三心の発起と専修・雑修について
善導大師は『四帖疏』の中で、特に二つの箇所で極めて精妙な文章を綴られた。一つは「深義釈」の段であり、もう一つは「最勝処」の段である。とりわけ、「浄土に生れんと願う者は必ず三心を起こさねばならない」として、三つの心について詳しく説かれている。第一には至誠心、第二には深心、第三には迴向発願心である。
善導大師は『四帖疏』の中で、特に二つの箇所で極めて精妙な文章を綴られた。一つは「深義釈」の段であり、もう一つは「最勝処」の段である。とりわけ、「浄土に生れんと願う者は必ず三心を起こさねばならない」として、三つの心について詳しく説かれている。第一には至誠心、第二には深心、第三には迴向発願心である。
三心の釈の後、大師は専修と雑修の利害得失について特に論じ、専修を強く勧められた。専修とは、五正行を行うことである。読誦は浄土三部経を読み誦し、礼拝は阿彌陀仏を拝し、讃嘆は「南無阿彌陀仏」の名を称し、観察は西方極楽浄土の荘厳と功徳を観じ、供養は西方三聖に供養を捧げる。これがすなわち専修である。
そして専修の中でも、主たる行として一つが挙げられている。すなわち仏号の称名である。残りの四つは助行と呼ばれる。この正行と助行を併せて正助二行という。この二種の行以外のすべての修行は雑修と称される。雑修とは心が散乱し定まらない修行のことであり、これによる往生は決して確実ではない。ここに専修が重視される所以がある。
百人が専修すれば百人とも往生し、万人が修すれば万人とも往生する。しかし雑修となると、その割合は著しく下がる。これが「雑」の意味である。
この教えは、揺るぎない堅固な信心を起こさせるためのものである。多くの人は、たとえこの信じがたい法門を聞き、いくらかの信心を起こしたとしても、たやすく揺らぎやすいのが実情である。
もしまた、経蔵の諸宗各派に精通した大善知識に出会い、その師がこう言われたとしよう。「あなた方は仏号を称えるだけで往生できるとお考えですか。そんな簡単なはずがありません。禅定を修し智慧を開かず、功徳を積まねば、どうして往生できるでしょうか。あなた方は実報荘厳土、すなわち報土に生まれんと願っておられる。そこには一切の諸上善人と共に聚まるのです。あなた方のような重い業障を抱え、何一つ修していない者に、そんなうまい話がありましょうか。どうして往生できるはずがありましょう。別の方法を教えて差し上げましょう」―― このような言葉を聞いた人々は、往々にして揺らいでしまう。「ああ、やはりそんなに簡単なことではないのかも知れない」と。
近年、よく聞く言葉に「まず業障を消除しなければならない!業障が消除されなければどうして往生できようか」というのがある。この理屈は一見もっともらしく、聞けばなるほどと思わせる。さて、どうやって消除するのかと問えば、「ここに真言を授けましょう。何百万遍と唱えれば、業障が消除される。その上で仏号を称えなさい」となる。それで人々は真言を唱じに出かけ、結局は迷わされることとなる。
彼らは、この阿弥陀仏の名号こそが、業障を消滅させる最も勝れた方便であることを理解していない。一体誰が、業障が消えてから阿弥陀仏を称えるように教えたと言うのか。そんな考えを抱く限りは、一生この阿弥陀仏の名号を称えることなど到底できない。それに、一生マントラを唱えるだけで、本当にすべての業障がなくなるものだろうか。決してそのようなことはない。名号を称える行は、業障が残っているか否かに依るものではない。業障が残ったままで往生できるのだから。五逆罪と十悪の罪を犯した者ですら、往生の時にはその罪業を携えて往生できる。何も恐れることはない。恐るべきは、ただ信心の欠如だけである。恐るべきは、疑いを抱くことだけである。浄土の道を修める上で最大の障害は、疑いである。これは、あらゆる宗派の教えに通暁した大善知識にめぐり逢った結果である。
もしあなたが、法身の大士、あるいは初地から十地までの菩薩、さらに等覚の菩薩にお会いしたとして、その菩薩があなたにこう告げたら、あなたはどうなさるだろうか。「あなたはこの法を修めて、ただ仏の名号を称えるだけで往生できると思っているのか。そのようなことは決してあり得ない。決してそんな簡単なことではない」と。あなたはこのように思うだろう。「これらはすべて菩薩の仰せられることだから、もしかすると、本当にそんな簡単な道はないのかもしれない」と。
たとえ釈迦牟尼仏ご自身が現れて、こう仰せになったらどうだろうか。「おお!私が元来説いた浄土往生の法は、ただの方便の教えにすぎなかった。今、ここにはるかに勝れた至高の法がある」と。このような言葉を耳にしたとしても、真実の信心と誓願を確立した人であれば、仏にひざまずいてこう申し上げるだろう。「世尊釈迦牟尼仏!あなたがお教えくださったこの法に対し、私は生涯決して改めることのない誓願をすでに立てております。たとえそれより勝れた法があるとしても、決してもとの誓願を変えるつもりはございません」と。このような言葉を口にできるなら、それは真実の信心を具えている証拠である。それはすなわち、あなたの心の奥底に、揺るぐことのない深い善根がしっかりと根を下ろしているということである。眼の前の仏や諸祖といえども、これを揺さぶることはできず、ましてや凡夫などに揺るがされるはずがない。
善導大師は、未来の衆生が疑いを抱くことを予見された。いうまでもなく、釈迦牟尼仏がそのようなことを仰せになるはずはない。これを善導大師が、極端に押し進めた仮定の状況として提示されたのである。すなわち、「たとえこのような状況になったとしても、あなたの誓願を揺るがしてはならない」と。これは、未来の衆生が、常に今立っている山よりも向こうの山のほうが高いと思い込んで、次々と移ろう計らいの心を断ち切るためである。完全に断ち切ってしまうのだ。
そう、未来の衆生が常に今立っている山よりも向こうの山のほうが高いと見なし、次を求めて移ろう計らいの心を断ち切るのである。完全に断ち切る。これが浄土門の行者にとっての羅針盤である。仏の名号を称える修行の途中で、仏教の諸宗派の教えや、ありふれた気功師の主張に誘われ、それに飛びつくようなことがあれば、まことに哀れなことである。信心の善根のかけらもない。何と嘆かわしいことか。
したがって、皆さんには善導大師の観経四帖疏を隅から隅まで読み通し、理解し親しむことが肝要である。この観経四帖疏は、善導大師が夢の中で婆羅門の僧より導きを受けて著されたもので、仏の金口と同等のものと心得るべきである。これはまさに我々浄土門の聖典の中の宝である。他の書物を漫然と読み散らすようなことはせず、真に価値ある経論に集中すべきである。
仏法の肝要な点はそれほど多くはない。阿弥陀経要解、観経四帖疏、阿弥陀経疏の三つを、骨の髄まで読み通して熟知さえすれば、それで十分である。
観経には他にも注釈書がある。例えば妙宗鈔などである。まず天台宗の智者大師が観経の注釈を著述され、その後宋代に入り、四明知礼大和尚がその疏を著された。これは天台宗の一心三観・三諦円融の教理の立場から注釈されたものである。その観法の理論と方法はきわめて精妙で、円満に調和しているが、中根以下の人にはなかなか入門しがたい。
したがって、三根すべての人を遍く利益し、利根にも鈍根にも等しく利益を施す善導大師の観経四帖疏ほどには平易ではない。そこで印光大師もまた、きわめて機宜にかなった形で、ただ善導大師の観経四帖疏を専ら学ぶべきだと教えてくださっているのである。