林崇安教授:法句経要義
『法句経要義』
『法句経要義』
林崇安
I. 序
『法句経』は、仏陀在世中にインド全土で伝えられた仏教偈頌の集成である。支謙(225年頃)は次のように語っている。「インドで修行を始めた者のうち、『法句経』を学ばない者は、正しい修行の順序を踏まぬと言われる。これは初心者のための大きな渡場であり、さらに進んだ者のための深い宝庫である。無知の者の目を開き、疑いを解き、人をして自ら立たしめる。学ぶに要する労力は僅かだが、包含するところは広大である」。正法への明確な入り口を求める者にとって、『法句経』はまさにその玄関口である。仏陀の教えは十二の部門に分類される。(1) 経(sūtra)、(2) 散文と韻文の混合(geya)、(3) 解説(vyākaraṇa)、(4) 偈頌(gāthā)、(5) 自説(udāna)、(6) 因縁譚(nidāna)、(7) 譬喩(avadāna)、(8) 過去事記(itivṛttaka)、(9) 本生譚(jātaka)、(10) 広大説(vaipulya)、(11) 希有法記(adbhutadharma)、(12) 論説(upadeśa)。『法句経』はそのうちの「自説(udāna)」の部門に属する。以下では、まず『法句経』がどのように形を成し、仏陀入滅の後にどのように結集されたのかをたどってみたい。
II. 法句経の形成
仏陀は悟りを開いた後、まず五比丘に『転法輪経(Dhammacakkappavattana Sutta)』を説き、のちに六十賢人をはじめとする人々を道に導いた。これらの弟子たちは阿羅漢果を証した後、インド各地を巡って法を弘めた。教えを伝えやすくするため、彼らは仏陀の説かれた教えを集め、経典として流布し始めた。最初に唱えられたのは、韻文形式の自説(udāna)と偈頌(gāthā)であった。もう一つの形式は、散文による経(sūtra)で、末尾に韻文の重頌(geya)が添えられることもあった。『根本説一切有部毘奈耶薬事』には、シュルーパーラカの商人プールナが仲間の商人たちと共に海に出た際、商人たちが折に触れて仏陀の偈頌や経を唱えていたと記されている。
昼夜を分かたず、それらの商人たちは絶えず『自説偈』『長老偈』『尸蘭尼偈』『仙人偈』『義聚』『経』を、清く美しい声で唱えていた。プールナはそれを耳にして「あなたたちは美しく歌うのだね」と声をかけた。商人たちは「商人よ、これは歌ではありません」と答えた。プールナが「ではこれは何の言葉ですか」と問うと、商人たちは「これは仏陀の言葉です」と答えた。(T24、11b)
商人たちが昼夜唱えていた『自説偈』は、韻文形式の「自説(udāna)」にあたる。『長老偈』『尸蘭尼偈』『仙人偈』『義聚』は、韻文形式の「偈頌(gāthā)」である。『雑阿含経』(異訳)にも、次のように記されている。
その時、尊者アヌルッダは仏陀に従って跋耆国の庵摩羅女園に至った。真夜中、アヌルッダは起き上がり、端座して『法句経偈』『彼岸(Pārāyaṇa)』『大仙偈』を、経と共にその趣旨を声高く唱えた。(T2、480c)
これは、仏陀の十大弟子の一人であるアヌルッダが、一日の始まりに『法句経偈』などの経典を唱えていたことを示している。『法句経偈』は韻文形式の「自説(udāna)」に分類され、『彼岸(Pārāyaṇa)』と『大仙偈』(=『長老偈』)は韻文形式の「偈頌(gāthā)」にあたる。ここから、仏陀の弟子たち—先の商人たちのような在家者も、出家修行者も—が、自説やその類いの経典の唱えを日課とし、中心的なテキストとして『法句経偈』を用いていたことがうかがえる。
「自説(udāna)」とは、仏陀が日常の出来事に応じて即興で唱えた偈頌を指す。『法句経』の偈頌は、説法の際に生まれたこうした即興の偈であって、したがって「自説」の部門に属する。『阿毘達磨大毘婆沙論』には、次のように説かれている。
自説とは何か。それは、世尊が喜ばしい出来事や悲しみに見触れて、自発的に説かれた経を指す。喜ばしい出来事の例として、ある時、野生の象王をご覧になった仏陀が、即興でこう唱えられた。「象王は荒野に住み、心は安らかで憂いがない。賢者は静かな林に住み、満ち足りて静かなり」。悲しい出来事の例として、ある時、老いた夫婦をお見かけになり、こう唱えられた。「若き日に聖なる行を修めず、聖者の財宝を失う。今は二羽の老いた鶴の如く、共に一つの枯れた池を共有している」。(T27、660a)
これらの自説は、きわめて早い時期から伝えられていた。『雑阿含経』には、仏陀が『自説偈』を説かれた様が記されている。
ある時、仏陀は毘舎離の耆婆の庵園に滞在されていた。『自説偈』をすべて説き終えてから、世尊は尊者阿難に告げられた、「眼は無常であり、苦であり、変りやすいものである」と。(T2、52b)
今日伝わる『法句経』の南方伝承と北方伝承の双方に共通して残る中核部分から、仏陀の時代にまとめられた『法句経偈』は「双(ヤマカ)」から「梵志(ブラーフマナ)」までの全二十六章からなり、仏陀の晩年にはインド全土で唱えられていたことが推測できる。これは、唐の時代に中国で『唐詩三百首』が広く迎え入れられたのと似た広がりであったかもしれない。
要約:全二十六章の『法句経偈』=初期集成[A