出離心を呼び覚ます
龍樹大師は慈愛に満ち、深く真摯に、この一点をあらゆる角度から繰り返し説いてくださいました。その唯一の願いは、私たちの心に娑婆世界への深い厭離と、極楽浄土への希求を芽生えさせてくださることでした。
龍樹大師は慈愛に満ち、深く真摯に、この一点をあらゆる角度から繰り返し説いてくださいました。その唯一の願いは、私たちの心に娑婆世界への深い厭離と、極楽浄土への希求を芽生えさせてくださることでした。
無数の劫を経て、私たちが五欲六塵の迷いの中を、愛と憎しみ、自と他、是と非の狭間でさまよい続けてきたことを思えば、出離の心を起こすのがいかに難しいか、思い知らされます。それゆえ諸祖師や大徳たちは、仏の正説を拠り所とし、自らの修行と悟りの功、覚性の力をもとに、凡夫である私たちの心に、この解脱への希求を焚きつけようと努めてくださるのです。
実は、すべての衆生は仏性を具えています。仏性を具えるとは、解脱への希求が私たちの内に本来備わっているということなのです。
そもそもこの「出離」とは、どのような心なのでしょうか。時には厭離・離欲とも呼ばれます。なぜ私たちが厭離の念を抱く必要があるのか。それは私たちが清らかな仏性を具えているからです。その仏性が少しでも顕現すると、私たちは自然と自らの身も心も、周りの世界の一切が汚れや穢れに満ちていることに気づき、これらに執着する価値はないと深く認識するようになるのです。私たちがこの世に授かった命を全うし、すでに具えている仏性に応えるには、無生無滅の清らかな境地、つまり涅槃そのものに人生の根を下ろすほかないのです。あの清らかな涅槃の境地こそ、私たちの存在の真の価値が宿る場所であり、あらゆる福徳と安らぎの源なのです。
この厭離の念こそ、衆生が本来持つ、幸福を求め苦を避けようとする根源的な欲求そのものなのです。しかし多くの場合、この欲求は分別心、我執、煩悩によって覆い隠されてしまうのです。それゆえ長い時を重ねるうちに、私たちは出離の心を起こすのがこれほど難しくなってしまったのです。
私たちは五濁悪世において、求道の決意がまさにこの出離の心を通して表れるのだということを悟らなければならないのです。そしてこの出離の心こそ、般若の智慧の現れなのです。この出離の心があるからこそ、仏性を根幹としたものの見方が生まれ、真の出離の心が起こるのです。
日々を過ごす人々は、不運や苦難に見舞われ、人生そのものに意味がないと感じ、自殺さえ考えてしまうことがあります。しかし、人を自らの命を絶つように駆り立てるのは、出離の心ではなく、絶望なのです。出離の心を持つ人には希望があります。彼は素晴らしい到着の地、足を運ぶ価値のある場所があることを知っているからです。絶望する人には、そんな展望はありません。
ですから、これらの祖師や大徳たちの教えに触れるときは、自らの出離の心を醒ましましょう。そして私たちは、これらの教えのすべてを自らの仏性に還し、真に理解すべく努めなければならないのです。