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求める心なきところに、富は自ずと至る

これは『法華経』の核心的教学です。なぜ貧しい息子が「方便を実相に融会し」、長者の全財産を相続できるのか。鍵は「求めずして得る」にあります。

これは*『法華経』*の核心的教学です。なぜ貧しい息子が「方便を実相に融会し」、長者の全財産を相続できるのか。鍵は「求めずして得る」にあります。

皆さん!初めて法を実践するとき、心は「何かを得たい」と囚われています。道の第一歩を踏み出すには、そうした思いが必要なのです。

煩悩や業の力に直面したとき、私たちはまず「解脱を求める」気持ちから、満足のいく結果を求めます。たとえば極楽浄土に生まれ変わること、小乗の一方空の涅槃を証得することなどです。

つまり、三界の輪廻を離れたいなら、自分を奮い立たせるだけの意味ある理由を見つける必要があります。「三界を離れる理由はない」というなら、永遠に離れられません。凡夫である私たちは、実践への志を起こす目標がまず必要だからです。

しかし解脱から仏道へ進むとき、もはや外側に覚りを求めることはできません。焦点は「清らかな心に安住する」ことに移ります。たとえば今、長者の家の全財産を預かる貧しい息子には、ふたつの道があります。給料目当てで働き続けるなら、一生「雇われ人」です。屋敷の管理者や家事の統括者に出世したとしても、給料をもらうかぎり、長者の実の息子とは言えません。

「求めずして得る」とは、貧しい息子が当初は欲しいものがあってその家に働きに来たのに、後になって「求めない心」こそが最も完璧な状態だと悟ることです。求めることに執着しなくなれば、涅槃への執着も消え、「真如の自性」が本来そなえる功徳の力が、まことに現れます。

かつてある禅師が別の禅の祖に問いました。「祖師が西から来られた意図は何か」——つまり、禅の核心的な実践方法は何か、ということです。祖は答えました。「あなたと関わるものが、それだ!」なんと見事な言葉でしょう。これはまさに「求めずして得る」の本質です。たとえば仏名を唱えるとき、仏名が心に現れます。皆さん!仏名と響き合っているのは誰ですか?口が名を唱えているのではありません。心の一つの念が仏名と響き合っているのです。

この論理は真言を唱える場合にも同じく当てはまります。「あなたと関わるものが、それだ」。心の中で真言を形作っていると言うかもしれませんが、真言と響き合っているのは誰ですか?真言を唱える心、つまりあなた自身の心が真言と響き合っているのです。ではなぜ阿羅漢が「求めずして得る」のか。阿羅漢は小乗の一方空の涅槃の静寂を喜ぶからです。「あなたと関わるものが、それだ」——では「涅槃の静寂」と響き合っているのは誰ですか?阿羅漢の今の心であり、そこにこそ「無量の宝」が宿っているのです。

もちろん仏道を歩む上で、「願求」の段階は依然として必要です。凡夫が初めて苦しみに直面したとき、私たちは「願求」の実践によって苦しみから解放されます。これを解脱道と呼びます。解脱道とは、この願求が実践の原動力となる道です。しかし解脱道から菩提道へ進むとき、まだ求めることに執着しているなら、完全な覚りは得られません。

たとえば私たちは当初、極楽浄土の荘厳な環境やそこに住む人々の素晴らしさに憧れて念仏を実践し、三界を離れて西方浄土に生まれることを目指します。でも、断言できます。極楽浄土に到着すれば、心は必ず変わるものです。願求の実践で生まれるのは事実ですが、到着後、すべての求めることを手放してこそ、完全な覚りが得られるのです。

これが*『法華経』*の一乗の教えが、方便と実相の両方の不思議さを説く理由です。今はまだ輪廻の迷いの中にある凡夫として、当面の目標が解脱であるかぎり、願求の実践が必要なのです。

『法華経』の譬喩品も信解品も、「方便を先、実相を後」という順序です。つまり先に「願求」、後に「求めずして得る」——。一方*『薬草喩品』*の内容はこれらと異なります。仏陀が最後に説かれた総括的な教えであり、より高次の教えだからです。

譬喩品と信解品で示された「方便を実相に融会する」教えを修めたあと、私たちはまず方便を実践して解脱を証得し、次に方便を実相に融会して菩提道へと進みます。これが二段階の実践の道です。

一方*『薬草喩品』*は、実相への洞察と実践的修行を同時に修めることを説いています。そうすることで、実践のまさにその瞬間に「方便と実相は不二」となるのです。解脱道における「煩悩の調伏」と、菩提道における「清らかな心に安住する」を、一体化した一つの実践に統一する教えです。

先に説明したのは「方便を実相に融会する」という教え、*『薬草喩品』*が説くのは「方便と実相の不二」です。実践者である私たちにとって、この二つの教えを学び実践する鍵は、そのバランスにあります。つまり願求という方便と、無求から生じる真心とのバランスをどう取るかは、各人自身が見出さなければなりません。

要するに、貧しい息子がよそ者の雇われ人から「屋敷の管理者」や「家事の統括者」という最高の地位へ昇り、ついに一家の全財産の「相続人」となる鍵は、「無求自然」の四文字にあります。内なる求める心がなかったので、財産は何の苦労もなく彼のもとに来たのです。法を実践する上で、最終的には心が因果の法則への執着を超えなければならないということです。「実践の報いを求める」かぎり、完全な覚りは得られません。

浄界上人*『法華経』*講義