精神的な修養は八識を四智に転換することを目的とする
ここでは「三身四智」についてお話しします。三身とは法身・報身・応身をいい、もともとあらゆる有情に具わっていますが、悟りを得てはじめて円満に成就します。四智とは、八識の転じた四つの智慧、すなわち大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智のことです。これは仏教における根本的な教えです。業と煩悩に縛られた私たち凡夫は、もっぱら心・意・識の働きの中で生きています。ここで「心」とは第八の阿頼耶識(蔵識)、「意」とは第七の末那識、「識」とは第六の分別識をいい、この三つをまとめて心・意・...
ここでは「三身四智」についてお話しします。三身とは法身・報身・応身をいい、もともとあらゆる有情に具わっていますが、悟りを得てはじめて円満に成就します。四智とは、八識の転じた四つの智慧、すなわち大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智のことです。これは仏教における根本的な教えです。業と煩悩に縛られた私たち凡夫は、もっぱら心・意・識の働きの中で生きています。ここで「心」とは第八の阿頼耶識(蔵識)、「意」とは第七の末那識、「識」とは第六の分別識をいい、この三つをまとめて心・意・識と呼ぶのです。
最初の五つは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の感覚識であり、第六識から第八識までを併せて八識と称します。八識は「心王」と呼ばれ、五十一の心所法を伴いますが、これらについては『百法明門論(ひゃっぽうみょうもんろん)』に詳しく説かれています。
修養の要諦は、八識を四智に転換することにあります。では、どこから手をつければよいのでしょうか。分別の想念と執着を断つところから始めるのです。
第六識は分別識です。私たちは何か一つの現象に接するやいなや、ただちに善悪・美醜・是非・大小を判断してしまいます。このような分別の働きこそが、迷いの「遍計所執性」と称されるものです。この分別を、分別を超えた覚知へと転じなければなりません。分別を離れるとは、あらゆる二項対立を超越することであり、自性の根底においては、そもそも価値判断など存在しないのです。
第七識は末那識であり、その本質は執着にあります。末那識は虚偽の自我像に執着し、阿頼耶識の能縁の分を自我と見なして、前六識を自我が用いる道具として扱います。そのため末那識はまた「伝送識」とも呼ばれます。『華厳経』には、お釈迦さまが悟りを開かれた後に最初に発せられた言葉として、次のように記されています。「奇なる哉、奇なる哉。地上のすべての有情は如来の智慧と功徳を本来具えているが、分別の想念と執着ゆえに、この真理をさとることができない。もし分別と執着を捨て去れば、本来の自然智・一切に遍満する普賢智・無師智は、ただちに現前するであろう」。
このうちの分別は第六識に対応し、執着は第七識に対応します。すなわち修行のすべては、分別の想念から離れ、執着を解き放つことにほかなりません。分別を超越すれば、第六識は妙観察智に転じます。この智慧は般若の崇高なる働きであり、お釈迦さまが法を説き経を解き示されるとき、この妙観察智をもって、一人ひとりの有情の異なる資質と適性を見極め、それぞれに応じた法を説いてゆかれます。迷いの分別による見極めは行わず、すべての現象を完全・円満に知りつつも、誤った分別の見解を起こしません。こうして第七識が平等性智に転ずるのです。
ここで言う「平等」とは空性の道理のことです。「一相(統一され、差別を離れた本質)」と称されるものこそ真の平等であり、この一相とは無相の相、すなわち空性の本質をいいます。空性・無相の相・そしてこの一如の性質をさとり得てこそ、はじめて平等性を成就し、この識の転化を円満に遂げることができるのです。
第六識と第七識が因位(まだ悟りを得ていない菩薩道の修行段階)において転ずれば、第八識は果位(完全な仏陀の境地)において自然に大円鏡智に転じ、最初の五識は成所作智に転じます。この転識成智(認識と知覚の枠組みを根本から転換すること)は、自力のみで成し遂げるには極めて困難な道です。
たとえば、すべての分別の想念を無理に押さえつけようとすれば、かえって「分別しない」という思いそのものに執着してしまい、その執着自体が新たな二項対立を生み出します。空性に心を集中させようと努めても、空性という概念そのものに執着してしまいます。実のところ、空性への執着すら手放さねばならず、空性の観念的な相ですら執着してはなりません。だからこそ、凡夫にとってこの道はいかに厳しいものか、おわかりいただけるでしょう。しかし、もし阿弥陀仏の西方極楽浄土に生まれることができたなら、仏の未来における成仏の記別を聞き、十方諸仏の加護と威力を蒙るだけで、八識は四智に転換します。これこそが、仏の大悲と威神力のなせる業です。