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林崇安教授:禅定の理論と実践 — 第六講:無我を観ずる

【要點】: 法随観(Dhammānupassanā、諸法の観察):寂静を確立したのち、無我を観ずることは苦を終わらせる道である。

禅定の理論と実践 第六講

無我を観ずる

【要點】: 法随観(Dhammānupassanā、諸法の観察):寂静を確立したのち、無我を観ずることは苦を終わらせる道である。

【経典出典】: 南伝『相応部』『蘊品』第八三経。

(一)如是我聞。ある時、尊者アーナンダはサーヴァッティーの祇園精舎、給孤独長者の園に滞在しておられた。

(二)そこで尊者アーナンダは比丘たちを集めて呼びかけた。「友人たちよ、諸比丘よ。」「はい、友よ」と比丘たちは答えた。

(三)尊者アーナンダは言った。「尊者プンナ・マンターニプッタは、私たちが新たに出家したとき、大いなる利益の源であった。その方は次のように説かれた。

a 『アーナンダよ、友人よ、「我」という思いは、ものに執着するからにのみ生じる。執着しなければ、生じることはない。「我」という思いが生じるために、私たちは何に執着するのか。生じないためには、何に執着しないのか。色に執着するからこそ、「我」という思いが生じる。執着しなければ、生じることはない。

b 受・想・行・識に執着することによって、「我」という思いが生じる。執着しなければ、生じることはない。

c アーナンダよ、友人よ、たとえば身を飾ることを好む若い男あるいは女が、清らかで明るい鏡や澄んだ水鉢に映る自分の姿を見るようなものである。執着するからこそ、その映像が見えるのだ。執着しなければ、見ることはない。

d それと同じように、アーナンダよ、色に執着することによって「我」という思いが生じる。執着しなければ、生じることはない。

e 受・想・行・識に執着することによって、「我」という思いが生じる。執着しなければ、生じることはない。

f アーナンダよ、友人よ、どう考えるか。色は常住か、無常か。』『無常でございます、友よ。』

g 『受・想・行・識は常住か、無常か。』『無常でございます、友よ。』……

h 『……それゆえに、正しい智慧をもって観察し、あるがままに見るべきである。「これは私のものではない、私はこれではない、これが我ではない」と。比丘たちよ、このように観ずる多聞の聖弟子は、色に厭い、受・想・行・識にも厭う。厭い、貪りを離れ、貪りを離れて解脱し、解脱すれば解脱の知見が生じる。「生は尽き、梵行はすでに住し、なすべきことはなしおえ、もはや後有なし」と。』

(四)「尊者プンナ・マンターニプッタは、私たちが新たに出家したとき、大いなる利益の源であった。その方はまさにこの教えを説かれ、その方からこの法の開示を聞いて、私は自ら法を現証したのである。」

【経典の解説】: 我見の差別相

(一)補特伽羅我執(Pudgala-ātma-grāha)の生起: これは我慢の根底となる分別我見である。自分や他者の身体を観るとき、常住の実我があると捉える見解である(注:これが人我執の起因となる)。この二種の我見から、我慢が生じる。

清らかな円鏡を思い浮かべよ。鏡に映る顔の姿を基に、心の中に自己のイメージが生まれ、その自己イメージから、他者と比べて自分が劣っている、等しい、あるいは勝れているという思いが生じる。

このように、誤った分別によって、自分の身体に基づく我見を縁として、他者の身体に基づく我見が生じる。形あるものからその映りが生まれるのと同じである。さらにこれを縁として、b 我慢が生じる。つまり、他者と比べ、自分が勝れている、等しい、あるいは劣っているとみなすことになる。

(二)法我執(Dharma-ātma-grāha)の生起: 我慢を生じさせる倶生我見は、上記とは異なる比喩で説かれる。視力の明晰な人が清浄な水の器を覗き込み、自分の目や耳が映っているのを見るようなものである(注:これが法我執の起因となる)。

(三)善説の法にのみ依拠する: 一切の有身見(satkāya-dṛṣṭi)は、善く説かれた法と律に依拠することによってのみ、永遠に根絶できる。他のどんな邪教によっても、除くことはできない。

(四)報恩: それゆえに、如来、および広く尊敬を集める梵行の同行者たち――上首の弟子であれ、同参道友であれ――は、極めて大きな慈悲を具えておられる。このただ一つの理由から、大師に対して、あるいは大師の滅後に梵行の同行者たちに対して「真実に報恩する」とされるのである(注:この法を四衆に説くことによって)。

さらにもう一つの報恩の道がある。もしこうした意義の分別に忠実に従い、利益のために精進して道を実践できるならば(注:法眼の清浄を証得するため)、これもまた「部分的な報恩」とされる。求めている目的をまだ証得していないからである。