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大自在を得る

青天の雲、瓶中の水。

青天の雲、瓶中の水。

定州の太守・李藹は、かねてより薬山の深い教えを聞き及び、何度も招いたが、薬山はついに来なかった。そこで李藹は自ら訪ねて行った。薬山は経巻を手にしたまま座っており、顔を上げる様子もない。従者が「太守のお見えです」と告げた。血の気の多い李藹は、「お目にかかったところで、評判に値せぬ」と言い捨て、袖を払って踵を返した。薬山が背に声をかけた。「太守、なぜ耳を尊び、目を賤しむのか」。李藹は振り返り、平謝りに詫びて、「道とは何か」と問うた。薬山は上下を指さして、「分かるか」と言った。李藹「分かりませぬ」。薬山「青天の雲、瓶中の水」。

李藹は大いに感じ入り、深く礼拝して一偈を述べた。

鶴のように痩せ細り身は修まり、 千松の下の一巻の経。 道を問うて来たり — 余計な言葉は要らぬ、 青天の雲、瓶中の水。

李藹は重ねて問うた。「戒・定・慧とは何か」。薬山「そんな閑家具は、この老僧には用がない」。李藹にはその意味が掴めなかった。薬山は言った。「この事を己のものにしようと思うなら、最高の峰に立ち、最も深い海底を歩まねばならぬ。捨て難いもの — 心に最も近いものさえ — 漏れとなる」。

公案の評唱

瓶の中の水は、ただの水である。器に従って形が決まり、丸い器に入れば丸く、四角い器に入れば四角い。入れ物によって縛られている。だが、空の水は雲となる — 自由で束縛がなく、風の吹くままに漂い、思いのままに形を変える。これが「大自在を得る」ということである。とはいえ、瓶の中の水が空の雲となるには、蒸発して昇るという試練を経ねばならない — これは修行者の譬えである。悟りを得ようとする者は、たゆまず精進し、あらゆる艱難に耐え抜かねばならない。

道の戒・定・慧は、己の身心のうちに在るもので、ほかに求められるものではない。悟りの中にあって増さず、迷いの中にあって減らない。わたしの悟りがあなたの悟りに代わることはなく、わたしの迷いがあなたの迷いに代わることもない。戒・定・慧がわたしたちの本性に宿っているとはいえ、それがそのままあなたのものになるわけではない。ここから容易に察せられるように、悟りたる仏性はすべての人に円満具足し、等しく隔てがない。だからこそ、薬山の「閑家具には用がない」という言葉はまさに的を射ている。李藹が会得できなかったのは、ほかならぬ「閑家具」という字面に執着し、戒・定・慧がどうして捨てられるものだろうかと思い惑ったからである。無理もない。字句の表面に囚われて文字を離れられないのでは、儒学すら修められない — ましてや禅の活きた心髄に徹することなど、到底かなわない。

薬山は李藹に警告した — 捨て難いもの、心に最も近いものさえ、漏れになる、と。食欲も欲望も人の本性であり、誰も免れることはできない。だが、真に価値ある品格を養うには、高潔な節操と清らかに気高い意志を持ち、言行を一致させ、艱難を恐れず、身を捨ててかかる覚悟が要る。これが薬山の言う「最高の峰に立ち、最も深い海底を歩む」ということにほかならない。

近代の学者・王国維は『人間詞話』の中でこう述べている。「古今を問わず、大業を成す者は、必ず三つの境地を経ねばならない。『昨夜西風凋碧樹 独り高楼に登りて天涯の路を望み尽くす』 — これが第一の境。『衣帯漸く寛しと雖も終に悔いず 為に伊が為に消得して人憔悴す』 — これが第二の境。『衆裏に他を尋ねること千百度 驀然として回首すれば 那人は却って灯火闌珊の処に在り』 — これが第三の境」。

江陰竹堂の保俶塔主はこう言った。「禅を悟らんと欲すれば、心性を明らかにし、言行を斉しくして、彼岸に到れ。世に事を成さんには、遠き志を抱き、艱苦を嘗めて、成功するなり。この両者は、一つの軌をたどるものと言えよう」。