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極楽浄土の水の功徳は、往生者の成仏の道をなす

蓮池大師の『阿弥陀経疏鈔』には、極楽浄土の水に三つの至上の微妙な功徳と働きがあると説かれています。私たちはこのことをよく理解しておきましょう。

蓮池大師の『阿弥陀経疏鈔』には、極楽浄土の水に三つの至上の微妙な功徳と働きがあると説かれています。私たちはこのことをよく理解しておきましょう。

第一の働きは、水が人の意に従うという点です。極楽浄土では、水の功徳によって心の性と外界の関係が最もあらわに現れ、その現れ方は影が物に従うように、ただちに思い通りになります。『無量寿経』には次のように説かれています。「善き衆生が七宝の池に入って身を洗うとき、水が足元だけを覆うように願えば足元だけを覆い、足首までと願えば足首で止まり、膝までと願えば膝までに、腰までと願えば腰までに、全身に注ぐように願えば自然に全身に注ぎ、退くように願えばただちに退く」。

この水をごらんなさい。あなたの一念が、この水を操る蛇口なのです。足先だけを浸かりたいと思えば、そうすればよいのです。膝がリウマチで痛むときは、膝まで水を上げて痛みを和らげることができます。腰椎椎間板に問題があるなら、腰の高さで水を止めればよいのです。頸椎に不調があるなら、水は首まで上がります。頭が重く感じるときは、水が自然に頭に注がってすっきりし、もう二度と脳卒中の心配もありません。すべてがあなたの思いのままに、自由に水位が変わるのです。これが「水が意に随う」ということです。水を引かせたいと願ったときには、すでに身体は元の健康な状態に戻っていますから、水はただちに引いていきます。

このすべてはあなたの念の力に従って現れるもので、極楽浄土では形色と心が一切の障りを離れて自在であることを、これほどあざやかに示すものはありません。もしあなたがこの境地を真に悟り、体験することができれば、今の私たちの生存がいかに劣っていて、満ち足りていないかがおわかりいただけるでしょう。私たちは真の生活质量を何ひとつ持ち合わせないまま、ただ輪廻と業報の輪の中で迷い続けているのです。身体が弱って動けなくなり、寝たきりになったときにだけ「生活质量が足りない」と感じますが、実は、自分の力ではどうすることもできない業の流れに身を委ねている限り、本当の生活质量など存在しないのです。自分で選択することもできず、ただ訪れる業の報いを受け入れるしかないのです。極楽浄土は即因即果・即願即成の原理に従って働いています。願を起こしたそばから、すぐに叶えられるのです。満月を思い浮かべたとき、すでにそれは満ちているのと同じです。これが水の第一の働き、すなわち意に従うということです。

第二の働きは、水が法を説くということです。『無量寿経』には「波紋が互いに交わりながらゆるやかに流れ、速すぎず遅すぎず、滞るところがない」と説かれています。これは法の功徳に照らせば、まさに中道そのもの。極楽浄土のあらゆる環境は、中道であり真如の現れなのです。経にはまた「波が起こって無数の自然な妙音を生じる」と説かれています。それらは仏の声、法の声、僧の声、すなわち三宝の声です。三宝に帰依し、三宝を礼拝することから仏道を歩み始めたなら、三宝の声を聞くことになるでしょう。坐禅や静慮を入り口に仏道を志したなら、静寂の声、空や無我の声を聞くことになるでしょう。人々を救い成就させるための善行を積み、慈悲を修めることから仏道を歩み始めたなら、大慈悲の声を聞くことになるでしょう。『金剛般若経』を誦することを修行の柱としているなら、般若波羅蜜多の声を聞くことになるでしょう。仏の功徳や力に惹かれて仏道を志したなら、仏の十力・四無畏・十八不共法などの声を聞くことになるでしょう。これらすべての声は、水という一つの要素を通して伝わる、一切の法の功徳の表れなのです。これが水の第二の働き、すなわち法を説くということです。

第三の働きは、水が修行の歩みを押し進めてくれるということです。この点については以前、『無量寿経』に基づいて、八功徳水に一度沐浴することが成仏への完成された道であるとご説明したことがあります。かつて天台宗の五時八教の分類を用いて説明したこともあります。蔵・通・別・円の四教に、円教をさらに頓・漸・秘密・不定の四つに分けた五時八教ですが、八功徳水で一度沐浴するだけで、この五時八教のすべてを修め終えることになるのです。では経文はどのように説いているかというと、極楽浄土の水に沐浴した後、往生した天人や菩薩は、それぞれの蓮の座に座り、あるいは地上で法を説いたり、経を誦したり、自ら法を述べたりします。聞く者は誰もが悟りを開き、自ら法を説くことができるのです。阿弥陀仏だけが法を説くのではなく、皆が説くことができるのです。

極楽浄土に往生した天人や菩薩に、説法を誤る者はいません。彼らは自分が体験している極楽浄土のありのままの姿を語るだけでよく、わざわざ何を言うか工夫する必要もないのです。ちょうど今の私が、朝に食べた朝ご飯の話や、昼に出かけた場所の話など、何もかもが法であるのと同じく、彼らの体験するすべてが、成仏のための正見、正行、正願となります。ですから、法を説けない者もいなければ、説いて誤りを犯す者もいないのです。

このように、経を読む者、法を説く者、法を伝える者がいます。伝法とはどういうことかというと、観世音菩薩が玄奘三蔵に『心経』を伝えられたのがその例であり、千光王如来が観世音菩薩に『大悲呪』を授けられたのもその例です。経典や教えを他の人に伝えていくことをいいます。誰もがいつでも、伝法・聞法・読経・思惟、坐禅などのどのような修行にも勤しむことができ、それぞれにふさわしい居場所を見出し、同じ道を共に歩み、精進して進んでいくことができます。これが極楽浄土の水の功徳のすべてです。ご覧なさい。あの浄土の水でさえ、人の意に従い、法を説き、何より仏道の精進を押し進めてくれるという、これほどの崇高で微妙な働きを持っているのです。