょうか。それは臨終正念の実践にあります。この正念には二種類あります。実修行動による正念と、理観による正念です。
実修行動による正念を成就できる者は、ほんのわずかです。なぜなら、そのためには念仏三昧に到達しなければならないからです。
道友よ!浄土往生を語るとき、「往生」の前に二文字加えねばなりません。「帯業往生」です。もし自身の残る業を調伏して携えられないのであれば、どうして往生できるというのでしょう。生死を繰り返す業の重みは、とても重いものです。まずその業を調伏せずして、どうやって往生できるというのでしょう。生死の業力を調伏するには、第八識の異熟(いじゅく、業果が熟する働き)を伏せなければなりません。そのためには、必ず念仏三昧を成就する必要があります。これが実修行動による正念を成就できる者が稀な理由です。
正直なところ、我々凡夫が頼れるのは理観による正念のみです。理観による正念とは何か。印光大師がかつて極めて大切なことを説かれました。「常に心を覚観して、迷想念に流されるな」と。
まず最終的に目指すべき結果からお話ししましょう。その結果とは、「迷想念に流されない」ことです。これはどういう意味か。臨終の瞬間にも迷想念が生じるものの、それに引きずられないということです。
道友よ、考えてみてください。毎日朝から晩まで、眠っているときでさえ、私たちは迷想念に捉われているではありませんか。しかもその迷想念は、すべて執着に染みついています。どうして臨終の瞬間に、突然迷想念を断ち切れるというのでしょう。まったく不可能なことです。唯識を学んだことがあれば、この業習気の流れのような連続性はご存じでしょう。朝から晩まで、眠っているときでさえ迷想念に捉われている。臨終間際になって、突然すべての迷想念を断ち切れるなど、考えられるはずがありません。不可能なことです。
では、臨終正念とは実際に何を指すのでしょう。迷想念が生じても、それがあなたを乱したり、心を妨げたりしないことです。これこそが私たちの言う臨終正念であり、すなわち「迷想念に流されない」ことなのです。
ではどうすればそれを達成できるのか。常に心を覚観することで可能となります。臨終の瞬間、あなたはこう思い出すでしょう。「なんと素晴らしい、私の本性は元来清らかである」と。そして、これらの迷想念が自分の心が作り出した虚構に過ぎないことを認識する。それらはあなた自身の意識から生み出された、単なる名目上の呼び方、現象としての姿、機能的な作り物に過ぎません。私はこれらの迷想念に従いません。それらは私自身の心が生み出した心的投影に過ぎないからです。こうして現前一念に正念が生じ、理観による洞察の智慧が現れるのです。
道友よ!無始以来積み重ねてきた迷想念に、臨終のときにただ念仏を唱えるだけで対抗できるなどと考えたら、必ずや失敗します。道友よ、考えてみてください。なぜ実修行動がこれほど難しいのか、凡夫が正念を成就しがたいのか。祖師方の説かれるところによれば、それは毎日二時間の念仏で、無始以来積み重ねてきた迷想念と戦おうとするようなものなのです。これが問題の核心なのです。一日のうち二十二時間、眠っているときでさえ、私たちは迷想念に囚われているのです。そして諸法の縁起の観点から見れば、二時間の念仏の力で、二十二時間もの迷想念の力を押し返そうとしていることになります!縁起の原理に従えば、双方の力は拮抗するばかりです。こんな状況で往生が可能だと、本気でお思いですか。
しかし、もしあなたが実践に理観を取り入れ、「迷いは元来空であり、真の本性は本来存在する」と悟るなら、状況は一変します。そもそも迷想念は、最初から実在しないものなのですから!道友よ!あなたが本性の力を発動して自身を支え、本来の清らかな心を覚醒させ、その清らかな心の立場から迷想念を見るとき、それらが唯心の表れに過ぎず、夢や幻のようなものだということがわかります。一日にどれだけ時間をかけようと、無始以来どれだけ迷想念を積み重ねてこようと、大切なのは「迷いは元来空である」と悟ることなのです!
道友よ!私たちが臨終正念を成就する道はただ一つ、「常に心を覚観し、迷想念に流されない」ことです。迷想念が完全になくなるわけではありません。流されなければいいのです。これが唯一の道です。では、理観を実践しないとなぜいけないのか。道友よ、それはどういう意味だと思いますか。それは、この一生で唱えた念仏だけの力で、無始以来積み重ねてきた迷想念と戦おうとしているということです。そんなことで敵うとでも、お思いですか?
言い換えれば、道友よ!臨終の瞬間を迎えるとき、すぐに念仏を唱え始めてはいけません。まず心を整えましょう。まず散乱した凡夫の心を、本来の一心の本性に還し、それから念仏を唱えるのです。これが私たちにとって最も有利な要点です。まず迷いを破って真の本性を現し、それから念仏を唱えるのです。